2010-06-01から1ヶ月間の記事一覧
妻がいつもお世話になりまして、と彼は言った。そういうのは慣用句だから、私は「いえいえこちらこそ」とこたえなければならない。彼の妻とは五年間連絡していなかったので、どう考えても「いつもお世話に」はなっていないんだけれども、そんな個別性は慣用…
それで彼女はどんな人だったんですか。私はパパイヤのサラダを取りわける彼の手つきを見ながら遠慮がちに訊いた。つまりその見た目とか、そういうのですね、えっと、可愛い人でしたか。 うちの会社のね、彼女より年上の部下に見せたら口をそろえて可愛いって…
友だちの家のPCの動作がおかしいというので見にいった。だいぶ古くて起動に十分もかかる状態だったので、さしあたり彼女が必要としているDVDの再生ができるようにクリーンインストールすることにした。 彼女の仕事用の携帯電話が鳴り、彼女は私にことわって…
ひとりで本を読んで終わったら次の本を読んで、それが楽しくてずっとそうしてきたんだけれど、どうしてかこのところひとりで黙って読んでいるとさみしい。さみしいというのはつまり他者を求めているということで、だからいろんなところがうっすらとさみしい…
彼は見て見て、と言い、一枚のプリントアウトを差しだした。私はそれを熟読して、すごいねえと言った。人の奥さんに手を出すなんて、意外ともてるんだねえ。あと悪いことしてお金いっぱいもらってるみたいだから今日おごって。 彼はふふふと笑ってその紙を元…
彼女はそのとき駆けだしの教師で、小学校四年生を担当していた。教室に入っていくと子どもたちのざわめきが急激に収斂し、教卓に立って視線を送るとさらに小さくなった。小さい机、小さい椅子、小さい靴。よく動く不安定なからだ。子どもがいっぱいいるのを…
なんでずうっと体育会系だったの、と私は訊いてみた。命令とかされてつらい思いするじゃない、なんか、怒鳴られたりして。 彼はしばらく考え、練習すればうまくなるのって気持ちいいから、とこたえた。 ほかにすることないし、きつくても別にいいやって。い…
彼女は駐車場で枕を見つけた。車がタイヤを接して停めるための部分だ。車の下にからだを潜らせて首だけを出す。布団の中のようにあたたかくはないけれども、何もないよりはるかによかった。彼女はなにかにくるまったり狭いところに入りこむのがことのほか好…
私たちは消耗していた。疲弊してうんざりして早く帰りたかった。でも遠方で仕事をしていて、帰るのは翌日だった。私たちは駅前のファミリーレストランに入った。私は彼女のことが好きではなかった。彼女もたぶんそうだったと思う。私たちは互いの職掌の上で…
友だちの赤ちゃんを見せてもらいに家に行くと、これから姉も来るんですって、と友だちが言う。一緒にごはん食べてってよ、うちの姉おもしろいから、ぜったい気に入るよ。 赤ちゃんは抱いたまま立っているとご機嫌で、座るとぐずりはじめる。それで私は気の利…
隣の部屋から乱痴気騒ぎの音が聞こえる。彼は耳に詰めこんでいた耳栓を引っぱりだした。声と音が立体的にふくらんで彼にまとわりついた。度を超えた騒音の前で、耳栓は無力だ。ノイズキャンセリングヘッドホンは人の声に利くんだろうか。試してみようとして…
ばれた、と彼は言った。なにが、と私は訊いた。実は半年ばかり浮気しててさあ、と彼は言った。私は適当に相槌をうち、エスプレッソのエキストラショットを入れたカフェラテをのみながら彼の話を聞いた。 彼には一年ばかりつきあっている恋人がおり、その人と…
腐乱死体になるのが怖いと彼女は言う。離婚を考えていると話して、そこからほとんどひといきに、でも将来孤独に死んで誰にも発見されずに部屋で腐るのがいやだと言う。 私はその話にいまひとつ乗れずに、腐乱したってまあいいじゃないと言う。だって死んだら…
きつね目の男っていたでしょう、と彼女は言った。みんながちょっと視線を泳がせた。ああ、昔の事件のね、とひとりが言った。そう、あの似顔絵の、と彼女は言う。 私あれがすごく怖いの、どうしてかわからないんだけど、今でもときどきテレビにあの似顔絵が出…
一冊のノートを買った。ちょっと上等な紙を使ったきれいなノートだ。表紙はあざやかな赤を基調としたデザインで、八つになる女の子向けに作られた商品ではないけれども、私は彼女の親ではないから、年齢にそぐわないものをあげてもかまわないと思った。 お誕…