傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

欺瞞の誕生

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それからいくらかしてわたしの家にテレビが導入された。わたしも夫もテレビを観る習慣がなかったのだが、出かける機会が減って退屈になり、家で映画を観るために購入したのだ。そうして週に一、二度、リビングで映画やドキュメンタリーを流している。

 昨日はその画面に「橋の欄干を乗り越える人」が映った。高所から飛んでグライダーで着地するスポーツをやっているのだった。するとわたしの脳裏に陽気なわたしの声が響いた。おお、最近のゲームはよくできているなあ、映画みたいだ。

 わたしは軽い高所恐怖症である。そのくせ高いところに登りたがって、足元がぞくぞくするのを楽しんでいる。といってもビルの屋上だとか、大きな橋だとか、その程度である。(自分的に)いちばん過激な経験はスキーのジャンプ台にのぼったことだった。小学生たちもいたので彼らの勇気に感服した。わたしはそれくらい、高いところが怖いのだ。
 なぜ怖いのか考えてみると、飛び降りそうになるからだと思う。ひょいと手すりを乗り越えそうで怖い。つまり、自分の気まぐれで死ぬのが怖い。自分はそんなことしないと確信していればたぶん怖くない。
 わたしはわたしを、「ちょっとした気分で高所から飛び降りてトマトみたいに潰れて死ぬ人間だ」とどこかで思っているのである。
 そういう人間の前に、欄干を乗り越える人が映し出された。そうしたらわたしの脳はわたしに「これはゲームだよ、CGだよ、こんなことしてる人はほんとうにはいないんだよ」と言い聞かせたのだ。この間コンマ0何秒である。意識の介在する余地はない。

 わたしは隣に座る夫に、自分の脳の咄嗟の振る舞いについて話した。夫は言った。きみの脳は実にいいやつだ、いつもきみの心を守ろうとしている。

 いいやつだ、とわたしも思う。しかしこれはあれだ、自己欺瞞だ。

 わたしの母は毎日毎日自己欺瞞をやる人間だった。そしてそのために娘を使用していた。
 具体的には彼女は「わたしは家族みんなに愛されてとても幸福、夫には女として愛されて大切にされているし、わたしももちろん家族みんなを愛している」というような意味のことを、せりふを変えて毎日言っていた。うそ寒いほどのアピールだった。そして女の子どもであるわたしにそれを肯定するよう強要するのだった。あのころSNSがあったら母は確実に「幸福なママ、そして妻」アカウントを作って毎日投稿していたと思う。なくてよかった。メディア上で搾取を上乗せされるところだった。両親はとにかく何でも搾り取るのだ。女の子どもは使用可能な資源だった。家事労働力、世間体のためのポージング、ご機嫌取り役、サンドバッグ役、「女」役。
 わたし自身は両親もきょうだいも愛していなかった。そこにあったのは男たちによる時折の物理的暴力と、女たちも加わった日常的な精神的暴力ならびに性的暴力だった。わたしはわりに早くからそのことを認識していたし、物心ついたときから親との情緒的な結びつきがなかったので(母は幼児までのわたしの世話を物理的にのみしていたと推測している)、家族を愛していなかった。
 そんなだからわたしは少女のころから「現実を認識しないと、母のように『ワタシアイサレテル』と鳴くタイプの妖怪になる」と思っていた。わたしは奥歯を噛みながら自分の惨めな現実を認識し、第二次成長期以降は父親からの性暴力が具体化しないよう防衛し、「おまえは野垂れ死にする」と罵られながら家を出た。父親の世界では男(自分)に属していて言うことを聞かない女(性行為をされないわたし)は野垂れ死にするのである。

