傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

友人が友人でなくなるただひとつの恋愛パターン

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの周囲から真っ先になくなったのが「慣例でなんとなく年に一度くらいやっていた昔なじみとの飲み会」である。ほんとうはみんなそれほどやりたくもなかったのかもしれなかった。
 もう復活することはないかなと思ったのだけれど、疫病流行から二年、なんとなくの飲み会をやってもいいのかもしれないというような空気が東京にやってきて、それでまたわたしの昔なじみから声がかかった。わたしは行くと返信した。
 わたしはなにしろ飲み会に飢えていた。先だって趣味仲間に声をかけて飲み会をやったのだけれど、ハイになっちゃうくらい楽しくて超酔っぱらった。飲み会はほんとうに楽しい。疫病前はそこまでではなかったのに、一度奪われるとこんなに恋しくなるものかと思う。それで昔なじみの集まりにも一も二もなく参加した。
 そうしたらしばらくLINEのやりとりもなかった旧友が「あの彼とは別れたの」と言った。あの彼、というのは彼氏ではない。彼には彼女がおり、旧友は二番目の人をやっていた。わたしは息をのみ、それから、そう、と言った。わたしはほっとしていた。この人は帰ってきたのだ、と思った。

 わたしがとても若かったころ、誰が誰とどんな関係を結んでいようが友人としてはどうでもいいことだと思っていた。わたしの友人知人には色恋やパートナーシップに関して極端な人が多くて、二股三股結婚離婚再婚、ひたすら振られる、ひとりの相手とくっつく離れるを繰りかえす、親密な関係を一切必要としない、などなど、ずいぶんと多彩だったけれど、色恋で人間が変わってしまったと感じたことがなかった。だから友人としては彼ら彼女らがどんな関係を持とうと、おもしろがって聞くだけだった。
 ところが二十代半ばからひとつのパターンが浮上した。恋人や結婚相手のいる人を好きになり、いわゆる浮気相手になるというものである。
 わたしはそれもいいんじゃないかと思っていた。そんなふうに誰かを好きになるなんてわたしには想像もできない。だから彼女たちはレアな大恋愛をしているんだ、と思っていた。
 でも彼女たちは(全員が女性で相手が男性だった)、なぜだか友人としてつきあいにくい相手になってしまうのだった。
 彼女たちはその相手に自分を選んでほしいと言わない。相手の都合に合わせる。相手の邪魔をしない。連絡があればすぐに応じる。家事や雑用を引き受けたりもする。そして相手は彼女たちの打ち込んでいる専門分野において彼女たちの「上」の人間である。
 「上」というのは彼女たちのことばを要約したものだ。才能のある人が好き、と彼女たちは言った。知性にすぐれる人が好き、という言い方のこともあったが、その場合も自分と異なる分野で知性を発揮している相手は対象にならないようだった。職場の上司や先輩、学生時代の先輩が典型的な相手である。
 彼女たちはわたしが若いころそう思っていたように「そんなに好きになれるのは希有なことだ」という感覚を持っている。そしてしだいにそれだけが素晴らしい恋愛で、それ以外は妥協や社会的プレッシャーの産物だというような話をしだす。このあたりでわたしは「つきあいにくいな」と感じはじめる。彼女たちはさらに、他人の社会的つながりを軽蔑しはじめる。つまらない仕事してる、「育ちが悪い」からそんな親戚がいる、職場にいいように使われて気の毒、そんな土地に住めるなんて信じられない。
 このあたりでわたしはそっと彼女たちと疎遠になる。彼女たちがどうしてそんなにも狭量になるのかわからないまま。恋愛対象がなぜ排他的信仰の対象のようになるのか理解できないまま。

