傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

棒で人をぶちたい

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから一年半、僕はわりとがんばったほうだと思う。知らない人と話すのが好きだから飲み会の代わりにZoom読書会とかに出て、新しい趣味をはじめてそれを発信して趣味のネット友達を作って、同僚との何気ない会話の機会を作るために思い切って何人かを通話に誘ったりもした。
 だから会話の量自体はそこそこキープしている。えっと、それでも足りなくて特別仲の良い友達と彼女と家族にはめちゃくちゃ話を聞いてもらってるんだけどね。僕もともとすごいおしゃべりで、それで会話の相手が減っちゃったわけだから、身内が命綱状態ですよ。毎日毎日、保育園から帰ってきた幼児みたくその日にあったこと全部しゃべってて、この段階でコミュニケーション的に恵まれているとは思うよ、このご時世にさ。
 でももうダメ。僕はもうだめだ。飲み会に行きたいよう。酒が飲みたいという意味ではなくて、複数の人間がざわざわしているところであれこれ話しかけたりしたいよう。

 Zoomとかアプリで話すと言語と表情くらいしかやりとりできない。最初はそれでじゅうぶんでしょと思ってた。それほど親しくない相手なら物理的に目の前に存在している必要はないんじゃないか、くらいに思ってた。セックスするわけでもないしさ。
 ところが物理的存在というのは実に雄弁なのだ。情報量が段違い。久しぶりに対面で親しくない人間と雑談したとき俺泣きそうになっちゃったもん。相手はとくに好きでもない上司で、彼のフィジカルを個人的に好ましく思ったことは一度もないのに、目の前にいて話していることが無性に嬉しく、「ああ人間と話している」「感情をやりとりしている」という感じがした。内容は業務上の些末な話なのに。
 僕はおしゃべりで、自分の状況や気持ちを言葉に乗っける能力は高いほうだと思うんだけど(それやらないと友達できないから。友達いないと死ぬんじゃねえかっていうほどおしゃべりなんだよ)、でも言葉とモニタにうつった表情だけでは、伝わらないんだ、と思った。何がって、うまく言えないけど、存在?

 存在。
 僕の趣味の一つにアナログゲームがあって、同じルールのゲームをオンラインでしてもどうもしっくりこない。オンラインゲームも好きだけど、アナログとは別物だと思う。
 存在。
 オンラインにだって人間の言葉や(カメラオンなら)表情が存在しているのに、僕はどうやらそれだけでは人間の存在を強く感じられないみたいだった。

 そのようにうっすらと鬱屈を抱えてしばらく思案していたら、ある日朝起きたとたん「人を棒で打ちたい」と思った。顔を洗ってダイニングに行って彼女にそのまま話したら「え、引く」と言われた。まあ聞いてくださいよ、引きながらでいいからさ。
 僕は小さいころから高校を出るまで剣道をやっていた。礼と所作が身につき体力がやしなわれるので大人受けは非常によかった。でもそれはそれとして、僕がやっていたのは週に何回も棒で人をぶったりぶたれたりすることだった。こういう言い方すると関係者にめっちゃ怒られそうだけどまあいいや。
 棒は堅くて人に当たると痛いです。防具がついているから痛くないだろうと思っている素人さんも少なくないんだけど、防具って金具がついてない部分はただの革ですからね。脳天にバチーンと打ち込まれたやつが脳しんとうを起こして倒れたりするんですよ。
 僕は剣道のそういうところが好きだった。他人とおおむねうまくやれておしゃべりで元気で成績もよくて問題のない子どもにだって、魂の中に薄暗い部分がある。僕は陰鬱な小説を読みつつ棒で人をバンバンぶったたくことで自分の魂と折り合いをつけていた。たぶん。

 大学生ともなると棒で人をぶたなくても他者の(なんていうか「存在」と)接する機会はいくらでも作れる。もっと大人になって経済力がついたら未知の場所に旅行することだってできるーーうまく言えないんだけど、旅行は「存在」と接する場のような気がするんだよな。僕がやってた旅行がバックパッカー系だからかもしれないけど。
 でもそれらはうしなわれた。少なくとも当分のあいだ、僕は知らない人と話し込んだり大人数と雑談したりできない。だから僕はまた道場に行くべきなのだ。そして棒でぶったりぶたれたりするのだ。
 そのように力説すると彼女はメイクしながら生返事をし、野蛮、とつぶやいた。野蛮な男はお嫌いですかと訊くと、つまらなそうに、好きですよ、とこたえた。