 わたしは自分として生きるために自己欺瞞を排する努力をしてきた。しかしわたしの脳だって、反射的に自己欺瞞をやる。それが出てくる瞬間を、今日は見たのだった。これまでもわたしの脳は大量の欺瞞をやり、のちにそれを修正してきた。ワタシシゴトデキル、ヒトリデイキテイク。いや、一人で生きる力を持ったまま、できれば誰かと助け合って生きるのがいいですよ、わたしは、相手は恋人じゃなくてもいいし、同居しなくてもいいですが。ワタシコノヒトノアイガアレバイキテイケル。そんなわけあるか。合意して助け合って生活してだめになったら別れるんだよ。ーーこんな具合に。
 お母さんも自分の心を守るために欺瞞をやっていたのね、脳がそれを求めたのね、意識してやっていたことではないのね、だから許してあげましょう。
 とは思わない。「脳の反射で生きるなんて最悪だな」と思う。「それに子どもを使用するんだから最悪以下だな」と思う。そしてテレビ画面に目をうつし、ぎゃあ怖いぎゃあ怖いと騒ぐ。

いつもどっか行きたい あるいは老いについて

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それ以来ずっとがまんしていたことがある。海外旅行である。
 このたびそれを解禁した。三日ばかり台北で遊んできただけなのだが、それでもなにかこう、生き返るような心地である。

 海外旅行好きには二種類あるように思われる。たとえばリゾート島で心ゆくまで休むとか、本場のテーマパークを堪能するとか、日本には巡回しない美術や建築物や自然を鑑賞するとか、そういうのを求める人々である。目的がある旅行、とでもいいましょうか。私も目的を定めて旅行することはある。
 でも私にとってそういうのはおまけだ。時代を象徴する名画より、完璧なリゾートより、ただ「いつもとちがうところ」であることが重要なのである。その「ちがう度」が高いというだけで海外が大好きなのだ。ふだんはつましい生活をし、一週間の休みがあればどこかの大陸に行く。「くさくさするなあ」と思ったら格安航空券を探してアジアのどこかに行く。それが私の「生活様式」だった。

 疫病が流行しはじめた年に会社を辞めた若い後輩があって、優秀な人材だったので上層部が引き留めたのだが、「あの、こんなご時世で、でもどっか行きたくて、わたし、いつもどっか行きたいんです、それで、新しい仕事の話が来て、その仕事だと、どっか行けるので」という本音を聞き出したらみんな諦めた。どっか行きたいのか。それじゃあしょうがない。
 生まれつき「いつもどっか行きたい」人間がいるのだと思う。私もそうなのだと思う。

 そんな人間でも年をとると動きが鈍くなる。それに気づいたのは三十四歳のときだった。疫病のことなど誰も想像していなくて、いつでもどこかへ行けると、私自身も思っていた。
 私は移動を苦にせず、複数の地方都市に住んだことがある。それを知っていた当時の上司から、博多に行かないかという提案があった。昇格、海外とのコネクション、広いオフィス、住みよい町に美味しい食べ物、キャリアを積んで三年ほどで東京に戻ってもらう。どうだい、悪い話じゃないだろう。
 いいなあ、と思う気持ちと、いやちょっと、と思う気持ちが同時に観察されて、私は自分に驚いた。
 でも都市を移るとゼロからいろんな人と知り合わなければならない。いや、仕事以外では「ならない」ということはないんだろうけど、私は誰とも話さずに生活するのはいやなので、いくらかの知り合いと友人を作る必要がある。お気に入りの週末の過ごし方を新しく構築して、そして。
 それが楽しかったはずなのだ、三十代の前半までは。

 年をとった、と思った。
 私の場合、動きが鈍くなったのは「ライフステージ」とやらの問題ではない。仕事は変えず、子どもも持たず、パートナーとは永続的な同居を約束していない(お互い「どっか行きたい」人間だと承知しているから)。第一に体力の問題、第二に現在の心地よい生活に対する未練である。
 若いころはばかみたいに元気だった。私のたましいには宿命的な陰鬱さが刻まれており、しょっちゅう「あー、あした世界が終わればいいのになー」などと言っていたが、それでも身体はものすごく元気だった。具体的には平日仕事して週末災害ボランティアをしたりしていた。それがちょっとしんどくなってきた頃合いの博多オファーだった。
 私はその話を辞退した。
 あのとき私の「いつもどっか行きたい」には一つの歯止めがかかった。私にとってそれは、人生のある段階で緩めなければいけないものだった。私は死ぬまで全力で放浪できるタイプの人間ではなかった。そのことが残念で、でも誇らしくも思うのだった。

