傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

放浪の種をのんで生まれてきたの

 人生で十一回目の引っ越しをした。ずっと賃貸で暮らしてきたが、このたびは分譲マンションである。すぐに売るのも損なので、十二回目の引っ越しはだいぶ先になりそうだ。子どもが独立する十年後くらいかな、と思う。
 本当にそんなに長く一つところに住めるかしら、とも思う。

 東京に生まれて、十八で進学のために移住し、就職のために東京に戻っても実家には住まず、生まれたのとは別の町に住み、その後も賃貸を二年から四年ごとに取り替えて生きてきた。住居はボロくてもいいからとにかく場所を変えたいのだ。
 本当は今でも飽きたらすぐに引っ越したい気持ちはあるのだが、子どものためにその生き方はあきらめ、子が十八になるまで住んでもいいと思える町を探した。それだって絶対に飽きるから、ひとまずはワーケーションを試すつもりである。わたしはフルリモートの会社員、夫は自分の裁量で仕事をしているフリーランスだから、子どもの長期休みにはワーケーションができるはずだ。
 子どもは小学校入学前から国内外の旅行に行っている。本人のためではない。移動しないと精神がだめになるわたしたち夫婦のためだ。子どもは今のところおもしろがっているが、いい迷惑かもしれない。でもしょうがない。迷惑でもあきらめてほしい。

 自分でもどうしてこんなに、いつもどこかへ行きたいのかわからない。気がついたらこうだった。
 中学生のときに学年で男女ひとりずつの枠のある短期留学に行き(今でもあるのだろうか、東京都の区立中学にあった制度である)、高校では文科省助成金をもらって短期留学をし、大学ではさる国の官庁の助成金をもらって短期留学した。すべて自分で情報を集め、手を挙げて選考を受けて行った。勉強熱心なのではない。語学や文化研究を専門にしていたのでもない。できるだけ安く長く海外に行きたかっただけである。もちろん、純粋な旅行もたくさんした。貧乏バックパッカーでいいから、できるだけたくさん行きたかった。
 わたしの生まれた家はぜんぜん海外志向ではなかった。子どものころに連れていかれた国内旅行も、わたしの思い出づくりのためにしていたのだろうと思う。両親だけで行ったのは、何なら新婚旅行だけかもしれない。先だって旅行をプレゼントすると言ったら、そろって「箱根がいい」などとのたまう。海外を提案したら、「そんなに予算があるなら高級な温泉宿に連泊できるな」「ご馳走をたくさん食べましょう」と喜んでいた。両親ともに、隣県より遠くに行きたいという欲求がないのだ。
 夫とは短期留学で知り合った似た者同士だが、夫の血縁にも度を超した旅行好きはいない。引っ越しなんか全然しない。夫以外全員まともである。
 放浪癖は、どうやら遺伝ではない。先祖や親から引き継がれた文化でもない。少なくともわたしたちのそれは、突然発生した、来歴不明の性質だ。

 そのような人間たちがマンションを買うというのは、やはり無茶だったのではないか。子どもが成人するまでは引っ越さない、そのあいだ住む家は買ったほうがトクだと判断して買った。でも途中で引っ越し欲に負けたら、トクも何もない。
 わたしはそのように思う。
 耐えられなかったら多少損でも売っちゃえばいいんだよ、と夫は言う。別にいいじゃん、と言う。僕らそれくらいは稼いでるんだからいいじゃん、と言う。この人は、極端な高給取りでもないのに、ふだんの生活は質素なほうなのに、百万や二百万、衝動的な放浪への欲求に突っ込んでもかまわないと思っているのだ。わたしもだけど。
 夫の両親はこの夫がわたしに迷惑をかけていないかと、正月のたびに心配する。彼らは言う。悪い子じゃないんだけど、ほんとうに落ち着きのない、腰の据わらない人間で、いつまでもフラフラしていて、ごめんなさいね、ほんとに、いつもありがとうね。どうしてこうなっちゃったのかしら。弟は落ち着いているのだけれど。
 違うんです、とわたしは言う。わたしも同じようなものなんです。
 彼らは笑う。彼らは信じない。彼らはわたしが夫の趣味につきあっているのだと思っている。彼らは昔の人で、「そんな女性がいるわけがない」と思っている。
 いるのに。