わたしがメンヘラだったころ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしはやけに健全な生活をしていて、それがつまらない。

 上司にZoom面談を申し入れた。上司は早々に「おめでたいことですか、それとも私が残念に思うことでしょうか。両方かもしれませんが」と言う。なるほどね、この人が部下から一対一の面談を申し入れられるシチュエーションって、部下の結婚か妊娠か転職か結婚・妊娠による退職か、しかなかったわけね。
 普通はそんなものなのかも。わたしはそれ以外でも一対一での面談何度もしてきたけど。面談ていうか、相談。相談って、人間を引っかけるためにはほんとうにいいフックなんだよね。今はそういうことも難しくなっちゃったけど。あと上司が女だしあれこれ言っても通じないタイプだから対面でもたぶん必要ないんだけど。
 おめでたいほうです、仕事は続けたいです、とわたしは言う。上司は画面の向こうで破顔する。わたしは思わず苦笑いする。
 おめでたい人だね。自分は結婚できないで四十過ぎちゃったのに。聞いてるよ、彼氏と住んでるんだって? それなのに結婚してもらえなくて、もう子どもも無理だろうし、数年前より太って劣化してるし、いくらお仕事がんばったって「バリキャリにしがみつくしかない」系バリキャリになっちゃってるのにね。
 わたしはそんな上司のことが嫌いではない。女としてのスペックが低いから目の前にいてもモヤモヤしないし、男じゃないからわたしを狙わないし、わたしも攻略しなくていい。女だけど女じゃない。年齢の問題じゃないよ、わたしのママは上司より年上だけど、女の子だもん。

 わたしは元気なメンヘラである。
 わたしのことをそう言ったのはわたし自身だけれど、言わせたのは今の上司だ。わたしは新卒入社後に所属した部署の男性たちを骨抜きにし、二年目に異動することになった。そのいわば「引取先」が今の部署だ。女の管理職はたいてい妬みがましいから好きじゃないんだけど、あの人ならまあいいかなとわたしは思った。スペックが低いだけじゃなくて、仕事以外のことではぼけっとしてて無害だから。
 経緯はおおむね聞いていますが、と上司は言った。ご本人からも聞きたいです。わたしは簡単に話した。つまり男たちがわたしのことを勝手に好きになって迷惑したってこと。わたしはその中の誰も好きじゃないしつきあってもいないし会社の外に彼氏がいること。
 そういうことは学生時代にもあったのですかと上司が聞くので、ええ、とわたしはこたえた。わたし、メンヘラなんで、ときどきヘラってまわりの人に弱音を吐いちゃうんです。そうするとみんな彼氏気取りになっちゃうんです。困りますよね。
 メンヘラ、と上司はつぶやいた。仕事ができてバイタリティあふれる、メンヘラ。
 わたしはそれを聞いてなんだか面白くなって笑い、そうなんです、とこたえた。わたし、元気なメンヘラなんです。

 わたしは元気で有能で若くて美人なメンヘラであり、以下の三つの状態のいずれかにある。いち、男たちを振り回し気を持たせ全員振る。に、彼氏を作り彼氏が人生に支障をきたすほど尽くさせる。さん、振り回す男たちまたは彼氏(候補)の探索ならびにメンテナンス。
 思春期以降、この三つの要素から成るサイクルの中にいなかったことはない。何人かの親しい友達がわたしにたずねる。どうしてそんなことをするの。わたしはこたえる。メンヘラだから。承認欲求天井知らずだから。
 そう言っておけばそれ以上のせりふはいらない。

 上司が「これは私の個人的なお願いなんだけれど、社内の焼き畑農業はつつしんでほしい」と言うので(実際、異動してみたらろくな男がいなかったし)、会社の外でいくつかのコミュニティを渡り歩きつつマッチングアプリで無双し、わたしを溺愛する彼氏を何人か作って数年を過ごした。ちなみに仕事では同期でいちばんの業績を上げた。
 でも疫病がやってきて、わたしのその種の活動は停止を余儀なくされた。彼氏は前から結婚したがっていて、わたしとしてはもうちょっと上も狙えるとは思ったけど、人間性とか考えたらトータルで悪くないし、プロポーズを受けることにした。いろいろやって飽きてきてたし。この状況で絆を深めましたみたいなストーリーも悪くないし。

