傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

不安に耐えることができない

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。企業の対応はさまざまだったが、時が経つにつれて社員から見捨てられる会社が出始めた。
 わたしの友人も所属している会社を見捨てた。その会社は、経営層の「不安に耐えられない性質」によってその身をほろぼしかけているのだそうである。

 彼女は小さいながらも評判の老舗企業につとめている。はたからは「業界外の人間も知っているブランド企業で専門職として働き、若くして活躍している」というふうに見えた。そんな彼女が、疫病下でずいぶんひどい目に遭ったという。
 彼女は言う。給与はもともと良くないんですよ。業界の水準から見たらあきらかに低い。でもまあがまんできないほどではないし、この仕事が好きだし、新卒で入って数年なのだから、と思っていました。
 うん、まあ、そんなふうに言ってもらうほどじゃないけど。でもたしかにレア職種ではあるから、同業他社の転職がいつでもできるということはなくてね。一生同じ会社にいるんじゃないにしても、しばらくはがんばるつもりでいたの。でもこの疫病禍で完全に無理になった。ものには限度がある。仕事相手のみなさんには申し訳ないけど、わたしの心はもうあの会社にはない。

 えっと、具体的に?
 そうね、まず、残業代が出なくなりました。ご存知のとおり休日出勤はざらです。ええ、もちろん、それは、そのまま。おっそろしいほど収入が減りました。
 リモートは一時期取り入れられたけど、「仕事をしている姿が見えないから」という理由でなしくずしにゼロになった。業務上の外出をすることもなくなったから、以前みたいな出退勤の融通もきかない。うん、つまり、役員以外の全社員が全日出勤してるの。常時全員がいることを前提としてないオフィスに、四六時中、全員。
 感染症対策ですか。入り口にアルコールスプレーのボトルがあって、今そのボトルが空っぽのままって言ったらわかる? いやマジで。冗談じゃなくて。
 そして、備品が壊れると、もう支給されない。具体的にはわたし、私物のパソコンを持って出社していたの。笑っちゃうよね。

 わたしはびっくりして、辞めな辞めなと言った。やめちまえそんなとこ。
 辞めますよと彼女は言った。自分でもえらいなーって思うんだけど、ちゃんと次を見つけました。うん、がんばった。運良く決まりました。もう少し落ち着いたら転職祝いなどひとつよろしくね。いや冗談だけど。え、そう? じゃあ落ち着いたらご馳走してください。えへへ。

 売り上げが下がって会社がおかしくなったんだろうって? まあそう思うよね。
 うん、違うんです。聞いてくださいよ。売り上げは下がってないの。むしろちょっと上がってたの。でも彼らは先の見えない社会状況の中、不安で不安でしかたなくて、内部留保を闇雲に増やしたくなったんです。持っている資産をぜったいに減らすまいとした。それで社員がどんどん辞めているんです。
 えっとね、世の中には、不安になると理屈が通じなくなる人がいるの。見たことあるでしょ。不安の原因の解決より不安の解消を優先する人。それで原因は温存しちゃったりする。
 個人として「不安で理屈が通じません」をやるぶんには、まあかまわないんだけど、法人でやっちゃうと、社員が巻き込まれる。小規模のワンマン経営のところなんかがね。まあ弊社なんですけどね。
 うん、不安なら理屈でものを考えて解決するという姿勢は、正しい。でもそういう性質がないんです、弊社のトップには。不安だから内部留保を少しでも増やしたい。不安だから社員みんなに出社してきてほしい。不安だから会議をしたい。不安だから社員には何でも逐一報告してほしい。
 感染症対策をろくにしないのはなんでかっていうとね、対策を無限に要求されて困っている会社があるし社員が自分でするのが当然だから、だそうです。はは。

 理屈じゃない。反射で動いてる。虫です。メカニズムが。

 平時は虫ではなかった。いや、もしかすると虫だったかもしれないな。この職種は個々の社員の裁量がすごく大きいじゃないですか。それから先代のトップの時代からの実績で関係者から信頼があったから、トップの判断力がなくても、慣習で動いていても、成り立っていたのかもしれない。
 でも非常時にはそうはいかない。さっき「個人なら好きにしたらいいけど」って言ったけど、結局のところ、不安に耐えられない性質の人はやっていけなくなるような気もするな。だってきっとまだまだしばらく、不安なままだもの。

マリッジブルー、マリッジ抜き

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために色恋の発生も抑制された。色恋の多くが物理的接触を必要とする以上、ワンナイトだろうが婚活だろうが、新規開拓は感染源になりうる。
 もちろん、疫病流行前からアプリで相手を探すしくみは普及していた。感染源になることなど気にせず開催されるパーティだってあるだろう。それにしたって出会いのフィールドに乗り出す母数はものすごく減ったから、相手選びという意味では全員が影響を受けている。
 僕はもともとアグレッシブに彼氏を取り替えるタイプではなかったのと、疫病前につきあいはじめた彼氏がかなりいいやつなので、「まあ今は新しい彼氏とかそういうのはやめておくか」と思っている。そして「もしかして今の彼氏と長いこと一緒にいるかもしれない」とも思っている。
 彼氏も同様の方針である。僕はそのことを、もちろん喜んでいる。自分は別れることを考えていないのに、相手だけ「そろそろ取り替えたいな」と思ってる、なんて悲しいことだ。だからもちろん彼氏が僕を「とくになにもなければずっと一緒にいる相手」として周囲に話しているのは、嬉しいことなのだ。彼氏は僕を自分の家族に紹介し、ゲイでない者も含む大勢の友人に引き合わせた。総じて感じのいい人たちだった。僕もきょうだいと友人に彼氏を紹介した。僕は嬉しかった。