 それでもなお私は旅行をするし、もう一回くらい移住をしたいと思っている。今の私の「老後ドリーム」は定年退職後に地方都市で知人の会社を手伝いながら夜は飲み屋でバイトするというものである。そして知らない人と話すのだ。楽しそうである。
 そのためには何はなくとも体力、そして経済力である。私はジムに通い、定期預金の一部を運用に回し、自炊して栄養のあるものを食べている。
 たしか沢木耕太郎が、あるとき旅先で「ここにはもう来られないかもしれない」と思って、自分の年齢を感じた、というエピソードがあって、それを読んだとき私は若かったから、そんなものかと思ったんだけど、四十代の今、そうは思わない。よう沢木さん、と私は心の中で言う(私にとってたくさん本を読んだ作家は空想上の友人なのである)、あのころの沢木さんくらいになったけど、あたしはまだやるよ、まだ「来たくなったらまた来よう」をやるよ、まあ、たいした旅行してないからってこともあるけども。

広場と安心

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから三年が経って、いわゆる行動制限が緩和され、実質的に何をしてもよいということに、政治の上ではなっているのだけれど、かといって疫病自体がおさまったのではなくて、みんななんとなく左右を見ながらおおむねマスクをつけて暮らしている。

 この間についた習慣が住居から徒歩十五分ほどの大きな公園への散歩である。
 疫病流行当初は県境を越えてはならないとされており、商業施設や飲食店も早々に閉じてしまうので、休日の気晴らしに困った。それで目をつけたのが大きな都立公園だった。疫病は主に飛沫感染で広がったので、屋外の公園は開かれたままだったのである。

 休日の昼間、飲み物と敷物を持って出かけると、そこはなんだか外国の広場のようだった。
 わたしは海外旅行が好きで、疫病前には毎年一回か二回は海を越えていたのだけれど、その八割がアジアとヨーロッパだった。アジアのそれほど寒くない地域の都市にはたいてい大きな公園があり、人が夜や休日を過ごす場になっているのだった。ベトナムなどでは人生のほとんどすべてが公園で展開されているように思われた。
 彼らはそこでおしゃべりし、食事をし、子どもや犬を遊ばせ、知らない人に声をかけ、仲間うちでゲームやダンスに興じ、あるいは一人でエクササイズマシンを使い(公園に筋トレマシンみたいなのがあるのだ)、親しい人と肩寄せあい、あるいは本を読み、書きものをし、繕いものをする。そのなかでぼうっとしていると「人生をやっている」というような気持ちになるのだった。
 ヨーロッパの広場には強烈な自由の感覚があった。歴史的な経緯を知らなくても行けばそれを感じるのではないかと思う。さまざまな集会の場になってきたはずのそこは、ふだんはやはり「人生」の場なのだった。人々はそこここに座って延々と話し(フランス人などはほんとうにずっと話している。広場を通って買い物して戻ったら同じ組みあわせでまだ話していたりする)、いかにもやんちゃな若者がスケートボードを乗り回し、夜中に近くなっても人は減らず、翌朝通ると巨大な掃除機がすべてのゴミをなぎ払っている横で、出勤前の誰かがパンをかじっていたりするのだった。

 疫病下の都立公園にはそれに近い感覚があった。
 なにしろほかに行くところがないのだ。みんな公園で「人生」をやっているように見えた。ピクニックシートを広げているのも幼い子がいる家族だけではない。一人でも五人でもやっている(それ以上はたぶん疫病下だから遠慮しているのである)。おしゃべり、飲食、うたた寝は定番として、読書に写真撮影、ゲームにデッサン、歌の練習、楽器の演奏、衣装まであわせたダンスの披露。いいね、とわたしは思った。そうした性質は疫病前からそなわっていたにせよ、こんなに人が増えたのは疫病の影響だろうと思った。