 結婚式でスピーチしてくださいよ、とわたしが言うと、上司はもう一度破顔して、しかたないですねえ、と言った。

わたしの弟はワクチンを打たない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。最初の通達から一年あまり、何度目かの通達のさなか、疫病のワクチンが提供されはじめた。それで全員が打つかといえば、そうではない。わたしの弟は打たないという。そして、わたしはそれを責めることができない。

 弟は東京で一人暮らしをして、アルバイトで生計を立てている。今日働かなければ来月の家賃があやうい。運も悪かったし、弟の思慮が足りないところもあったと思うのだけれど、とりあえず自分で生活はできているのだし、人に大きな迷惑をかけているわけでもなし、責められるようなことではない。
 わたしはそう思っているのだが、両親は「恥だ」と思っている。自分たちの助言をふいにして大学進学をせず、夢みたいなことを言っておかしな企業に就職してすぐに辞めてその日暮らしをしている、そんな浅はかな息子は心配するのも癪だと、そういうふうに思っている。
 そうはいっても故郷に帰って泣きつけば助けてくれそうではあって、でも、弟はそれを望まないだろう。本格的に困窮しても親を頼らない可能性が高い。わたしが電話をかけて「いざというときにはお父さんやお母さんには内緒でお姉ちゃんがお金を貸すから」と言ったときにも黙りこんでいた。

 そんなわけで体調不良は弟の敵である。数日働けないと次の月の生活にダイレクトに影響する。自分の都合で休んでアルバイト先を失うことはもっと恐ろしいようだ。
 わたしは自分の弟を、両親が思うほど浅はかだとは思っていない。でも経済的な余裕のなさがどれだけ人間の視野を狭くさせるかはよく知っている。
 お金がないとよぶんな支出をしてしまう。お金がない状態でストレスが強くなれば理不尽なお金の使い方をしてしまう。追い詰められた人間をなぐさめてお金を出させるサービスに大量のお金を落とすことさえある。
 コンビニで食べ物を買うのは割高だ。スーパーマーケットで買い出しをして計画的に自炊したほうがよい。家計が苦しいなら衝動買いをしてはいけない。お金を払って交流を買ったり、射幸性の高い娯楽につぎこむなんて論外だ。
 これらは正しい指摘だ。しかし役に立たない指摘でもある。経済的に困窮した状態でしっかり倹約して無駄なく計画的に家計を運営できる人間は実はそれほど多くない。一部の人は借金してでも誰かと会話したり、認められたり、瞬間的な達成感をほしいと思ってしまう。恒常的なつらさを紛らわせてくれたものがあれば、簡単に依存してしまう。それは弱いからではない。期間限定でない、希望のすくない貧しさに陥れば多くの人間が多かれ少なかれ非効率的なお金の使い方をするものだと、わたしは思っている。だから弟がめちゃくちゃガチャを回したり動画配信者にお金を払っていたりしても驚かない。

 従前からそう思っていたから、自分がワクチンを打ったときにも「弟は打たないかもしれないな」と思った。ごく少数とはいえ重い副反応のリスクがあり、けっこうな確率で軽い(労働に影響する程度にはきつい)副反応が出ることがわかっていえる。そして今、少なくとも自覚できる範囲では、自分は病気ではない。実際のところ、弟は電話の向こうから「打たない」とつまらなそうにこたえた。
 弟に社会正義の感覚がないのではない。弟がまわりの人間を思いやっていないのではないーーたぶん。もともと近視眼的な人間だったのでもない。
 貧しかったらわたしだってそう考えたんじゃないかと思う。
 そして、ワクチンを打つ打たないは個人の自由でもある。

 もちろんわたしはとても心配だ。弟が心配だ。わたしの弟はやさしい子どもだったし、思春期以降はそっけなくなったものの、八つ当たりをするような少年でもなかった。自分の意思をちゃんと持っている。いわゆるブラック企業に就職してしまったのは運が悪かったけれど、自分でちゃんと辞めた。将来の夢やビジョンはたしかにあまり現実的でない、ふわっとしたものだったかもしれないけれど(だから理念を強く打ち出す企業が魅力的に見えたのだろう)、そんなの責めるようなことじゃない。
 わたしのまわりにワクチンを打たないなどと言う人はいない。打たない人の内心が想像できないという空気だ。そういう人を少し軽蔑しているようにも見える。
 わたしは「ワクチンを打つのが当然」の側にいるのがきっと安全なのだろう。でもそうしたらわたしの小さな弟が、今よりもっと遠くに行ってしまう。