 だから旧友がそこから帰ってきてくれて嬉しいと思う。今日も嬉しくて酔っぱらってしまいそうだと思う。
 わたしにはわからない。どうして特定の分野の特定の才覚だけを称揚し、自分たちの関係以外を下賤なもののように言わなければならないのか。自分の「上」の相手がセクシーに感じる人は一定数いるのだろう。才能萌えというのもきっとあるのだろう。でもどうして、その感覚のない他人を軽蔑してそれを口に出さなければいけないのだろう。わたしは彼女たちにそうじゃない話を聞かせてほしいのに。

牛尾の気持ち

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにリモートワークが定着してしばらく経つ。わたしの勤務先では四月だけほぼフル出社、平素はほぼフルリモートである。
 今の新人はリモートワーク以降に入社した。直接顔を合わせる機会が少ないので、うるさいだろうなと思いながらも新入社員によく(リモートでも)声かけをするようにしてきた。するとけっこう愚痴が出る。「自分たちは疫病下の就活で損をした上、新人として得られるものも前年以前よりずっと少ない」という内容の愚痴である。それはまあそうだと思う。
 しかし彼らは彼らなりに息を抜いているようだ。「ぶっちゃけ同期とはけっこう集まって飲みに行ってますよ」と言った者もあった。わたしは「そうしなそうしな」と言える立場ではないから、いかにも日本人的なあいまいなほほえみの中に「そうしなそうしな」という意思を埋めこんだ。

 そのような新人たちの一人が思い詰めたようすで連絡してきた。辞めるの辞めないのという、そういう話である。長年の管理職経験からの個人的な見解を述べるなら、そういう人はけっこうな確率でほんとうに辞める。
 わたしの仕事には採用コストを考えて若者の退職をできるだけ防止することも含まれているのだけれど、個人の感情としてはあんまり止めたくない。より合う転職先が見つかったなら「よかったよかった」と思う。疲れたりトラブルに見舞われたりして辞めるなら、「ちゃんと決意してえらいね」と思う。あんまり引き留めないタイプの上司である。ただ話はぜんぶ聞いておきたい。リモート勤務では人間は簡単に思い詰めるし、簡単に視野が狭くなる。そんなのはわたしだってそうである。年齢が半分の新人ならどんな突拍子もないポイントに引っかかってもおかしくない。

 みんなすごくて、と彼は言った。自分、できなくて、辛いです。

 きたな、とわたしは思った。珍しいが、何度かお目にかかったことのある離職理由である。
 わたしの勤務先は業界では結構な給与水準とじゅうぶんな福利厚生となかなかのブランドイメージを誇るので、待遇が理由で同業他社転職をすることはあまりない。若者が辞めるポイントのぶっちぎり第一位は直属の上司と合わないこと、だいぶ離れて第二位は上司以外の他の社員との人間関係である。そして第二位の中には「ここにいると劣等感を感じる」というものが一定数含まれる。
 わたしはこの離職理由がどうにもわからない。わたしは所属集団の中でできるかぎり能力的に最下位近辺にいたい。だって、トクだから。
 周囲の人間の影響力は大きい。だからわたしはできるだけわたしより能力が高く、わたしより勤勉で、わたしより人格的に成熟した人にかこまれて仕事をしたい。そして彼らの影響で能力が上がったり怠け癖がなりをひそめたり内面が成長したりしたい。そこまでいかなくても「そうであるかのようなふるまい」をするヒントをいっぱいもらいたい。なぜかといったら、能力が高くて勤勉で成熟した人間みたいに振る舞うとかっこいいからである。あと、同世代で部下でもない人間の尻拭いするの超めんどくさい。みんなわたしよりできてほしい。そしてわたしにいろいろ教えてほしい。みんながすぐれていれば、わたしはトクしかしない。やったね。
 わたしがずうずうしい中年になったからそう思うのではない。高校は補欠で入学してすごく楽しかった。生まれ持った性分としてビリポジション大好きなのである。そんなだから、「まわりがすごくできるのに、自分は」という種類の劣等感についてはいっこもわからない。なんでさ。それすごく楽しくてトクな立場じゃん。交代してほしいよ。