 そうした環境のせいだけではもちろんないのだけれど、わたしは犬を飼うことにした。犬は公園を歩き回るのが大好きだし、犬の飼い主同士は簡単におしゃべりをする。犬を触りたそうにしている子どもの保護者ともちょっと話したりする。公園の「広場度」が高いと、犬を連れていないけれど犬好きな人が話しかけてくる率も高いように思う。
 わたしはなんでもないすれ違いざまの会話がゼロだとちょっとしんどくなってしまうのだ。そこいらの人にやたらと話しかけるエリアの出身だからかもわからない。
 疫病前にニューヨークに遊びに行ったら、普通の路上でも(ナンパとかではなく)めちゃくちゃ人に話しかけられ、わたしはそれだけで「わたしここ好き」と思ったものである。ドイツの人もよく話しかけてくれて好きだった。すれ違いざまの、てのひら大の親切。

 疫病はないほうがもちろんいいのだけれど、東京の大きな公園の「広場度」の高まりはなくなってほしくない。よき遺産として受け継いでもらいたい。
 わたしは公園を歩く。今年は春の訪れが早く、今日にはもう満開になってしまったから、公園にはいつもよりさらにたくさんの人がいる。わたしは花見もかなり好きである。知らない人が楽しそうにしている中にいるのが好きで、それが屋外ならなお気分が良いのだ。親しい人と密室にいるときの絶対的な安堵と充足も大好きだけれど、知らない人と気分よく空間を共有するちょっとした安心感も好きなのだ。なんていうか、戦争が起きなさそうじゃないですか。

想像上のカウンター

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのさなかにこの町に引っ越してきたので、しばらくは飲み屋に行くこともできなかった。わたしは働き疲れて小さな居酒屋で小一時間飲んでささっと帰るような日が、けっこう好きなのだけれど。

 今日は珍しく灯りがついていた。ドアをあけると、彼は自分のためにいくらかのつまみを盛っていて(あきらかに自分向けの、ラフな盛り方だった)、わたしの顔を見ると、お、と言った。入っていい、とわたしは尋ねた。いいよいいよと彼はこたえた。もうのれん仕舞っちゃったけどさ、残りもんでよければ。
 一人で飲もうと思ったんだろうにお邪魔しちゃって悪いね。いやいや、一人より二人で飲んだほうがいいですよ、そりゃ。そうお、ふふ。なに、今日はこんな時間まで仕事してたの? そう、ずーっとオフィス、もういやになっちゃう、あ、これおいしいな、ねぎのぬたとホタルイカのやつ、酢味噌がいいのよね、自分でやってもこうはならないんだよな。まあね、たいしたもんじゃないけどね、全部食べちゃっていいよ、あと卵焼きでもやるか。
 あー、わたしも飲み屋になろうかな。いやになっちゃった。わたしが言うと彼は背を向けたまま卵をかき混ぜ、その手を止めて、そう、いいんじゃない、もうちょっとあとでもいいんじゃない、と言った。卵焼き器が音を立てる。まあね、とわたしは言う。仕事は好きなのよ、繁忙期に毎日十一時とかになるのがいやなのよ、家でごはん作って食べたいじゃん。

 彼は飲み屋の店主の顔をやめる。そして夫の顔をして言う。毎年この時期になるとそう言うよね。まあほんとにやめたかったらやめちまえばいいんだよ。どうとでもなるよ。おれなんか二回転職してるし。