ワクチン接種の前準備

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。最初の通達から一年あまり、何度目かの通達のさなか、疫病のワクチンが提供されはじめた。地域によってはまだ順番待ちだが、私の身近な人々はすでに打ち終えたか、接種の予約ができているかである。
 私の周辺ではワクチンを打つという判断が妥当なものとして支持されているが、打つ打たないで家族と仲違いした人もあると聞く。この疫病はつくづく人間の親密さを損なう性質を持っていることであるなあと思う。
 「であるなあ」とか言っていても世の中は変わらないので、取り急ぎ自分の周辺との助け合いを強化している。たとえばワクチンについてはいろんな人とカジュアルに接種スケジュールを共有して、何かあれば駆けつける体制をとっているのだ。今日も友人のひとりから接種スケジュールのLINEが届いた。

 私はその日程を見てちょっと驚いた。私とまったく同じ日程だったからである。私はこのように返事を書いた。他の友だちならぜんぜんかまわないんだけど、なんでよりによってあなたが私と同じ日程なんですか、あなたろくに友だちいないのに。送信。

 受信。僕の友だちはいないのではない。槙野さんを入れて二人います。

 友だち二人しかいなくて友だち以外の親しい相手もいなくて実家も遠いんだから、具合悪くなったら私かもう一人が助けるしかないじゃん。送信。

 受信。おっしゃるとおりです。だから槙野さんは接種後に具合が悪くならないようにがんばってください。僕が困るので。

 がんばるけどさあ……。がんばれば副反応が出ないってことはないじゃんねえ。送信。

 受信。うん、まあそうだよね。でも大丈夫でしょう。今までも大丈夫だったし。
 こういうのを正常性バイアスと言うらしいです。危機を正しく認識できていないということです。
 それで、僕は思うんだけれど、事態を正しく認識してそれにふさわしい不安を常に保持していたら、生きるのがすごく大変になるんじゃないか。
 こういう状況だと不安になって当然だし、不安のあまり動けなくなることもありうる。でも動けなくなったって本人の生存にも幸福にも寄与しない。だからやっぱり不安になりすぎるのは妥当ではない。
 そういうわけで僕はこれでいいんですよ。自分の不安で自分の精神をむしばむのは妥当ではないし、一人でいることが快適な性質に生まれついたのに利便性のために家族とかを作るのもおかしなことだ。だから僕はこうでしかありえない。
 私的関係において他者を自分の手段として値踏みして使用するのは槙野さんのもっとも嫌うところだと思います。僕もその意見に全面的に賛同します。そういうわけで僕には友だちが必要な数だけしかいない。だから槙野さんはくれぐれも健康を保ってワクチンの副反応もほどほどに済ませてください。では。

 何が「では」だ。
 なんという勝手なやつだろうか。要は「今までの人生、生きたいように生きてきた。その結果、自分を助けてくれる人が少ししかいない。だからその数少ない友人のひとりであるおまえはがんばれ」という姿勢である。
 私のほうは他に助けてくれる人が幾人もいる。だから私が副反応で寝込んでもこの友人に出番はない。不公平じゃないか。不公平? えっと、何がどう不公平なんだ。はたから見たら私のほうがはるかに人望があるのに、なんで「損した」みたいな気分にならなきゃいけないんだ。なんかよくわかんなくなってきた。
 
 この友人は若かったころ、「一生独身でいるつもりだなんて、将来は孤独死だね、孤独腐乱死」と言われたことがある。その場では黙っていたのだが、あとからこう言っていた。
 死体がフレッシュな状態のうちに焼くことってそんなに重要なのかな。少なくとも僕は自分のフレッシュな死体を焼くことにそんなに興味が持てない。そもそも死体を早期に発見するシステムを開発すれば済む話だと思う。
 私はそれを聞いておおいに笑った。一人で死ぬことを殊更にグロテスクに表現する人は、単に死体が腐ることを恐れているのではない。家族を持たない人間への忌避感情を腐乱死体に象徴させているのだ。でもこの友人にはそういう機微がわからない。ほんとうに死体の鮮度の話をされているのだと思っている。
 そう、この友人は私にとってずっと、理路の通った確固たる身勝手ぶりを見せてくれる存在なのだ。私はそれを見るとちょっと元気になるのである。