 しかしわたしはそのせりふをぐっとこらえる。この若者はそれが苦しいからわたしに面談を申し入れているのだ。
 わたしは過去に経験したこの種のケースを思い返す。一回目は「あなたはすぐれている」と主張して失敗した。二回目は「すぐれた者を集めればほとんどの者がその中で平凡になるのは当然のことだ」と本音を述べてやはり失敗した。三回目は、えっと、そうだ、たいしたことは言っていない。イライザ作戦をやった。イライザはオウム返しをする原始的なAIである。わたしはときどきそれを職務上の面談に使う。 
 今回もそうしよう、と思う。どうもわたしは(能力で劣等しているわりに)劣等感というものがわからないので、だからたぶんイライザをやるしかないのである。

コンテンツ必要ない系の人々

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしに新しい出会いの機会がなくなった。恋愛の話ではない。仕事のコネクションとかの話でもない。友人知人の話である。わたしは知らない人と新しく知り合うのがとっても好きなのだ。利害関係も色恋沙汰もないところで雑談がしたいのだ。そうして「人間はみんなちがう」と思う、するとなんだか安心する。これができないとなんだか世界が平板になった気がしてうそ寒く落ち着かない。知らない人としゃべりたい。
 その欲求にこたえたのはもちろんインターネットである。ウイルスが載らないコミュニケーション手段。知らない人もうようよしている。知り合うとっかかりとしては趣味がもっともやりやすい。わたしは小説やマンガの話ができる相手を探し、気の合う仲間を手に入れた。めでたし。

 めでたしなのだが、彼らのある種の性質にわたしは少々困っている。
 小説やマンガの話が好きな人たちは、ノンフィクションや映画も好きで、カルチャー全般を愛していることがほとんどだ。そして自分たちの知識や見識に誇りを持っている。それはいいことなのだが、コンテンツ文化に興味がない人のことをあからさまに見下すのだ。するとわたしは非常に居心地が悪くなってしまう。
 なんかね、あの人たち、コンテンツ文化に興味がない人たちのことをすごくステレオタイプに見ているの。たとえば朝井リョウが描くマイルドヤンキーみたいな感じに見てる。「みんなでバーベキューしているときにストロングゼロ缶をあけ、子どもたちの目の前でふざけて飛び込みをして、そのまま死ぬ」とか、そういうイメージです。わたしはこういう描写がほんとうに怖い。ヒッてなる(新作に出てきます)。
 地元の仲間と行くキャンプやバーベキューに罪はない。ないのだけれど、カルチャー好きな人々は「バーベキュー 笑」みたいな感じで言及する。わたしは子どものころ毎年親の友人グループにまさにそういうキャンプに連れて行ってもらっていたから、都度しょんぼりしてしまう。楽しいよ、みんなでキャンプ。
 そして、コンテンツカルチャー好き系の人はコンテンツカルチャー必要ない系の人のことを「あまり知的でなく、学歴が低く、重要な仕事をしていない」と思っているふしがある。これもね、なんかちがうと思う。知的で学歴が高くて、たとえば給与水準が高い仕事をしている人にも、コンテンツ系まったく興味ない人はいっぱいいる。単にそういう人としゃべったことがないだけじゃないかと思う。
 わたしの職場の先輩に、およそ日本でもっともブランド価値が高いような学歴を持っていて、三カ国語に堪能で、打てば響きわたる頭脳の超かっこいい女性がいるんだけど、仕事以外の都合で本を読むことなんかないし、それで問題ないって言ってた。去年観た映画は息子さんを連れて行ったドラえもんと鬼滅だけ(なお、鬼滅は息子さんが怖がったので途中で出てきたそうです。子どもって、鬼滅好きなのに本編を見ると怖がること多いよね)。
 わたしの育った家でも、母方はコンテンツ好き系、父方はぜんぜん必要ない系の人が揃っていた。父方の係累の趣味はDIYとか料理とかスポーツ、それに園芸や家庭菜園やペットの飼育で、親戚同士で山荘を共同所有して、子どもたちに自然体験をさせてくれた。
 おかげでわたしは「野山に混じりて竹をとりつつ」が実際にはどういう手順でおこなわれるかわかるし、「起仰天狼熾」とくればその星がどんな光を作家の上に降らせたか想像できるし、おじいちゃんお手製の奈良漬けほど美味しいのはめったに買えないと思っている。ちなみにわたし自身も流しそうめんのあの竹のやつをゼロから作れる。楽しいよ。
 一方、母方の祖父母は本の虫で、母も四六時中フィクションを摂取している人だ。わたしは母の本棚の中身を十八までにあらかた読んだし、今でも母とのLINEはおすすめタイトルの交換が九割だ。
 わたしは母方の感じも父方の感じもどっちも好きで、だから片方だけ否定的に見られるとほんとうにしょんぼりしてしまう。