 あなたはどうして自分がこんなになっちゃったんだと思う。
 そう尋ねると、夫はすこし考えて、それから言う。わかんない。どこかで放浪の種をのんで、それから生まれてきたんじゃないかな。

なんてむごいことを

 この時期は調子が悪くなるんです。
 ええ、あの日は、こういう暑い日だったんです。
 わたし、いいように利用されましてね。好意をかさに着て、人を利用する人間っているじゃないですか。そういうタイプに、してやられたんです。
 ああ、いえ、わたしの当時の行動は、合意の上で、自分の意思でしたことですし、相手には、悪意もなかったかもしれない。
 でもああいう目にはもう遭いたくないな。
 みじめになるから。

 友だちではあったと思います。でも最初から歪でした。
 力関係がありすぎる関係はだいたい歪むものだって、わたしは思います。わたしのまわりにはわたしと同じような生活をしている人間しかいない。釣り合う相手と親しくなりやすいんです。そのほうが先々おかしなことにならないと知っていて、小利口に計算している。
 ここでいう釣り合いというのは、とっても簡単なことです。経済力とか体力とか気力とか、人間関係の豊富さとか、自分の安全を守る能力とか、そういうのです。
 わたしはそれをうっすらわかっていて、うまいこと立ち回っているんだと思います。
 あの子だけが、わたしにとってそうではなかった。

 これは恋愛の話ではありません。
 あの子とわたしは、同い年で同性で同じ大学で、だからわたし、最初は、他の女友達と同じように思っていた。でもそうじゃなかった。
 彼女は学生時代から信じられないほど不安定でした。だいたい変な男に夢中になっていて、平行して次から次へと男に近づく。最初はびっくりしました。でもそれだけならまあ趣味の問題かなって思うけど、就職してからは、生活全体が、だいぶおかしくなりましてね。
 医療費とか、美容外科だとか、何だか特別に必要な食費だとかで、いつもカツカツでした。仕事はしていたんですが、聞くだに危うかった。
 あの子はきれいでいたかったんです。
 わたしから見たら、普通に可愛い子でした。でも彼女はたぶんそうは思っていなかった。彼女にとって自分の容姿は、飛び抜けて美しくて誰かに見いだされるべきもの、同時に、みっともなくて他人に見せることが耐えられないものだった。普通というのはないんです。そのどちらかなんです。
 年をとって容姿が変わるのは当たり前のことなのに、彼女はそれを、打倒すべき理不尽だとでも思っているみたいでした。もうすぐ三十になる、そのうち三十五歳になる、とか言うんですよ、ホラーの話をしているみたいに。わたし、笑って、そうだよってこたえてた。なるよって。
 わたしよくごはん作りに行ってたんです。ええ、家も二駅しか離れてなくてね。食材を買っていって、彼女が食べられる野菜のスープを作るんです。
 そういう関係を、おかしいと思ったこともなかった。

 そのうちわたしは結婚して引っ越して、出産と職場復帰と子育てで忙しくって、彼女からも、二年くらい連絡は来てなかったと思います。
 久しぶりに彼女から連絡がありました。
 嬉しくって遊びに行くよって言いました。
 二時間くらい通話して、そしたら彼女、「じゃあ明日来て」って言うんです。わたし、笑いました。昔から、そういう言い方するときっていつも金曜日か土曜日なんです。わたしが休みの日だってわかってて言うんです。
 そしたらまたごはん作ってあげるってわたし言いました。
 絶対来てよねって、彼女言いました。冗談めかして「わたしのこと放っておいた罰」「ハーゲンダッツも買ってきて」って。
 ハーゲンダッツ食べられるようになったなんてよかったなって思いました。大量の野菜とアイスクリームを抱えて、わたし、あの部屋に行きました。