どうして、お母さん

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでわたしは母に会うことができない。

 わたしの母はすごく感じのいい人だった。同世代や祖父母世代だけでなく、わたしの友だちもみんなそう言った。母はわたしの覚えているかぎり場違いなふるまいをしたことがなかった。家にどんな人が来たときにも、旅行先でも、わたしの保護者として学校に来るときでも、親戚の集まりでも。
 小学生のころまではそういうのが当たり前だと思っていた。お母さんは大人だからねって思ってた。お父さんはお母さんに比べてドジだなって思ってた。父はときどき誰かと言い争いをしたり、発言すべきでないときに発言して気まずそうな顔になったりしていたから。それで人に笑われたりもしていたから。
 わたしはおよそ母を嫌う人やばかにする人を見たことがなかった。母はいつも適切なふるまいをしていた。高校生までのわたしの目には、そのように見えた。

 母は規則正しい人だった。決まった時間に起きて、決まった時間に寝た。曜日と月と季節ごとに掃除のスケジュールが決まっていて、だから家はいつも適度にきれいだった。食事のバリエーションは豊富で、素材や調理法の組み合わせがローテーションされ、おかげで家族は季節感を感じつつ飽きずに食事ができるのだった。
 母のルーティンはときどき書き換えられた。主に子どもの成長と父の仕事の忙しさに合わせて変えるのだ。たとえばわたしが小さかったときは幼稚園への送り迎えがあり、小学校に入ると習い事の送り迎えに切り替えられて、PTA活動も加わった。母はそれを三月に計画し、四月から遂行した。
 わたしは高校生くらいまで「母は几帳面で安定した人間なのだ」と思っていた。「ちょっと退屈かもしれないけど、とてもいい人だ」と思っていた。

 大学生になって東京に出てきて一人暮らしをはじめた年に疫病が流行しはじめた。そしてそのとき、母が「安定した人」ではないことに、わたしは気づいた。
 去年の夏に帰省すると母の顔が変わっていた。やつれていたし、どことなく引き攣っているように見えて、しぐさがおかしかった。わたしが何か言たびに泣きそうな顔になるから、これはまずいと思って一晩泊まっただけで東京に戻った。
 父に聞くと「疫病が流行しているから」と言うのだった。お母さんはとても不安なんだよ。どうしていいかわからないんだよ。きみが帰ってきてうれしいのに、会ったら知らないあいだに病気をうつしたりうつされたりするかもしれないだろう。お父さんは「そうかもしれないけど会いたいのだから会ったらいい」と言ったんだけど、保証がないからお母さんは納得できないんだ。ほら、お母さんはそういう人だろう?

 「そういう人」だなんて、わたしは知らなかった。わたしはお母さんのことをなにも知らなかったのだと思った。

 父によれば母は、常に不安を感じる人なのだという。何かあってそうなったのではなくて、若いころから(母の母である祖母によれば、子どもの頃から)そうなのだという。決まっていることはきっちりやれるから、祖母も父も母のためにできるだけ揺らぎのない暮らしを用意し、母が決められないことは祖母か父が「こうするといいよ」と言ってあげたのだという。
 「正解」を割り出す方法のないものについて、母は決めることができなかった。つまりほとんどのものごとについて。

 今年の夏は帰省しないことにした。
 電話をかけると、父は疲れた声で言うのだった。僕はワクチンを打つ。おばあちゃんはワクチンを打たない。だからお母さんは非常に怒って、混乱している。僕とおばあちゃんは今まで重要なものごとの方針が一致していたのに、今はそうじゃないから。
 お母さんにとって、それは「黒でいながら白くなれ」と言われているようなものなんだ。世界の法則が乱れていてそれをどうにかしろと言われているようなものなんだ。
 僕はワクチンを打ちたいし、おばあちゃんは打ちたくない。世の中にはそういう自由があるし、そもそもお母さんは自分で決めるべきなんだ。
 でも僕とおばあちゃんはそうさせることをさぼってきた。「自分で決めるんだよ」と言ってもお母さんはおばあちゃんと僕と同じことをするか、「どうしたらいい?」と尋ね続けるだけだったから。その質問に答えてあげないと具合を悪くしてしまうから。

