人からよくものをもらうたちである。
若いころはもらうに相応の理由があった。貧しく、かつ身よりがなかったのである。そういう人間が知り合いにいて、たとえばまだ使える冷蔵庫があるけれど新しい冷蔵庫が欲くなったとき、「あの人にあげようかしら」と思う、そういう心の動きは想像しやすいものである。
しかし、今は貧しくはない。具体的にいえば、わたしに冷蔵庫をくれる同僚との給与の差はあまりないと推測される(わたしたちの待遇は同一の給与テーブルに基づいていて、職位が同じだから)。
まさかこの年でもう一人子どもができるとは思わなくてねえ。同僚はあっけらかんと言う。冷蔵庫を買い替えてまもなく二人目の子どもができ、冷凍技を駆使して小学生と乳児と大人ふたりの食生活をおぎなっていたら、大容量の冷蔵庫が欲しくなったのだそうである。
そのようにしてわたしは、たとえば冷蔵庫をもらう。いくぶん高価な鞄をもらう。少し欲しいなと思っていた鋳物の鍋をもらう。SIMカードを入れ替えれば使えるスマートフォンをもらう。小さいものもあれこれもらっている。「スーパーで詰め放題をやっていて、つい詰め過ぎたから」とか、「チケットが余ったから」とか。
わたしはずっとそんなふうだったから、ちょっとしたお礼を選ぶのがやけに得意になった。とはいえ、雨の日の道端で知らない人から傘をもらったときなどには、ことば以外にお礼も何もないのだけれど。
わたしのこのような性質について、わたし自身は「かわいいからくれるんだよねえ」と思っている。この場合の「かわいい」というのは外見や発話や仕草に対する形容ではない。「何かしてやりたいと思わせるトリガーがある」という程度の意味である。
しかし、ほんとうはもっと適切な語がある。学生時代に、面と向かってこう言われた。
乞食の顔をしているからだよ。
わたしはひどく感心した。きっとそうなのだ、と思った。「かわいいからあげる」という語のある側面を過不足なく切り取った、みごとな言い回しである。わたしのその性質をさす語として、「かわいい」などというマジックワードよりはるかにシャープに意味をなしている。もちろん好意から来る表現ではないだろうが(なにしろ放送禁止用語である)、わたしは、自分にとって重要でない対象の発したせりふなら、いや、もしかすると重要な対象が発したせりふであっても、好意より正確さや的確さに価値を感じる。
そんなだから、ただ悪意で言われたとしても、わたしは感心したのだろうが、そこには悪意や嫌悪以外にも何かがあるのだろうなと、ぼんやり思った。
そのせりふを発したのは学生時代に近隣のゼミにいた、いつもきっちりお化粧して髪を巻いている、真面目な学生だった。帰りが遅くなると、彼女はわたしの研究室をのぞき、わたしがいると声をかけ、車に乗せて送ってくれた。最初に送ってくれたときにわたしの住んでいる建物を見て絶句し、以降そのことを、たぶんずっと気にしていた。そうして時おり、わたしのあれこれについて、「女の子なのに」と小さくつぶやくのだった。裕福な両親が購入した自家用車が象徴する何かを、おそらくは彼女なりに感じる不公平のようなものを、いくらかは世界に還元しなければならないと、どこかで思っていて、それでわたしを送り届けているように見えた。
ありがとうとわたしは言う。別に、と彼女は言う。常にはたおやかな言葉づかいなのに、運転している時だけ、ぶっきらぼうな声を出す。そうして作りものみたいにきれいな果物や贈答品をばらしたのであろう個包装のお菓子をさして、「それ、持ってって」と言う。機嫌の悪い、どこかふてぶてしいようすで、フロントガラスだけを見て、言う。こんな顔、みんなにはしないのな、とわたしは思う。
昔の話である。
台所に据えられた新しい冷蔵庫を眺める。冷蔵庫は小さくうなっている。表面はガラスなのだそうで、わたしがぼんやりとうつっている。何も考えていない顔だ、と思う。いらないものを差し出されたら遠慮なく「いらない」と言い、必要なものを差し出されたら喜んで受け取り、あげたりもらったりする両者の釣り合いを考えて気を揉むような社会性がなく、何かを差し出して「失礼にあたる」ことの金輪際なさそうな、ぼけっとした顔である。
格好のいい冷蔵庫だわねえ。わたしはそのように言う。冷蔵庫はぶん、とうなる。表面にぼんやりと、人の姿をうつしている。きっと、乞食の顔をしている。