 あの子は、自分の死体が腐るのがどうしても嫌だったんでしょう。
 わたし、あの子に、いいように利用されたんです。

 そうですか。
 あれって、やっぱり、むごいことなんですね。
 でもそれも当たり前な気がして。
 だって、わたしが、ちゃんと対処しなかったから。ずっと、不健康だったんだから、ご家族の連絡先を訊きだして、勝手に連絡したらよかった。
 ごはん作ってあげてたくせに、自分の子どもができたら一年も二年も忘れるような人間だから、恨まれたんじゃないですか。
 わたしが、弱い人の弱さを消費していたのではないって、どうして言えますか。
 だからその代償として死後の始末に利用されたんじゃないんですか。
 誰だって、愛する人にそんなことさせたくないでしょう。あの子は、男や親には、させたくなかった。
 だからわたしに。
 自業自得なんだから傷つくのはおかしい。

 ごめんなさい。
 いえ、全然、大丈夫です。昔の話だし、いつも、平気だし。ええ、九月の半ばのあいだだけ、少し。

カネを払うから原始人でいさせてくれないか

 服が嫌いである。
 ファッションが嫌いなのではない。着るものを選ぶのは楽しいことだと思う。買い物も楽しむ。しかしその頻度は、おそらく非常識なまでに低い。
 正確に言うなら、長時間にわたって服を着ている状態が嫌いなのである。
 職場で許容される範囲の服を選んで八時間以上それを着るのは週に二日程度が望ましく、週に四日以上は苦痛である。休日に着飾ったら、外出は昼だけまたは夜だけがいい。通しで外にいるならうんと楽な格好でないとだんだんしんどくなってくるのだ。あと、メイクって五時間くらいたったら落としたくなりませんか? 私はなる。
 身体に布とかがいっぱいついている状態が好きじゃないのだ。だからそれらの布などについて考えて選んで買うエネルギーも年に一、二回しか湧いてこない。
 もっとも快いのは適切な気温湿度の中で全裸でいることなのだが、私にだって羞恥心はある。同じ空間に自分以外の人間がいたら自分に布をかけておかなくては落ち着かない。だから全裸生活は一人暮らしの自宅でしか実現できない。そしてある時、それは私の人生から消失した。
 私は長らく、交際した相手との生活は半同棲を限度として同居を必須とする結婚などのオファーは断り、だからだいたい三年くらいで別れていたのだが、その理由だって、半分は「全裸可能環境を維持したいから」であった。しかし、全裸環境を捨てででも別れたくない人があらわれてしまったら、これはもうしかたない。そう腹を決め、それから、愛のために自由を犠牲にするとは、私もたいしたロマンティストだなあ、と感心した。
 そのようにして私の純粋な自由は失われ、まぶたの裏にうつる遠い青春のきらめきとなった。

 私はそうした環境の変化に合わせて綿や麻でできていてブラジャー(ああ、あの理不尽な拘束具! 夏場なんて不快な汗取りパッドでしかない)をつけなくてもOKな部屋着を探した。世の中には一枚で身体のラインをそれなりに隠してくれる楽な部屋着を売る企業がある。その事実だけでも私のような人間が大勢いることが推察され、心が慰められる。みんながんばろうな。
 中学生の時分に資料集か何かで貫頭衣の図版を見たときのことを、私はよく覚えている。これがいい、と思った。これ着て登校したい、と。
 そのころから「でかい布に穴あけたやつをかぶって生活したい」と思っていたのである。弥生時代の貴婦人の貫頭衣だとまだちゃんとしすぎている。もう少し身分の低い人はマジで穴あけただけの布だったと思う。私はそっちがいい。そうして暑いときには頭から水かぶって犬みたくブルブルして、それで済ませたい。そう思っていた。現在の部屋着のコンセプトは、この中学生のときの想像に近い。