 お母さんが不安にならないように世界を整えつづけてきて、でもそれが疫病のためにできなくなった。
 僕とおばあちゃんのせいだ。

 父はそう言った。わたしは何も言えなかった。

ごめんね、おばあちゃん

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでわたしはしばらくおばあちゃんに会えていない。
 わたしのおじいちゃんはもう亡くなっていて、おばあちゃんは地元の施設に入っている。わたしが大学に入った年に疫病が流行しはじめたのでそれ以来会っていない。地元にいたときにはそれなりに会っていたし、わたしが小さかったころは近所に住んでいてしょっちゅう会っていたから、今はもちろんさみしい。
 おばあちゃんは(今にして思えば)すごく元気なお年寄りだった。わたしが小学生のころまで一緒に公園でジャングルジムにのぼったりしていた。ごはんもいっぱい作ってもらった。おばあちゃんはわたしのお父さんのお母さんで、女の子を育てたことがなかったから、わたしが生まれたときにはとても喜んだと聞いている。
 おばあちゃんは陽気でお友だちがいっぱいいて料理が上手でおしゃれが好きで、毎月美容院に行っていつもきれいにしていた。

 でもわたしは最近おばあちゃんと電話したくない。
 おばあちゃんはわたしにワクチンを打ってほしくないと言う。将来子どもを産むんだからと言う。きっと困るからと言う。心配だからと言う。

 わたしは理系で、ワクチンについては自主的にみっちり勉強していて、どう考えても打たないほうが危ないと思っている。
 ワクチンの受付がはじまった日にはアルバイトの予定をずらしてもらってまで時間をつくってPCに張りついて予約をゲットした。副反応が強く出たときのために友達同士でワクチン接種の日付を共有しているし、冷蔵庫には二リットルのポカリが二本、レトルトやレンチンで食べられる食料も三日分ある。解熱剤や痛み止めの準備もした。接種する気まんまんなのだ。だって、どう考えても、そのほうがわたしのためだし、みんなのためだし。

 若い人もものがわかっていたら打たないのよとおばあちゃんは言う。完璧に安全だという証拠はどこにもないの。年寄りだけがそう言ってるんじゃないの。若い人にもそういう発信をしている立派な人もいるの。ねえ、危ないことしないわよね。一生後悔するかもしれないんだからね。とくにね、女の子なんだから。

 わたしはほんとうはこう言うべきなのだろう。

 おばあちゃん。もとから医療に完璧なんかない。今までは「こうするのがいい」と言ってもらえたかもしれない。でもそれは完璧な安全の保証なんかじゃなかった。まして新しく流行した病気なら、ある程度の材料でリスクを判断するしない。ワクチンで具合が悪くなる人が出るのは当たり前のことだし、将来生まれる子どもがどうこうなんていうのはひどい偏見じゃないか。
 おばあちゃん、わたしはね、誰かに安全を保証してもらうなんて思わない。そんな保証はありえないから。それなのに自分の言うとおりにしなさいなんていう人は、だいたい他人を利用しようとしているんだよ。わたしは「怖いから考えない」「断定してくれる人に判断をあずけてついていく」という人間にはなりたくないんだよ。
 おばあちゃん。おばあちゃんだってきっとそうだったはずなんだ。わたしの知っているおばあちゃんは、完璧な安全なんかない世界で、いっしょうけんめい考えて判断してわたしを守ってくれていたよね。わたしが小さかったころ、危ない遊びだって見守りながらさせてくれたよね。

 わたしはそう思っている。
 でもおばあちゃんには何も言うことができない。
 わたしはおばあちゃんが陰謀論みたいなことを言い出したらたぶん耐えられない。わたしの将来の幸福を「元気な子どもを産む」に限定したようなことを言うだけでもショックを受けてしまう。
 しっかりしていても高齢なのだから。気が弱くなっているのだろうから。このご時世で少し混乱しているかもしれないのだから。そういう解釈は、よそのお年寄りにはできるけど、わたしのおばあちゃんにはできない。そんなことしたら、わたしの大好きなおばあちゃんがいなくなってしまうもの。わたしのおばあちゃんは、そんな人じゃないんだもの。

 わたしはほんとうはおばあちゃんに自分の考えを言うべきなのだと思う。ワクチン打ったからと言って会いに行くのがいいのだと思う。それが正しいのだと思う。でもできない。
 わたしは正しくない。わたしは弱い。だからわたしはおばあちゃんと話をすることができない。きっとわたしからの電話を待っているのに、できない。ごめんね、おばあちゃん。

