傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2010-01-01から1ヶ月間の記事一覧

フィービーはそこにいた

十代の時分、「サリンジャーが好き」と言うのは、けっこう勇気のいることだった。サリンジャーは若者たちに熱狂的に支持され、少数の作品だけを残して隠遁し、伝説的な人物になっていた。そういう作家を好きだと公言するのはあまりに典型的ではずかしいこと…

あなたの美しい欠落

他人に興味をもつとき、美点より欠けているところがフックになることが多い。欠けているところを補う工夫にはその人のものの考え方や美的感覚があらわれるし、自分の欠落を認めるプロセスをうまく消化した人には、特有の寛容さがあるように思う。 私の友だち…

礼儀を忘れる場所

十年近く前に、F1レースがおこなわれるサーキットでアルバイトをした。レセプションのための仮設小屋の中で配膳をするウェイトレスだ。関係者はその小屋をテントと呼んでいた。 サーキットにつくと、アルバイトはコンテナみたいなところで制服に着替え、あな…

事後的な運命

ごく軽い気持ちで、好きな人とかいないの、と訊くと、彼女は急に威圧的な顔つきになり、小さい声で、恫喝するように、「いない」と言った。 「そんなのはいない、少なくともあと二、三年はいない、もっといないかもしれない」 私はごめんねと謝り、食べるこ…

彼の直角な眠り

横になって眠れなかった時期があってね、と彼は言った。まっすぐにからだを伸ばして寝そべっていることが、なんだか落ちつかない。背中が痛むので、側面を上にする。胃が落ち着かない気がして丸くなる。下になっている耳の奥から頭の中にかけて軽い痛みを感…

彼女の円い眠り

彼女は山手線の大崎駅からいくらか歩いたところに部屋を借りている。彼女は夜遅くそこに帰ってゆっくりとお風呂につかり、少し眠って身支度をして早朝のうちに家を出る。 そしてまた眠る。山手線の中で、綺麗なグラデーションに塗ったまぶたを閉じて、ビジネ…

「純粋な観賞」は可能か

「背景知識を排除すればコンテンツを単体で楽しめる、っていうのは、うーん、どうだろう。ちょっと違う気もします」 彼はそう言い、少し考えてから訊く。 「たとえば、エヴァ破は観ましたか?」 みたみた、と私は答える。よかったよねえ、私、泣いちゃった。…

テレビみたいな人

彼はわりに早い時期から「他人と世界は一定以上理解することができないものだ。なにか特定のものを深く理解する動機もない。適当に表面をさらってうまくやっていけばいい」という信念を持っていた。 だから彼の努力はすべて、最大多数にとっての価値を獲得す…

正しい部屋

旅行や出張で大きなホテルに泊まると、きまって同じ気分になる。エレベータをおりて、廊下を曲がって、ずらりと並んだ扉の前を通りすぎるとき、私は必ずひどく不安で、そのくせ奇妙に高揚している。 私は自分の入るべき部屋を探している。手元のカードキーに…

へその緒を切る

クビになってよかった、と彼は言った。 彼はそれまで、自分は仕事が好きなのだと思っていた。毎日終電で帰り、ときには会社に泊まり、土日はどちらかだけ休み、そのうちほとんどの時間を眠って過ごした。彼はインターネット関連のエンジニアで、自宅にも仕事…

鏡の前でうつむいていた女の子たち

値引きされた服をあさっていると、同じお店に親子連れがいた。二十歳くらいの女の子と、そのお母さんという感じの二人連れだ。ふたりには緊迫した雰囲気が漂っていた。女の子は緊張している人に特有の、焦点の合っていない無表情。お母さんは眉間に皺を立て…

格好悪いことの効用

私はいろんな花粉とハウスダストのアレルギーを持っているので、一年中鼻をぐずぐずいわせている。将来を左右する面接の最中でも、大勢を前にしたプレゼンテーションの山場でも、すてきな男の人とはじめてデートするときでも。しかも汗っかきなので、いわば…

ひとり暮らしと大画面

お正月休みはなにしてた、と訊くと、彼女は「DVDで大量の映画とドラマを観た」という。私はとてもうらやましくなり、いいなあ、そういうときは私も呼んでよ、と言った。彼女のテレビは32インチだ。 彼女はふふんと鼻をならし、やなこった、と芝居がかかった…

まっとうであるとはどのようなことか

私の職場に非常にまっとうな感受性を持つ若者がいて、私は彼のすすめる映画はなるべく観るようにしている。 職場での会話は、美容師との会話に似ている。当たり障りのないことが必要なので、「こいつとはこの話」と決まったら、しばらくそれが続くのだ。私は…