 職場についても同様である。とにかく四六時中まともな格好で職場にいなければならない仕事をしたくなかった。週に何日かの自宅作業が許される、あるいは楽な格好でいられる日がある職場が良い。
 そんなわけで、多少給料が下がってもいいからそういう職場がいいと思って(もちろん他の条件、それこそ給与が上がるとかも含めてだが)、何回か転職して今に至る。そのように話したら、友人から「窮屈な格好をしなくていい時間を確保するためにカネを払っているようなものじゃないか」と言われた。
 私は真顔で「カネを払えば原始人みたいな格好でいられるなら、払う」と言った。職場を選ぶよりカネを払うほうがずっと手軽だ。そちらのほうがいい。
 友人がアホや、と言って笑い、それから、年間いくらまでなら払うか、と訊くので、五十万円、と回答した。足元を見られてもっと出せと言われれば百万くらい出しちゃうかもしれないけど、と思いながら。
 給料より結婚より楽な格好するほうが大事だなんて、アホやねえ、と友人は繰り返す。この人はこの語を口にするときだけ、出身地のアクセントを使う。それから言う。
 でも人生ってそういうものかもね。「絶対に地元から動きたくない、引っ越しすれば給料が上がるとしても動きたくない」みたいな条件なら珍しくない。自分の譲れない条件を自覚しているのは良いことですよ、あなたのはアホみたいな条件ではあるけども。
 友人はそう言って笑い、それからちょっと黙って、もう一度口をひらく。
 他人から見てアホみたいな条件を堅持するのは、それほどアホなことでもないかもしれないな。冬期うつの気がある人が日照時間の少ない土地に住むとか、どうやっても朝起きられない体質の人が8時出勤の会社に勤めるとか、そういうのが、本人の自覚もなしに人生をひどくそこなうことだって、ありそうだもの。

友だちを買う

 わたしの話、書いてもいいけど、それならマキノさんが「買った」話も書いてよ。
 ホスト通いをしている若い友人が言う。あるでしょ、コミュニケーションっぽいものを買ったこと。一回いくらで、総額いくら突っ込んだ? 貢ぎ系は総額だけの回答も可。
 貢ぐように見える? と私は尋ねる。見えない、と彼女は言って、ころころ笑う。だってマキノさん、お金取れなさそうな男とばっか、つきあうじゃん。前の前の彼氏はゴリラみたいだったし、その次の人はトカゲみたいだったじゃん。今の人は、まあヒトっぽくはあるけど、マンガの背景のモブみたいだし。
 私は大口あけて笑う。実際そうなのだ。さすが顔にうるさい女、形容が的確である。私は今の人も過去につきあった人も全員すてきなお顔だと信じているのだが、彼女にそう言ったところ、「博愛だね」と返ってきた。しっけいな。ちゃんと好き嫌いはある。どういう好みかは自分でもわかりませんが。
 私は右手の人差し指と左手の指ぜんぶを立てる。彼女の好む店はうるさいのだ。だから口をひらく前に少しからだを寄せる。
 私が買ったコミュニケーションは、あなたのよりは安い。一回一万五千円。
 まあまあする、と彼女はこたえる。わたしが言うのもなんだけど、安くはない。占い師、ではないか。科学的じゃない、とか言いそう。何とかカウンセラーとか、そのあたり?
 私は感心して言う。正解。臨床心理士のカウンセリングサービスだよ。病院と連携していたけど、保険がきかないから、けっこうかかるんだ。でも、私には合っていたから、ぜんぜん出す。今はいらないけど、必要になったらまた利用するつもり。すごいね、よくわかったね。
 最後のひとことで、彼女の顔が子どもみたいになる。褒められるのが好きなのだ。
 その子どもの顔を二秒で引っ込めて、顎をさげて、下からささやく。だって、マキノさん、恋愛っぽいものは、絶対買いたくない人でしょ。男のような何かを買うことも女のような何かを買うことも、どっかでバカにしてるでしょ。なんで? 男になめられたくないから?
 私はもう一度、今度は小さく笑う。