だからあなたと出会わなかった

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だからわたしはこの夏、あの外国みたいな街角で、あなたと出会わなかった。

 わたしは退屈な大学生で、だからあの街を歩いていなかった。疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出されていたから、わたしはだまっておうちにいた。だからわたしはそこにいなかった。

 そこは繁華街で、時代時代でニュースとかが言う「若者の街」のうち最近注目されはじめたところで、わたしは大学一年生で、音楽をよく聞いていて、外国とか好きで、英語をけっこう話せて第二ないし第三外国語がちょっとできて、流行とかもぜんぜん好きで、だから、わたしはそこに、いなかった。
 だって、東京は疫病とオリンピックのために大学生が軽薄に出歩くことのできる街を残していないことになっていたから。

 わたしは良い子で、だからずっと、おうちにいた。おとうさんとおかあさんといっしょにテレビで楽しくオリンピックを見ていた。ほんとうだよ。
 ほんとうだとして、これから先を話すね。ねえ、あなた、ほんとは知っているんだよね。ばかみたい、っていうかばかだよね。あなたもわたしも。

 ばか。

 わたしは閉塞した受験期に本格的な歌と踊りをやる隣国のアイドルを好きにならなかったし、だから入学後の最初の試験が終わった晩にその街に行かなかった。入学後ずっとオンライン授業でイライラしていてわずかな登校期間にようやくつくった大学の友だちと授業のあとに居合わせたりしなかった。「下校後はまっすぐ帰りなさい」なんて小学生みたいなこと大学から言われて言うこときかないで出かけたりしなかった。友だちといっぱいおしゃべりしてファッションフードを食べてプチプラの売れてるコスメを買いに行かなかった。
 わたしたちはマスクをきっちりつけていた。だって、若い人を狙い澄ましたような変異型が出たって、ニュースで言ってたもの。わたしはニュースをちゃんと読むタイプなんだもの。お父さんとお母さんが新聞の電子版を取っていて、わたしは受験が終わったあともそれをちゃんと読んでいるんだもの。あなた、それでもわたしが流行病に罹ることを怖くなかったと思わない? 思わないんだ。ばかな若い女が怖くなるだけの勉強ができないほどクソバカだから街に出たって思うんだ。それならそれで、いいんじゃないですか。

 わたしは、街になんか、出てない。だからわたしはあなたと出会わなかった。

 わたしが軽薄なファッションフードをちゃむちゃむ噛んでるとあなたはわたしの前に出現する。あなたはなにも噛んでいない。まっすぐ歩いてくる。そうしてわたしの目の前で止まる。わたしは視線を上げる。わたしにはわかる。あなたがわたしのその人だということが。
 嘘だよ。だってわたしは、そこにいなかったんだから。

 わたしは友だちに「あのさ、この人と今からデートしていいかな?」って言わなかった。そんなキャラじゃないから。あなたは「どうもすみません、これはもうしかたのないことなので」なんて言わなかった。きれいな英語で言わなかった。お月様みたいな目で言わなかった。わたしも友だちも、あの街角で、あなたと鉢合わせなかったから。

 わたしたちは思いのほかディープなエスニックタウンを歩かなかった。ここは日本で、東京で、海外からの人の出入りはきっちり制限されていて、それなのにあたりから外国語が聞こえることはないはずだった。わたしはその異国語のざわめきを美しいと感じなかった。ずっとずっと前に異国から来てこの国にいる人々がキムチとかを売っている姿を見なかった。その国の男の子たちがその国のことばでそのことばの通じる女の子たちをナンパしてそこいらのホテルに消えていくのを「すてきだな」なんて思わなかった。わたしは勉強ができるのでここが戦後の傷跡としての在日外国人の街だということを知らないのではなかった。そうして彼らの率直で軽薄な愛のことばを、うらやましいと思わないのではなかった。
 わたしたちはいつのまにか手をつながなかった。わたしは突然大胆なことがしたくなって「キスしようよ」と言わなかった。あなたはわたしを見て「いいアイデアだね、でもあとで」と言わなかったし、わたしはそれを聞いて「できるだけ早くしてね」と言わなかった。あなたはそうして、完全にイノセントな顔してわたしの目を見て笑わなかった。

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だからわたしはこの夏、あなたと出会わなかった。