 わたしたちは疫病下にこの町に越してきたので、行きつけの飲み屋を作ることができなかった。そもそも飲み屋で知り合うくらい、外飲みが好きなのにだ。
 それで開発したのが「飲み屋ごっこ」である。わたしたちが飲みたくなるのはたいてい週末である。金曜日の夜、わたしが先に帰ってつまみの支度をしていると、帰ってきた夫がのれんをくぐるふりをしながら、「このお店まだやってる?」と言ったのがはじまりだ。以来、先に帰ってつまみを作っていたほうが店主役になって、しばらく飲み屋とその客のふりをして話すのである。
 店主のキャラクターや店の規模もなんとなく決まっている。夫が演じる店主は、おじさんっぽい話し方をするがまだ三十代、独身独居、どうやら大学を出たあと会社勤めをした経験があり、そのあと調理師の専門学校に行き直したらしい。実際の夫は会社員を継続しているので、この店主はおそらく夫の「飲み屋でもやれたらいいのにな」という願望をかぶせたキャラクターなのだろう。
 わたしのほうはもっと今現在の自分から離れたキャラクターとしての店主を演じる。年齢を現在の自分よりかなり上に設定し(「将来ほんとにこうなることも可能」と思いたいから)、「さっぱりした気性で、チャキチャキで口が立って、相手によってはちょっと色っぽくなる、そんなおばさんがいいわねえ」などと願望を乗っけている。

 わたしはカウンターにひじをつく。実際にはいつものダイニングテーブルなのだが、今は居酒屋のカウンターなのである。店主はコンロの前でだし巻き卵を皿にのっけている。いい男、とわたしは声をかける。みっちゃんはメシ作ってくれれば誰でもいい男に見えるんだろ、と店主が笑う。わたしたちはふだん互いを呼び捨てにしている。みっちゃんというのは飲み屋での呼び名なのである。そんなこと、ないよ、とわたしは言う。いや、「みっちゃん」は言う。みっちゃんは普段のわたしよりはすっぱで、店主は普段の夫より照れ屋だ。

 亀田くんはさあ、とわたしは言う。ちょっといいなと思う相手にはやたらと親しげにせず、あえての名字に「くん」づけを継続、これがみっちゃんの作法である。おいしいごはん作ってもらえればいいわけ? 
 夫は爆笑する。もう完全に「亀田くん」ではない。相変わらず、やるなあ、と言う。ほんとにね、ナンパがうまいんだから、俺なんかあっという間につかまっちゃったんだから、ときどき心配になりますよ。ナンパなんか、あなたにしかしてない、とわたしは言う。夫はまた爆笑する。ほんとなんだけどな。あんなことは生涯一度きり。わたし、すごく勇気を出したんだよ。
 内心でだけ、そう言う。そしてただ笑う。

想像上のカウンター

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのさなかにこの町に引っ越してきたので、しばらくは飲み屋に行くこともできなかった。わたしは働き疲れて小さな居酒屋で小一時間飲んでささっと帰るような日が、けっこう好きなのだけれど。

 今日は珍しく灯りがついていた。ドアをあけると、彼は自分のためにいくらかのつまみを盛っていて(あきらかに自分向けの、ラフな盛り方だった)、わたしの顔を見ると、お、と言った。入っていい、とわたしは尋ねた。いいよいいよと彼はこたえた。もうのれん仕舞っちゃったけどさ、残りもんでよければ。
 一人で飲もうと思ったんだろうにお邪魔しちゃって悪いね。いやいや、一人より二人で飲んだほうがいいですよ、そりゃ。そうお、ふふ。なに、今日はこんな時間まで仕事してたの? そう、ずーっとオフィス、もういやになっちゃう、あ、これおいしいな、ねぎのぬたとホタルイカのやつ、酢味噌がいいのよね、自分でやってもこうはならないんだよな。まあね、たいしたもんじゃないけどね、全部食べちゃっていいよ、あと卵焼きでもやるか。
 あー、わたしも飲み屋になろうかな。いやになっちゃった。わたしが言うと彼は背を向けたまま卵をかき混ぜ、その手を止めて、そう、いいんじゃない、もうちょっとあとでもいいんじゃない、と言った。卵焼き器が音を立てる。まあね、とわたしは言う。仕事は好きなのよ、繁忙期に毎日十一時とかになるのがいやなのよ、家でごはん作って食べたいじゃん。