 こうなったらインターネットでキャンプ仲間を募って自分の双方のたましいを満足させる交友関係を構築しようか。でもわたしはSNSが器用じゃないから、アカウントわけとかほんとうにめんどくさい。わけずに募集したらいけないかなあ。カルチャー系だけにしている今でも、「棲み分けしてください」って言われたことあるから、やっぱだめかなあ。はあ、なんかもうソロキャンでいい気もしてきた。

筋肉がわたしを裏切った

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの筋肉量は大きく変化した。

 健康で仕事にも支障がないことをありがたいとは思うけれど、二年近くも楽しみを奪われればもちろん退屈する。わたしはルールや決まりがあれば守るたちだから、この二年は友だちに会う機会をぐっと減らしたし、旅行もしていないし、帰省も控えている。恋活だってアプリでやっていて、初回デートはだいたいZoomだ(わたしはいきなり対面するのがつらく感じるので正直そのほうが助かるのだけれど)。
 そうするとどうなるか。
 退屈するのだ。

 人生のタスクを進めているとわたしは安心する。子どものころからずっとそうだった。子どものころから勉強にも友だちづきあいにも手を抜かなかった。人並みに楽しく充実した学生生活を送り、入念に自己分析して業界研究して第一志望の会社に就職した。三十歳までに結婚式を挙げたいから二十六歳の今から現実的な条件を考えて結婚願望のある二十代男性にしぼって恋活をしている。貯金ももちろんしている。キャリアについても真剣に考えて社内試験の準備などしている。
 そんなの当たり前だと人は言うかもしれない。私も当たり前かなと思う。でもまわりを見るとけっこうそうじゃない子がいる。夢のために始めたはずの仕事がブラックすぎて夢どころじゃなくて病んだり、結婚したいと言いながらセフレに沼ったり、ちゃんとお給料もらってるはずなのにいつもお金ないって言ってたり。
 結婚したければ結婚したい男性を探す。夢があるなら夢を潰すようなブラック企業に入らない。お金に余裕を持ちたければ無駄遣いしない。当たり前のことだ。
 でもそういう当たり前の生き方をつまらないと言う人もいる。前彼がそうだった。結婚願望があってわたしよりちょっと上の収入で見た目の釣り合いもとれていたのに、「自分の人生がこれで終わりと思いたくない」とかなんとか言ってた。なにそれ。わたしは終わってなんかいない。
 友だちにそのことを相談した。言いにくいんだけど、と彼女は言った。リナちゃん正しすぎるんだよ。前彼の言い方はひどいけど、もしかすると「ぜんぶ予想がつく人生は息苦しい」と言いたかったのかもしれないよ。わかっていてもできないことはある。結婚願望と刺激的な恋愛したいっていう願望を両方持っててうろうろしてる人、けっこういるよ。わたしだってダイエットしたいのに甘いもの食べちゃう。そういうものじゃない?

