傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2010-05-01から1ヶ月間の記事一覧

少し忘れた

彼女の息子は私と目があってもお母さんのスカートの後ろに隠れようとしなくなった。初対面から一時間、それなりに認知されたようだ。彼女はそうねもう大丈夫かな、ちょっとだけ見ててもらってもいい、と言った。もちろんと私はこたえた。 五歳になったばかり…

速度と孤独

少人数の遠慮のないミーティングだった。私たちは考え、話し、聞き、訊いた。ホワイトボードの前にひどく耳の良い人がいて、四色のペンを駆使して議論の骨子をきれいに書き留めた。 ひとりが口をひらくと、私たちは黙った。誰もその人の言うことを理解できな…

カフカの日

打ちあわせのために長い地下道を抜けて電車に乗り、小さなビルディングの下に来た。着いたら電話してくださいというMさんのメールを確認してからコールボタンを押すと女の人が出た。はあ?何いってるんですか?誰ですかあなた。私は謝罪して電話を切り、アド…

幸福の貧困なイメージ

今日は何してた、と訊くと、だいぶ寝坊した、と彼女はこたえた。 それで家の、彼の家の近所に食事をとりに行って、うん、あの人あったかくなると料理しなくなるのね、それで今あの人の冷蔵庫は空なの、そして私たちはとても大きなサンドイッチを食べてコーヒ…

パターンと欠落または欲望

だめになっちゃった、と彼女は言った。そうかあと私はこたえた。浮気されててさあ、と彼女は続ける。また、と私は訊く。彼女は、私が何をしたっていうのよ、少なくとも今回は私なにも悪いことしてない、と言った。そして私の発言をさえぎるように、三角形の…

音楽を好きになりたかった

音楽をはげしく求めたことがない。音楽に対して、私はいつも受動的だった。ときどき周囲の誰かが音楽を選んで、カセットテープや、MDや、CD-Rに入れて、私にくれた。私はそこから気持ちよく聴けるものを選んでTSUTAYAに行き、同じ人が出しているものを借りた…

泡のような関係を

コーヒーを注文したところでメールが来た。旅行先で知りあった人からだった。私はメール書いていい、と訊いてから、その場で返信を出した。北海道いいねー。私もまた旅行したいと思っています。今度は海外がいいな。関東に来るときは、よかったら連絡してく…

みっともなくうろたえたい

最近彼女ができまして、と彼は言った。私はおめでとうと言って拍手をした。 私は他人が誰かと親密になった話を聞くと高揚し、その人の肩をばんばんたたいて、「いいぞもっとやれ」と言いたくなる。祝福の気持ちにしては盛りあがりすぎなので、他人の私生活に…

天袋の中の故郷

うちの息子ちょっと疲れてるみたいなの、疲れると模型を出すからすぐわかるの、と彼女は言った。 彼女の息子は大学生だ。礼儀正しくて見栄えがよく、そつのない近ごろの若者という印象を与える。母親である彼女は、あの子ろくに家にいなくてつまんないわあ、…

世間知らずはだれ

おとうさんとけんかした、と彼女が言うので、私は遠慮なく笑った。睫を一本残らずきっちりカールさせて凶器みたいなハイヒールシューズを履いているのに、まるっきり小学生みたいだ。 彼女は父親と同業の、別の会社に勤めていた。彼女はそこで、「不正とは言…

物語的文法の再現

ちかごろ食器が次々に死ぬの、と彼女は言った。昨日はコーヒーカップの取っ手が取れた。先週は流し台に置いたグラスが割れた。その前はパスタやカレーに使っている大皿が欠けた。 寿命かなと私は言った。ひとり暮らしをはじめた頃に揃えたんなら、そろそろ寿…

小さいことを考える

今日は何してた、と彼女が訊くので、久しぶりに会ったのに「近ごろは何してた」じゃないのか、ちょっと変わってるな、と思って、でもこたえた。 昨夜のうちに洗っておいた洗濯物を脱水して干してから家を出て、そう、冬物をちょっとずつ洗ってるの、駅で転ん…

犬のTのこと

「犬のT」というあだ名の友だちがいる。Tは姓だ。 Tは仕事の行き帰りのコンビニエンスストアでサンドイッチと缶コーヒーを(あるいはおにぎりとおでんを、または肉まんとお茶を)買い、歩きながらそれを食べる。Tは次のコンビニエンスストアのごみ箱で食べた…

愛の条件

何人かでお酒をのんでいて、誰かが「今より太ったら別れるって言われちゃった」と言った。みんながそれに対する感想を述べた。おおかたは「条件つきの愛情はきつい」という内容だった。 すべての愛情は条件つきだよとつぶやく声が聞こえた。すぐ横にいた私が…

美しくないものが美しくなろうとすること

やっぱりこれちょっと裾が短い、と彼女は言った。私のも短いけど買うよ、レギンスが定番になってほんとうによかったなあ、と私は言った。私たちはそれぞれ、試着室に戻って着がえた。 エスカレータに乗って建物を下り、ずらりと並んだマニキュアを見ながら彼…