 彼は飲み屋の店主の顔をやめる。そして夫の顔をして言う。毎年この時期になるとそう言うよね。まあほんとにやめたかったらやめちまえばいいんだよ。どうとでもなるよ。おれなんか二回転職してるし。

 わたしたちは疫病下にこの町に越してきたので、行きつけの飲み屋を作ることができなかった。そもそも飲み屋で知り合うくらい、外飲みが好きなのにだ。
 それで開発したのが「飲み屋ごっこ」である。わたしたちが飲みたくなるのはたいてい週末である。金曜日の夜、わたしが先に帰ってつまみの支度をしていると、帰ってきた夫がのれんをくぐるふりをしながら、「このお店まだやってる?」と言ったのがはじまりだ。以来、先に帰ってつまみを作っていたほうが店主役になって、しばらく飲み屋とその客のふりをして話すのである。
 店主のキャラクターや店の規模もなんとなく決まっている。夫が演じる店主は、おじさんっぽい話し方をするがまだ三十代、独身独居、どうやら大学を出たあと会社勤めをした経験があり、そのあと調理師の専門学校に行き直したらしい。実際の夫は会社員を継続しているので、この店主はおそらく夫の「飲み屋でもやれたらいいのにな」という願望をかぶせたキャラクターなのだろう。
 わたしのほうはもっと今現在の自分から離れたキャラクターとしての店主を演じる。年齢を現在の自分よりかなり上に設定し(「将来ほんとにこうなることも可能」と思いたいから)、「さっぱりした気性で、チャキチャキで口が立って、相手によってはちょっと色っぽくなる、そんなおばさんがいいわねえ」などと願望を乗っけている。

 わたしはカウンターにひじをつく。実際にはいつものダイニングテーブルなのだが、今は居酒屋のカウンターなのである。店主はコンロの前でだし巻き卵を皿にのっけている。いい男、とわたしは声をかける。みっちゃんはメシ作ってくれれば誰でもいい男に見えるんだろ、と店主が笑う。わたしたちはふだん互いを呼び捨てにしている。みっちゃんというのは飲み屋での呼び名なのである。そんなこと、ないよ、とわたしは言う。いや、「みっちゃん」は言う。みっちゃんは普段のわたしよりはすっぱで、店主は普段の夫より照れ屋だ。

 亀田くんはさあ、とわたしは言う。ちょっといいなと思う相手にはやたらと親しげにせず、あえての名字に「くん」づけを継続、これがみっちゃんの作法である。おいしいごはん作ってもらえればいいわけ? 
 夫は爆笑する。もう完全に「亀田くん」ではない。相変わらず、やるなあ、と言う。ほんとにね、ナンパがうまいんだから、俺なんかあっという間につかまっちゃったんだから、ときどき心配になりますよ。ナンパなんか、あなたにしかしてない、とわたしは言う。夫はまた爆笑する。ほんとなんだけどな。あんなことは生涯一度きり。わたし、すごく勇気を出したんだよ。
 内心でだけ、そう言う。そしてただ笑う。

遠い薔薇の日々

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それは何度か繰り返され、行動制限と呼ばれるようになった。先だってそのすべてが解除され、しかし感染状況は相変わらずなので、大勢が集まる場はなんとなく左右を見ながらぬるりと再開されている。
 私的な集まりが二人から三人、五人、八人と少しずつ大きくなり、勤務先でも三年ぶりに歓送迎会の開催が決まって、出身校の同窓会組織が数年に一度呼びかける集まりもいちおうは「非公式」として実施されることになった。