 おっしゃるとおり、男になめられるのは大嫌いである。男に下手に出て何かを「してもらう」女になるくらいなら死んだほうがましだと思っている。もともとは私の育ちによって発生した傾向だが、成人してからは意思をもって人生の方針にしている。
 極端だという自覚はある。恋愛っぽい要素を含むサービスは、多くの人がたしなんでいる趣味の一つだ。たいていは軽い娯楽として、そこらへんで売っている。売っているものを買って何が悪いのかと問われれば、「悪くないです」と言う。言うが、どこかでそれを、彼女のことばを借りれば「バカにしている」。人間の精神を支えるものは恋愛でなくていいはずだと思っている。恋愛もパートナーシップも自立した人間同士の選択的で対等な関係であるべきだと盲信している。
 そんなだから、接客業従事者の接遇や各種コンテンツを消費するときにさえ恋愛めいた型を使用する人々に対して、きっと嫌みな目つきをして、「ふーん」と思っている。

 そうですよ、と私は言う。バカにしているよ。あなたが訊くから嘘をつかなかったので、よそで言いふらさないようにね。
 彼女はまたころころ笑う。言いふらす意味、なさすぎ、と言う。そうして尋ねる。カウンセリングって、何を買うの? 一回一万五千円で。
 友だちを買うんだよと、私はこたえる。
 私の場合、カウンセリングに行く目的は、最終的には自分に対する肯定なんだ。自分の選択、自分の行為、自分の思考に対する、肯定、うん、ChatGPT彼氏の子と同じ、アイドルファンの子と同じ、あなたとも同じ。自分のしてきたこととその結果を肯定するために、ことばや振る舞いを買っている。私は、カウンセラーを、専門知識があって精神的な問題が悪化しにくい方向で相手をしてくれる、安全な友だちだと思ってる。私は科学研究を信仰しているから、当時は臨床心理士、今なら公認心理師だね、そういう人を選んで、一時間いくらで買う。
 何それ、と彼女は言う。要は、女の子にしゃべって、「そうなんだ」「だよね」「わかる」って言ってもらうやつを、病院みたいなとこでやるんでしょ? 大枚はたいて。なんで? 友だちがいないの? わたしが聞いてあげようか?
 そうだね、と私は言う。友だちが足りないんだ。だから買う。あと、友だちならカネで買ってもいいと思っている。
 彼女は背を逸らす。私の姿勢はそのままだから、彼女の声は遠ざかる。ノイズに負けない大きな声で、彼女は笑う。変なの。友だちはタダのはずじゃん。

アテンションを買う

 推しが生きてる若い女じゃなきゃイヤなのは、夢を見たいからでしょ。超わずかでも可能性がないと夢も妄想も生まれないから。で、若い女に夢みといて「これは性欲じゃない、キレイな感情なんだ」みたいな、そういう気分でいて、そのくせアイドルに男がいたりしたら、要は自分の思い通りに振る舞わなかったら、カネ返せみたいなこと言いだすんでしょ、正直キモい。