 そういうものじゃあない、とわたしは思う。優先順位をつけてがまんして努力するものだと思う。
 思うけど、みんなはそうじゃなくて、そうじゃないほうが素敵とほんとは思ってるんだ。だって前彼はそういう子のほうを好きになったし、友だちもどこかでわたしのことをつまらないと思っている。
 世の中はそんなに単純じゃない。そうは思う。努力が報われないことだってある。もちろんある。でも報われるべきだと思う。どうしてもそう思ってしまう。計画どおりにものごとが進まないとほんとうにイライラしてしまうし、自分の予定が崩されることがなにより嫌いだし、だから疫病禍なんて「どうしてわたしが生きてるうちに来たんだ」と思ってる。もちろん、口ではしかたないねって言って、ステイホームも充実させてるようにふるまっているけれど、ほんとうは、ほんとうは。

 そしてわたしは筋トレにはまった。
 最初はボディメイクが目的だった。最近はただ痩せているより健康的に筋肉をつけてボディメイクするのがいいということになっているからだ。わたしはいつもまわりの平均よりちょっといい状態でいたい。いちばんではなくて。目立つのは嫌いだ。筋肉がつきすぎて女性らしくない状態はよくないと思う。思うんだけど、そんなの飛んじゃった。
 筋トレ楽しすぎ。努力が結果に結びつきすぎ。ごはんおいしすぎ。QOL上がりすぎ。夜よく眠れすぎ。むかつく同僚も「わたしより弱そう」と思えば気にならない。最高か。

 ああ、でも、このままでは、わたしは、「平均よりちょっといい」どころではなくなってしまう。わたし、女のわりに筋肉つきやすいみたい。このままではめちゃくちゃ筋肉質になってしまう。しかもちょっとそうなりたい。いや、なりたくない。筋肉が裏切らないなんて嘘だ。筋肉のせいで人生がおかしくなってしまう。
 友だちに相談した。そうすると彼女はちょっと笑って、わたし前よりもっとリナのこと好きだよ、と言った。

サイコパス矢島の結婚

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それ以来はじめて知人が結婚した。元部下の矢島である。
 ほんとはかちょーにスピーチしてもらいたいんですけど、と矢島は言う。この状況で身内以外式に呼べないんで。呼べたってスピーチはいやだよとわたしは言う。今の上司にしてもらいなさい、そういうのは。
 矢島はわたしをずっと「かちょー」と呼ぶ。わたしの肩書はすでに課長ではない。「あだ名です」と矢島は言う。