 彼と会うのは十年ぶりにもなるだろうか。疫病とは関係なく会っていなかったし、連絡も取っていなかった。そういう間柄ではないのだ。やあ、と彼は言った。首が少し前に出ている、と私は思った。大きな花が花瓶の中で弱っているような角度だった。
 私はSNSをやらない。他人のも見ない。特段の主義主張があってのことでなく、単に面倒なのである。だから彼の近況も知らなかったのだが、彼は「らしいね」と笑い、転職と結婚と離婚を一度ずつした、と簡潔に告げた。それからもう一度結婚する予定があると。
 人生だねと私が返すと、雑、と言ってまた彼は笑った。私は二十年前の彼を思い出した。十年前には少ししおれていたけれど、そのときにも私は、大輪の薔薇のような、と彼を形容したのだった。華やかで人目を引いて、何かを代表するときに選出されやすいタイプ。
 四十代になっても相変わらずそのような人だった。四十代なりのしょぼくれた感じを添加して、それでもなお目立つタイプ。いつだってよく似合う、その場に合った服装をして、相手に合わせた話題と話しかたと表情のつくりかたをして、少しだけ芝居がかった仕草の、すなわち過剰なほどに周囲を見ているタイプ。世界をコントロールしたいのかな、と私は思っていた。怖がりやで権力志向で、いくらか薄っぺらくて、だからこそとても感じのいい、大きい薔薇のような人。

 たしかかあのとき結婚したいと言っていたねと私は言った。そう、と彼は言った。マキノさんのことなんかきれいさっぱり忘れていたのに、顔を見たとたんにあのときの会話を思い出した、あのときはすごく結婚したかった、そして実際したらなんだかいやになってしまった、人生ってこんなものかって思った、すごくつまらなくなった、思い描いていたとおりの人と結婚したのにね。
 それで浮気したんだあ、と私は言う。誰から聞いたんだと彼は尋ね、想像だよと私はこたえた。いや、想像というほどのものでもない、典型をなぞっただけ、私があなたみたいな男だったらそうする、共働きでそれなりの収入があって家のこと全部やってくれてみんながきれいと言うような女性と結婚して、そのうえで面倒なこと言わずに自分をじっと待っていてくれる別の女の子と浮気する。
 彼は火がついたように笑って、そうした、とこたえた。

 アルコールのほうはいかがですか、と私は尋ねる。十年近く前の彼は大量に飲んでいた。ほどほど、と彼はこたえ、手の中のグラスを揺らした。あんな生活は長く続けるものじゃない、少し前に転職してワークライフバランスを整えて、健康に生きてる。スーパーハードワークが楽しいのは体力があって他を圧倒できる期間だけだよ、この年齢になって僕の前の会社に残るのは経営側に回る人間くらいのものだよ。
 そういうものなんだ、と私は言う。そして思う。その途中で身体を壊す割合はどのくらいなんだろう。でも言わない。彼はそうでなかったのだろうから。
 自分はもっともっとやれるはずだ、いい目を見られるはずだという期待に基づく焦燥感を、きっと彼は持っていた。自分は特別な人間だと、そうでなければならないのだと、大人になっても思っていた。そういう人間でなければ、たとえ彼と同じような能力と容姿をそなえていても、薔薇のように振る舞うことはできない。

 酒と薔薇の日々、と私は言う。まさに、と彼は笑う。僕はもう週末にしか飲まないし、もちろん薔薇なんかじゃない。くたびれたバツイチのおじさんで、浮気相手とはもちろん違う人と地味な再婚をして、しょぼくれて暮らすんだ。
 私はほほえむ。それはどうかな、と思う。薔薇であることを辞めるのはそんなに簡単なことじゃない。何かを麻痺させるための薬のような手段をいくつも持っていた人間がそのすべてを手放すことはそれほど簡単ではない。それが証拠に彼をご覧、まだ薔薇のような男じゃないか。
 そう思う。でも言わない。

恨みの要件

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。何度か出された通達が「いくらなんでももういいだろう」という感じで止まり、いわゆる行動制限が解除されたのがつい最近のことである。
 疫病自体はぜんぜんおさまっていないので、相変わらずワクチンを打ったりマスクをしたりはしている。疫病以降に知り合った人とはじめて食事に行くと、「こんな顔で笑うんだ」と思う。顔の下半分を出さずに過ごしていたのだから、そりゃあそうだろう。口というのは表情のけっこうな割合を占めるものなのだ。
 そのようにしてはじめて顔を見た職場の若い人が、ぽつりと訊くのである。人を恨んだことってありますか。自分をすごくひどい目に遭わせた相手への感情に、どう折り合いをつけたらいいと思いますか。

