傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

「純粋な観賞」は可能か

背景知識を排除すればコンテンツを単体で楽しめる、っていうのは、うーん、どうだろう。ちょっと違う気もします」
彼はそう言い、少し考えてから訊く。
「たとえば、エヴァ破は観ましたか?」
みたみた、と私は答える。よかったよねえ、私、泣いちゃった。
「うん、あれは泣く。でも、あの感じって、テレビシリーズが前提にあるんじゃないかと思うんです。心のやわらかい十代のうちにテレビで観て、それから『破』を観た人が多いわけですよね」
私はうなずく。世代でいうと、今の二十代半ばから三十代半ばまではテレビシリーズを通過していることになる。
「映画が良かったと思う気持ちの一部は、『十年前とくらべて、みんななんて立派に……』みたいな感激だと思うんです。いきなり観たらあのシンジって、ただの立派なヒーローですよ。ほかのキャラクタもみんな健気だし。だからもし単体で観たら、よくある成長物語だという側面が確実にあるはずです。追随する作品を観て育ったとしたら、なおのこと『こういうの見たことある』って思うはずだし」
私は感心した。なるほどねえ、頭いいねえと言うと、彼は、いいえ、俺の頭は凡庸です、と言った。
「ともかく、ちょっと極端かもしれないけど、能動的にそのジャンルにかかわっていなくてもコンテキストを無視できないという例ではあります。だって、映画もアニメもそんな熱心に観ませんよね?」
その通りだ。私は映像全般に疎い。
「大げさに言うと、僕らが時代の子であることを免れない以上、先入観なしにコンテンツを楽しめるなんてことはないんです。背景知識のあるなしにかかわらず、そのジャンル自体に飽きてすれっからしになっちゃうことや、関係する分野のプロになって仕事がらみのいやな感情を持ちこんでしまうことが問題なんじゃないですか。たとえコンテキストに敏感でなくても、さあ感動しよう、めいっぱい楽しもう、と思って、あらかじめ内面をちゃんと掃除しておかないと、どんなものも深くは入ってこないような気がする」