 そう言う矢島自身のあだ名は「サイコパス矢島」である。現在はカスタマーサポートの部署の管理職で、わたしがその部署の責任者に着任したときは若きエースパイロットといった立ち位置だった。通常のフローでは対応が難しいクレームを驚くべき速度でおさめる、いわば窓口最終兵器である。ならば部署の社員たちにさぞ慕われているのだろうと思ったら、あだ名がひどい。どうしてでしょうと訊いてみると、その社員はあながち冗談でないような影のさした横顔を見せ、矢島さんはいい人ですが、と言う。いい人ですが、人の心が一部欠損しているのです。
 そのふたつは両立するのですかとわたしは訊いた。するのです、とその社員は断言した。
 そのわけはしばらく同室で仕事をしてみてわかった。突然怒鳴る相手であろうと、不可解な理由で泣き続ける相手だろうと、矢島はまったく動揺しているように見えない。電話を切った直後に鼻歌まじりで別の仕事に戻る。義務感や虚勢でそうしているとも思われない。全体に軽薄な印象のままなのだ。
 多かれ少なかれ、怒号を浴びせられれば怒りや怖れを感じる。不可解な理由で泣きはじめる相手には混乱する。見知らぬ人に強い感情をぶつけられる負担は大きい。
 そもそも、ほとんどの顧客が礼儀正しく問い合わせをしてくるのに、カスタマーサポートは不人気部署なのだ。何らかの不満や不審をおぼえている人間を相手にしていると、たとえ相手が礼儀正しくても、対応する側は疲れるからである。ましてヘビークレームを一手に引き受けるとなると、人によっては退職ものである。
 それなのに矢島さんはなぜ平気に見えるのでしょうとわたしは尋ねた(当時はまだ「さん」をつけていた)。矢島は言った。まあべつに愉快じゃないですけど、会社としてやれることは決まってるんで、できないことはできませんって言えばいいだけなんで。あと顧客は僕のこと別に知らないんで、身の危険とかないじゃないですか。
 怒鳴られたらどう感じますか、とわたしは聞いた。矢島はぼけっとした顔で「怒鳴ってんなー」と思います、とこたえた。泣かれたら、と重ねると、「泣いてんなー」と思います、とこたえた。むかつくとかかわいそうとか、そういうのはないですか。そう尋ねると、ちょっと考えて、あります、と言った。でもみんなみたいじゃないと思います。それでダメージ食らうとかがちょっとわかんないんで。
 矢島さんは感情を同調する相手を選べるのかもしれないです、とわたしは言った。親しい人が泣けば動揺するけれど、知らない顧客が泣いても感情が巻き込まれない、それはある種の才能ですよ、矢島さん。
 矢島はかれ特有の、爽やかかつ胡散くさい笑顔を輝かせ、言った。ありがとうございます。ただ、僕は彼女が泣いてもそれほど動揺しないです。顧客のときよりは動揺していると思うけど。
 かくしてわたしは矢島のあだ名の所以を理解した。

 それから何年かが過ぎ、わたしはカスタマーサポート部署から離れたのだが、矢島からはその間三度にわたって「彼女にふられました」という主旨の話を聞いた。彼女たちの言い回しは異なれど理由はだいたい同じで、要するに彼のいわゆる共感のありかたが問題になるのである。具体的には「冷たい」「信頼しきれない」「けんかのしかたが理屈っぽすぎて自分とは合わない」だったと思う。疫病前の居酒屋で矢島はぐいぐい酒を飲み、かちょー僕は悲しいっすと言った。わたしが泣いていいよと言うとほんとうに少し泣いた。
 その矢島がついに結婚である。「デキ婚持ち込み大成功」とのせりふから、矢島がこのたびの女性と結婚し子をもうけたくて策を練ったと思われた。彼女いい人なんだろうねとわたしが言うと、いい人っす、と矢島は言った。なにしろけんかしてても泣きながら理詰めしてくるんです、いつも理屈が通じるんです、ていうか彼女のことサイコパス英里子って呼んでるんです。
 ああ彼はきっと同類を見つけたのだ、とわたしは思った。おめでとう。素晴らしいことだ。生まれてくる子どもが人並みの「共感」がほしいタイプだったときには近くに適した人がいるといいのだが。

強者と強者の恋

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために外で人と食事をするのはたいそう不自由になった。夜中まで自由にお酒を飲むといった、かつてありふれていた遊びは、ずいぶん難しいものになった。
 しかしそれは「大半の人にとって」という但し書きのつく事象であるようだった。なんとなれば私の目の前にいる女は涼しい顔で繊細な杯をかたむけ、「二軒目までつきあってもらいますから」と言うのだ。疫病前とまるきり同じである。ここはきっと、特段のコネクションと割高な料金をもって疫病前の当たり前の夜を体験させる店なのだ。
 彼女は私よりずっと若く、私よりずっと収入が多い。結婚相手はさらに羽振りがよいのだそうで、つまりはたいそう裕福なのだ。たいそう裕福だから私と割り勘で食事はしたくないという。それで私はときどき彼女に呼ばれ、飲み食いしてふんふんいって帰ってくる係をやっている。