 わたしが生まれ育った家庭は悲惨なところで、職場の人間もそれを知っている。検索すれば本名と職場が出てくるたぐいの仕事をしているために、職場に親族が押しかけてきたことがあるのだ。よくできた職場で、冷徹に追い返してくれた。それでちょっと話題になったから、若い人も知っているのだろう。
 恨む、という語に少し驚いて、それからこたえた。たぶん、ない、憎んだり嫌ったりはするけど、恨むっていうのは、ちょっとわからないかもしれない。
 でも気が済まないことはあったでしょう、どういうふうに折り合いをつけたんですか。若者はそのように質問を重ねる。折り合い、とわたしは繰りかえす。いや、折り合いをつけたりはしていない、というか、折り合いをつけるやり方がわからないし、つけようと思ったことがない、自分に加害した連中が目の前にあらわれたら今でも憎いと思うだろうし、彼らがこの世に存在するよりしないほうが気分がいいだろうけど、まあでも、本当に気が済まなかったら殺そうと思っていたからね、それより自分の人生が楽しいから殺さなかったというだけのことでね。

 わたしには十五歳より前の記憶が断片的にしかないのだが、少なくとも十五のときには自分の親を殺すことを考えていた。同じ家で生活していたら、一人か、うまくすれば二人とも殺すチャンスはある。相手は自分が殺されるなんて思っていない。それなら非力な子どもでも準備して工夫して冷静にやり遂げれば殺すことはできる。しかし、殺したあとそれを隠し通すことは不可能だ。
 わたしは「今は殺さずに耐えて、できるだけ自分の被害を減らし、十八になったら家を出て楽しく暮らす、そのほうがわたしにとっては得だ」と判断し、彼らを殺さなかった。「やっぱり殺したいと思ったら、戻ってきて殺そう」と思った。
 今のところ殺していないし、ふだんは彼らの存在を忘れている。

 そこまで考えて、わたしには選択肢があったから恨むという感情を覚えなかったのではないか、と思った。優しかったり常識を持っていたり、虐待する親でも愛するというような心情がある子どもなら、殺すという選択肢が浮かばず、心が八方塞がりになるのではないか。その八方塞がりを「恨み」と呼ぶのではないか。
 うらめしやーと出てくる幽霊、あれは生きているうちは何もできない立場に追い込まれていたから、化けて出るのではないか。番町皿屋敷のお菊さんが生身で何をどうがんばったところで武家屋敷の連中を惨殺することはできない。もちろん、家を出て生活する目算も立たない。なにしろ江戸時代の話である。

 大人になってから、何か理不尽な目にあって人を恨んだことはないんですか。若者が質問を重ねる。わたしはこたえる。いや理不尽な目に遭ったことはそりゃあありますよ、転職が決まって前の職場を辞めたあとに内定を取り消されたりとか。でもそれも弁護士さんのところに行って訊いてみたら「訴えたら勝てるけどせいぜい百万しか取れない」って言われて、それでこの業界で働きにくくなるならやめとこって思ったんだよね、そりゃしんどかったけど、ほんとに気が済まないなら訴えればいいんだからと思って。あとはそうねえ、セクハラとかはちゃんと相手を処分してもらったから、まあいいかなって、相手を許してはいないけど気は晴れたよね。
 要するにわたしは八方塞がりになったことはないんだ。見回せば二方くらいはあったの、いつも。
 わたしがそう言うと、若者は少し目を泳がせ、言った。愛してなかったから、恨まなかったんですね。
 うん、そう、とわたしはこたえる。それから思う。「愛しているからこそ恨んでいる、そんな相手がいるの?」と訊いたほうがいいのかな。