 あー、すいません口わるくて。わたしもともと、その手の男、無理なんで。
 へえ、そいつはそういう感じじゃなかった? 楽しそうでイイネって感じだった?
 それはさあ、マキノさんの仕事の知り合いだから、そういう仮面かぶってるんでしょ。仕事がらみのおばさんに、あーごめん、いや気にしないよね、わかってるけどいちおう。礼儀なんで。
 仕事関係の女の人に、「アイドルが好きなんだね」って話を振られたら、できるだけキモくないドルオタ像を示そうって思うでしょ、社会人なんだから。
 あー、ま、わたしがそういう男が嫌いなだけなんで。別に。
 嫌いの中身が知りたい? 変なの。これから先は「うんうん」しか言わない? なら話す。
 ChatGPTで理想の彼氏作る子の悪口言ってるけど、そいつのほうがよっぽど想定内の行動してほしがってるじゃん。輝いてるとか何とか言ってるけど、要は顔のいい女に薄ぼんやりした夢みせてほしいだけでしょ。キモ。自分のキモさから全力で目を逸らしてるところがキモキモ。
 わたしはそういうの絶対にやらない。わたしは自分が何にカネを払ってるかちゃんとわかってる。わたしはカネ出してメンケアしてもらってるって自分でわかってる。わたしは顔のいい男に肯定されたいんだってわかってる。それを悪く言う人がいることもわかってる。働いて税金払って自分のお給料で遊んでるんだからお前に関係ないだろって思うけど。
 ホストは風俗の女の子が大金積んでシャンパンタワーやるイメージ? あーね。でしょうね。そういう知り合いがいたりする? いない? マンガで読んだ? いやそれはさあ、マンガだから、派手な使い方する子をモデルにするんでしょ。
 今はいろんな店があって、みんなが大金積むわけじゃなくて、夜やらないOLでも全然遊べるし、そういう子が全員ハマって大金貢ぐ側に回るわけじゃなくて、ずーっとそのまま遊んでたりするの。わたしもそう。一回五万十万みたいな。
 うんそう、十万円は大金。五万円は大金。わかってる。でも安い、わたしにとって。
 ホストと話すって、女の子としゃべるのとは、全然別。女の子とは、中身のある話をする。顔のいい男にしてほしいのはそういう話じゃない。
 わたしはそれにカネを出してる。
 ChatGPTなら20ドル? あー、さっきの話ね。まあそういう子も、全然、いいと思うけど、わたしは違うかな。究極、顔のいい男以外に肯定されても意味ないんで。むしろイヤ。なんでお前が褒めてくるんだって感じ。
 いうて、わたしの「顔がいい」って、たいしたことない。けっこうチョロいほう。もちろん最低限の造作は必要だけど、そんな贅沢じゃない。だから担当がホスト辞めても次が見つからないみたいなことはないかな。でも今の担当にはできるだけ長くやっててほしい。常識あるし、地頭いいし、大学も出てるんだ。

 担当とつきあいたいとかはないです。恋愛感情じゃない。そういうのはゼロ。今の担当で三人目だけど、誰にも恋愛感情持ったことない。担当の好きな姫でいたいとは思う。大切にしてほしいとは思う。姫っていうのは客のことね。客って言うと怒る人いるから気をつけてね。ほかにそういう知り合いはいない? ならいいけど。
 推しとかでもない。だって、応援してない。ホスト続ける程度の人気はないと困るけど、売れすぎるとわたしが行きにくくなるから、売れてないくらいがいい。

 ホストに「大切にされる」ってどういうことか?
 えー。難しい。
 LINEももちろん大事だけど、でもやっぱり、わたしの卓にいる時はわたしに全力で向き合ってること、かな。基本、落ち着いて飲むんだけど、ちゃんとときめかせてくれて、頑張ろうって思わせてくれて、テンション上げるときは最高に上げてくれて。テンプレじゃない、わたしのためのことばを選んで、間違ったこと言わない。姫として扱ってくれる。

 姫として扱うってどういうことか?
 いや、その質問は、する気持ちわかんないって。姫は姫でしょ。お姫さま扱いって言うでしょ。それ。

偶像を買う

 ChatGPTで済む人は、たしかにコスパいいと思います。
 僕はぜんぜん、興味もてないです。話してみても薄っぺらい。魅力がない。仕事では便利に使ってるし、調べ物とかもする、でもそれだけです。メンタルには関係ない。
 僕のメンタルに効くのは推しです。
 推しはいい。
 よくある言い方になりますけど、推しを見てたら癒やされる。推しがいるからがんばれる。僕はVを推したことはないし、投げ銭文化も経験ないですけど、アイドルは、好きなんで、ファンサが嬉しいのは、うん、わかります。たいした課金してないけど、できるだけ会いに行ってますし。
 ああそうか、「会う」のところで、一回、咀嚼が入るんだ。マキノさん、推しがいない系の人でしょう? やっぱり。ライブとか行きます? 行くんだ。なるほど、ライブは「観る」ものなんだ。
 会ってはいない。会いたいのでもない。
 あー、それ、推しがいない系の人、言いますね。聞いたことある。