 私がのこのこ出かけていくのは供される食事が美味だからではない。この女が美しいからである。友人と呼ぶには内面があまりに理解しがたい、珍しい動物のようにきれいな女。私はこの女を観覧しに来ているといってよい。
 もとの造作も整っているのだけれど、なにしろ隙なくできあがった外見である。私がそのように褒めたとき、彼女は当然という口調で「だってコストをかけているもの」と言った。美容医療、パーソナルトレーニング、栄養バランスのすぐれた食事。これらで皮膚表面までをきっちり仕上げたのち、かぎりなくマッチする化粧品と衣服と装飾品をまとう。でもなにより見物なのはその所作である。動作と発声が常に優雅な圧力を帯びている。そういうのはめったに見られるものではない。

 そんな彼女がこの数年執着しているのが「長沢さん」である。ともに二十代前半のころに出会い、あっというまに恋に落ちた。聞くにつけふたりとも熱烈であったらしい。しかしその日々は長くは続かなかった。長沢さんはね、と彼女は言った。わたしとつきあっていたくせに余所のつまらない女に手を出したんです。だからわたしすぐ結婚相手にふさわしい男を捜したの。それが夫よ。夫はもちろんわたしを崇拝していて、何でもしてくれるし、外見も長沢さんよりいいってみんな言う。
 もちろん彼女は結婚後も長沢さんと会っている。彼女は欲しいものをあきらめたことがない。長沢さんには恋人がいるが、彼女とも会うのである。そしてこのふたりはもう四年ほど、「恋人と別れろ」「夫と別れろ」と互いに要求しながらくっついたり一時的に離れたりしている。
 そしてこのたびはとうとう、彼女が長沢さん宅でその恋人と対面したのだそうだ。修羅場である。私はわくわくして尋ねた。それでどうなったの。
 どうともなりませんよと彼女は言った。だって長沢さんの恋人とやらは長沢さんに他の女がいると、薄々どころじゃなくわかっていた。長沢さんもそれを承知していた。わたしはもちろんぜんぶ知っていた。顔を合わせたって何も変わるはずがないでしょう?
 無粋だけども、と私は言う。あなたは離婚して長沢さんと一緒になる気はないんでしょ。長沢さんだけが恋人と別れるべきだっていう、そういうアンフェアな考えを持っているのでしょ。
 ええ、と彼女は言う。離婚して長沢さんと結婚したいなんていう気はまったくない。わたしは幸せな結婚生活を続け、長沢さんは恋人と別れてわたしだけを愛するべきだと思っている。
 マキノさん、と彼女は言う。わずかに伏せたまつげが完璧な影を落とす。マキノさんは対等とかフェアネスとかが大好きなんですね。わかりますよ、だってマキノさんは恋愛における弱者だもの。一対一という約束をつきつけないと自分の好きな人をそばに置けない、そういう弱い立場にあるんだもの。だから同じように弱い相手と約束しあう。とても自然なことですよ。対等は弱者の戦略。だからわたしには必要ない。わたしが愛する人はみんなわたしだけを愛すればいい。わたしにはそれができる。

 今まではそうしてきた、と私は言う。彼女はほほえむ。彼女は言うまでもないことは言わない。私は言う。
 でも長沢さんだけがほかに恋人をつくる。あなたはそれが許せない。長沢さんもきっとそう思っている。彼もまたあなたの言う「強者」なのでしょう。あなたはわりと俗なところがあるから、幸福な結婚生活を得たらそのぶんポイントがつくみたいに思ってる。でも長沢さんが同じポイントを得たらどう感じるかな。負けたと思うかな。

 彼女はほほえむ。そんなことはぜったいに起きないと、たぶんそう思っている。

母の死に目に会えないだろう

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だから僕はそれ以来母に会っていない。

 僕が母と呼ぶのは養母のことである。実母は僕を産んですぐに亡くなった。もちろん記憶にはない。
 血のつながりというものがどれほど強いのか僕にはわからない。僕は父とは血のつながりがあって母とはない、そいういう家庭で育ったわけだけれど、父母のどちらかだけを本物の親だと思ったことはない。
 父は僕と子ども同士のように遊ぶばかりの(今にして思えば)子育ての実務の役に立つことのない人だったし、父の威厳みたいなものもぜんぜんなかった。母は母でずいぶんと(当時にしては)進歩的な考え方の、なかなかのインテリで、高校の教員をしていて、当時のティピカルな母親像みたいなことをやってくれる人ではなかった。おかずはだいたいスーパーかデパ地下のやつで、僕はそれを親たちと一緒に食べて大きくなったのである。

