傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

まっとうであるとはどのようなことか

私の職場に非常にまっとうな感受性を持つ若者がいて、私は彼のすすめる映画はなるべく観るようにしている。
職場での会話は、美容師との会話に似ている。当たり障りのないことが必要なので、「こいつとはこの話」と決まったら、しばらくそれが続くのだ。私は彼に「こいつとは映画の話」と認知されたらしく、しょっちゅう映画の話が出る。
ある日、彼はすごく腹を立てていた。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観たのだという。
「なんですかあれは。なんというひどい映画。なぜ『私はやってません』と言わない。言えばいいじゃないか。死ぬ気になればなんでもできるだろ。だまって死ぬな、ばかやろう」
私はひどく感心した。私はあの映画を観て号泣したんだけど、考えてみれば、だまって死ぬのはやっぱり間違っている。なんという健全な感受性だろう、と私は思った。
まっとうであるとはどのようなことか、いろんな人がいろんな定義をする。私にとってまともであるということは、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観て本気で腹を立てるというようなことだ。そう思った。
彼は年末にこう言った。
「ちかごろはハリウッド映画でも善悪が複雑にからみあっててよくないです。いや、いいんですよ、深みのある映画になって。でもそんなのばっかりじゃ疲れちゃいます。『アバター』の悪役はいいですよ。出てきた瞬間『あ、こいつ悪役』ってわかる。もう顔からして悪役。そして案の定ひどいことをする。大虐殺とかする。うん、これだよ、これ、って思います。『アバター』いいですよ、ぜひ観てください。宇宙人が飛び出すので楽しいです」
それで私は『アバター』を観た。そうかあ、宇宙人飛び出すのか、そりゃ楽しいよね、と思って。