傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

Camera! Camera! Camera!

生まれてはじめてカメラを持ったとき、旅行以外に撮る場面が思いつかなかった。それで、写真が好きだという後輩に、なにを撮ったらいいかな、と相談したら、「なんでも撮ればいいんですよ」という。
なんでもって、たとえばどんなものを、と訊くと、彼は手元のMacを開いて説明をはじめた。

はじめてカメラを買ったのは高校を出るちょっと前なんです。
これは受験票を入試会場に置いたところですね。次は終わったあと。出たとこ。道。駅。いっぱいいますね受験生が。
飛ばしますか、これ入試の一週間後くらい。家にばあちゃんが来てる。こっちは高校の入り口。高校の廊下。高校の教室。これは田中です。え?いや別に友だちじゃないです田中は。わりとどうでもいいやつです。今これ見なかったらたぶん一生思い出してない。

日付で派手なの選ばないと退屈ですよね、入学式はこのあたりかな?これ講堂の外ですね。あと空。空、青いなあ。
近いの見ましょうか。これ先週の金曜日、ココイチでカレー食ってます。そうです駅裏の。あ、この靴はいてたのか、あんまりはかない靴なんだけど。この花は近所の。あ、これさっきだ、この建物の玄関、えっと、二時間前です。

彼はそんなふうに次々と写真を見せた。

私だけでなく、研究室にいた人たちがみんなびっくりした。量が尋常ではない。日付のラベルが毎日ぶんあって、しかもどうやら一日一枚ではない。
なにより、彼の写真には意図というものが感じられない。彼はなにも選んでいないのだ。「撮ったら叱られるものとか、誰かが見たときに叱られそうなものとか以外は撮りますよ。撮らない理由がないから」と彼は言う。

なんでまたこんなに無差別にとっておくのか、これをもとに美術作品を制作したりするのか、と訊くと(私には、よくわからない創造物はとりあえず現代美術だと解釈する安直な癖がある)、彼は「いや、ただ、おもしろいと思って」と言った。

もし彼の写真をスライドショーでずっと見続けたら変な感じがするだろうな、と私は思う。それは彼の記憶みたいなものだからだ。
私たちは語られる他人の記憶には慣れているけれども、意味づけされていない生の記憶には、決して接することがない。だからそれに近い彼の写真群を時系列順に見たら、きっと新鮮で、同時に気持ち悪いだろうと思う。

べつの後輩が「たまには見られる側に回るべきだよ」といってカメラを取り出すと、彼もすかさず自分のカメラを構え、向かい合わせにシャッタを切った。そうして自分の撮った写真を眺めて、「この写真に写ってるカメラの、このレンズに僕が映ってるんですよね」と楽しそうに言った。なるほど、カメラがあれば、彼はいつも見る側で、主体なのだ。