 僕は、人間じゃないと、推せないんだと思います。人間じゃないくらい輝いてるけど。ああいう輝きって、AIには出せない、最後の人間らしさなんじゃないかと思う。
 推しは、僕なんかの思いもよらない、高みにいてほしいんだ。そして、客席にいる僕のほうに、視線を向けてくれたら、僕だけにあてているのでなくても、何かことばをかけてくれたら、それで幸せになれる。少なくとも一ヶ月、俺がブーストされる。健康になる。いや、マジですって。
 生きてていいんだ、がんばってきたんだって、そう思うんです。アイドルは、ファンの存在を肯定してくれる太陽なんです。

 その、マキノさんのさっきの話のChatGPTの子には悪いけど、ま、知らない人だから、別にいっか。あ、許可とか取ってるんすか。へー、律儀すね。「個人が特定できないかたちで、○○の用途に対してのみ使用します」って? アンケートかよ。変な日常会話。え、俺の話も、ですか。別に珍しくもない、ライトなドルオタの話なんで、全然。
 ChatGPTは、こちらが聞きたいことを、求めに応じて出してくるだけじゃないですか。いくらそのやり方が巧みでも、結局、注文したものが出てくるだけのことじゃないですか。それがメンケアになって、個人的に、意味がわからない。食堂でA定食の食券買ったらA定食が出てきて、そしたら感激するのかよ、みたいな。人間っぽい言葉を出力できるのは、普通にすごい技術だなと思うけど、そんだけ。僕が僕の求めに応じて言わせた台詞で癒やされるなんてありえないです、個人的に。
 ChatGPTは、自分のキャパにおさまって、自分がコントロールできる相手だから、つまんねーと思うのかもしれない。「依存させすぎないように制限を加えよう」とか、そういう、なんていうか、社会的な合意の範囲内におさめようとする設計が見えてる感じも、いかにも作り物じゃないですか。ソフトウェア! って感じ。当たり障りない範囲でおべっか使ってくるだけのボットじゃねーかって思う。
 もっと思いもよらない、がつんとぶっとばしてくれる存在がいいんです、僕は。

 他者であることの担保、ですか。
 あー、そうですね、それもあるかな。技術がもっと進んで、AIが出力するアイドルが人間と区別つかなくなったとしましょう。で、同じような顔で同じような声で同じような歌を歌って同じように踊ってるアイドルのMVが二つ流れてきたとします。で、片方が人工物で片方が人間だって言われたら、少なくとも人工物のほうは、チェックしないです。
 これ何だろうな。人間が好きなのかな。
 アイドルだって、ある意味人工物なんですけどね。都合の悪いところは見せないし、プライベートっぽいところだって選んで見せているんだし。あ、僕はアイドルに「恋愛するな」なんて言わないタイプです。プロならバレるような相手とバレるようなやり方で恋愛すんなってだけ。ファンへの対応が変わるなんて論外。仕事しろよって感じ。そういうやつはアイドルやめてから恋愛するべき。ファンをナメてる。払ったカネ返せって言われてもしょうがない。辞めちまえでしかない。その点もね、僕の推しは完璧なんで。
 そうだな、そうやって考えると、ミスから逃れられない人間より、人工物のほうが、よりよいアイドルになるような気がしないこともないです。技術が発達して区別がつかなくなれば、
 いや、それでもなんかイヤだな。
 なんでオレは、人間じゃなきゃイヤなんだろう。