 そんなだから、僕はあまり血のつながりを気にしたことはなかった。でも母は僕が十八のときに僕の母であることをやめた。父と離婚したのである。
 あんたに悪いなとは思ってるわ、と母は言った。でもごめんねとは言わない。悪いことをしたのではないから。好きな人ができたから離婚するの。あなたのお父さんはいい人だけど、もうあんまり好きじゃないの。好きじゃなくなって生活をともにするにはあまりにも家のことをしない人だしね。
 わかる、と僕は言った。悪いと思うこともないよ、と言った。だっておれはもう大学生になるんだからね。子育ての節目ってやつでしょ。ていうか、よく育てたよね、おれを。とくにメリットもないのに。
 メリットとかそういうんじゃないのよ。母はそう言った。ある日、目の前にちいちゃい子がいて、「ああこれはわたしが育てるものだ」と思ったら、それで十何年も面倒みちゃうのよ。かわいいかわいいと思うのよ。言っとくけど今でもかわいいからね。あたしよりでけえくせによう、おまえかわいいんだよ。今だっておむつかえてやってもいいよ。母性本能なんてばかみたいなこと言うんじゃないよ。あたし子どもなんか産んだことねえし。でもあたし、十六年間、あんたのお母さんだったよ。今日からお母さんじゃないよ。あんたのお父さんと離婚するから。
 うん、と僕は言った。
 おれには二歳から十八歳のあいだだけ、母親がいたんだ、と思った。

 話はさらにややこしくなるのだけれど、その後父は再婚した。死別からの離婚からの再婚ていうか再々婚になるのかな、まあなんでもいいんだけど、僕が二十歳過ぎてからの結婚だったので、「おめでとうございます」という感じだった。それにしても父、もてるよな。けちじゃないけど金持ちでもなんでもなくて、貯金なんかほとんどないのにさ。
 父の三番目の妻が「相続の都合があるので養子になってほしい」と言うので、謹んでお受けした。だから僕には現在母親というものがいるのだけれど、でもどう考えてもこの人は「母」ではない。便宜上継母と呼ぶことにしている。僕が母と思っている人のことを他人に話すときには「養母」と呼んでいる。それが僕の落としどころである。

 疫病がやってきて、血のつながりのない人は入院先に面会に行けなくなった。
 養母は定年後、わりと早めに認知症になった。父と別れたときにつきあっていた男と結婚していて、その男が僕に連絡をくれた。まだそれほど年がいっているわけでもないのに残念だけれど、からだもだいぶ弱ってしまって、介護が必要だから、施設に入ることになったんだと。
 それでときどき会いに行っていたのだけれど、疫病が来てからは行っていない。僕はそれまで養母の「息子」として年に何度か養母のいる施設に通って面会していたけれど、息子というのは「嘘」だからである。
 母は認知症のほか昨年がんの手術をして、それほど長く生きると思われない。

 僕は母の死に目に会えないだろう。疫病下で入院患者に面会できるのは「お身内」だけなのである。具体的にいえば親子きょうだい、婚姻関係、せいぜい孫くらいまで。感染拡大状況によっては孫はだめだし、親子だっていつでも会えるのではない。血のつながりのない人は要するに(誰にとってかよくわからないけど、少なくとも僕と養母以外の誰かにとって)赤の他人なので、会う権利なんかないのである。
 僕は母の産んだ息子ではなく、母は僕の父の妻でなく、だから僕は、母の死に目に会えないだろう。