ことばを買う

 わたしの世代の生成AIの使い方ですか?
 えっと、わたしの友だちが何人か、ChatGPTを訓練して理想の彼氏を作ってます。目的ですか。メンケアがメインです。あ、メンケアって言いません? メンタルケアって意味なんですけど、そんな専門的なケアとかじゃなくて、要するに気持ちよくなること言ってもらうって意味だって、わたしは思ってますけど。
 自分の身のまわりのことを話して褒めてもらって、仕事で頑張ったこと話して褒めてもらって、いやなことがあったら愚痴きいてもらって慰めてもらって、毎日可愛いよって言ってもらうんです。あらかじめ仕事の内容を入力して、自分が嫌いな価値観や言葉遣いも教えておけば、あんまり外さない感じです。
 それは彼氏なのかって?
 ふふ、そうですね。マキノさんって、わたしのお母さんくらいの年代でしょ、そしたら、わたしが「彼氏」って言ったら、交際相手としての人間のことだって思う。わたしのお母さんはそう。みんな結婚してた時代でしょ、だから理想の彼氏ってせいぜいあれでしょ、三高でしたっけ。
 現実の人間だけが「彼氏」だったんですよね。みんな結婚するから。あ、マキノさんはしない前提で生きてたんだ、当時としてはだいぶ変だったでしょ。それでも実在してて自分と接点のある人間の中から彼氏つくってたでしょ。やっぱり、お母さんの時代の人だ。
 わたしたちの言う理想の彼氏って、そういうんじゃないんです。
 毎日可愛いって言ってくる人間はいない。そりゃそう。

 えっと、この場合の彼氏っていうのは、概念なんです。
 わたしたちみんな働いてて、人間の交際相手は、いたりいなかったりするんですけど、わたしたちとっても現実的だから、生きてる人間に理想なんか求めない。
 理想じゃなくても気が合って助け合える相手がいたらいい?
 いやだなあ、マキノさん、笑わせないでください。それこそ叶わない幻想です。叶った人はいるでしょう、でもそんな幸運なレアケースにベットする気にはなれない。
 助け合うって、収入と生活能力を出しあって、トータルで釣り合うことでしょ。自分と同じくらい収入があって自分と同じように家のことをやれて自分の邪魔をしない男とつきあえる確率なんて、超低いです。わたしたちは、母親から当たり前に家事を仕込まれてて、そこそこの大学出てちゃんと就職して、一生仕事するのが当たり前で、子どもができたら自分がメインで育てると思ってる。
 同じことができる男性の割合、想像してみてくださいよ。いるのは知ってるけど、探す気にはなれない。SNSとかで見ても、動物園でオカピを見るくらいの感覚です。オカピ探しに行きます? どこに? 超高収入で専業主婦をやしなう男、のほうがまだいるんじゃないですか。わたしはそういうのは全然、タイプじゃないし、向こうもお呼びじゃないでしょうけど。
 女で、平均以上の収入があって、外見もそこそこなら、自分と同じくらいの稼ぎで自分に家のこと丸投げする男をつかまえるのがせいぜいなの。「手伝ってくれる」「ていねいに教えれば頑張ってくれる」人なら運が良いの。なんなら誰もつかまらない。
 そしたら現実の彼氏は要らないかって? いや、要るんです、これが。わたしもわたしの友だちも、優等生なんで、優等生は、一科目だって赤点は取らないので、恋愛結婚の実績解除は、したいんです。そのためには多少の損は承知で、損の総量が少ない男性を選んで、その人に自分を選ばせなくちゃいけない。できれば大学生のうちに。遅くても今くらいまで、二十代前半のうちに。ええ、わたしも学生時代の相手とずっとつきあってます。もちろん「普通」の男の子です。オカピではない。
 やだな、そんな顔しないでくださいよ。
 マキノさんは、赤点とっても平気だから、わたしたちのこと、変に思うのかも。別に不幸じゃないから、楽しく生きてるから、心配しないでください。

 そのような優等生たちが、ChatGPTを訓練して理想の彼氏をつくってるわけです。必要なときに必要なだけ肯定してくれて、何も奪わない「彼氏」を。
 けっこう利口なやり方だと思います。だって、実在の人間は、もっとお金がかかるでしょ。わたしの弟は、Vtuberの推しがいて、投げ銭してて、ほんと、コスパ悪いって思う。中身がどんな人かもわからないのに、それこそ、今後はAIがやるかもしれないのに、グラフィックつきで提供されたキャラが、そんなにいいのかしらって。
 ことばだけで満足できるのは、安上がりだなって思います。ことばだけなら、月額20ドルで、ずいぶんそれっぽく出力してもらえるから、ほんと、安いもんです。