 嬉しかったのは嘘ではない。でも僕は落ち込んだ。気が重い。憂鬱である。ブルーである。
 親しい友人にこっそりそのことを話すと、彼女はあっさりと言った。マリッジブルーじゃん。マリッジ抜きの。

 僕の人生はあらゆる意味で結婚に縁がない。第一に僕は結婚したくない。両親の仲がよくなかったためか、結婚生活というものによいイメージがない。制度としても無理があるんじゃないかと思う。第二に僕はゲイであり、日本で恋人と結婚する選択肢がない。
 そしてなにより、僕は初彼から今彼まですべての恋人に対して「今日好きでも明日嫌いになるかもしれないじゃん」と思っていた(いる)。永遠とか誓う人の気持ちがよくわからない。いや、他人が他人に誓うのはいいんですよ。いいっていうか、他人は僕じゃねえし。
 僕は永遠とか、かんべんしてほしいです。なんかちょっと気持ち悪いって思う。生きてるんだから変化するのは当たり前で、そしたら別れることだってあるじゃん。その可能性をぶん投げることが僕にはできないし、したくもない。

 僕はそのような人間で、「結婚に縁がない大会」があったら日本代表有力候補だと思う。そんな僕がマリッジブルーを味わっているのだと、友人は言うのである。

 つまりさあ、と友人は言う。外側から人間関係を確定されることに対する憂鬱でしょ。もちろんみんな、カップルはいつか別れるかもしれないと思っているし、離婚が珍しくないことだって知ってる。知ってるけどやっぱり「永遠の愛」みたいなドリームも好き。そしてあんたのブルーは、自分が強制的にそのドリームに加盟させられることへの憂鬱なんじゃないの。

 そう言われて気がついた。僕の中の憂鬱スイッチをバチンと押したのは僕の姉だった。姉はこう言ったのだ。生涯の伴侶に性別なんか関係ないわよ。

 もちろんそれは姉の好意である。僕の恋人が男であることが話題の端にでものぼると、そのあと母が熱を出す。だから僕はあまり実家に戻らない。姉はそれを不憫に思って、ことさらに僕を擁護する。だから姉のせりふは百パーセント愛情によるものなのである。
 でもさ、姉ちゃん、おれはさ、生涯とか決めてないの。そういうのはいいの。結果的に「生涯の」相手になったとしても、それは偶然だし、そうなるほうがそうならないより良いとはおれには思えないの。彼氏と一緒にいるための努力はもちろんしてるよ。でもそれは現在の関係にまつわる努力なんだ。永遠とか生涯とかじゃないんだ。
 そう思う。でも言えない。言って理解されるとも思われない。

 そうねえ、と友人が言う。放っておくのがいいんじゃないかしらね。そのほうがトクだよ。ちょっとした「永遠の愛」ドリームを邪魔しなければ、お姉さんもほかの人も、あんたとあんたの彼氏を好きで、助けてくれるんだからさ。人生は長いよ。何があるかわからないよ。だから孤独は損だよ。助け合う相手は多いほうがより安全ですよ。「そんなんじゃないんだ」っていう気持ちは、わたしがいくらでも聞くからさ。

雑で速いやつに対する説諭

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。弊社ではそのために些末な打ち合わせもオンラインでおこなわれ、皆が慣れてきた今となってはリアルタイムの共同作業も気楽に実施されている。本日は上司からの資料レビューであった。

上司:急ぎでイレギュラーな仕事やってもらっちゃってごめんね

わたし:いえいえだいじょうぶです

上司:こういう差し込みの仕事、ガッてやってバッて出してくれるのほんと助かる

わたし:いやあ、この程度でよろしければ

上司:あのね、できればこの程度じゃなくしてほしい

上司:あなたの仕事はいつもスピーディで対応も柔軟で素晴らしい。でも雑

わたし:あっそれが本題ですね

上司:うん。赤字のところ見ておいて。とくに数字の誤字は致命的だからね。あと図の作りとレイアウト。せめて余白を左右対称にしてほしい。総じて雑

わたし:承知しました。赤線ありがとうございます。すごく直しやすいです。今日中に直して戻します

上司:今日中じゃなくていいから細部よろしくね細部

わたし:はいがんばります

上司:こういうことをはっきり言ってもぜんぜん平気なあなたのタフさはね、すごくいいと思うんだ。リモートで繊細な人にマイナスの指摘をするの、めちゃくちゃたいへんでさあ

わたし:個人的にははっきり言ってもらったほうが気が楽ですね。空気読むコストと読まれるの待ってるコストがもったいなくないですか。わたし自身が能力的に空気読めないというのもありますが

上司:あのさ、そういう感受性の人は少数派なんだよ。でね、仕事する上では雑にやってダメ出しされて直すほうが効率的なの。それに、上司はいろいろ気を回さなくて済んで楽、ダメ出しで精神的なダメージを受けないから本人も楽。でも多くの人はそうじゃないの。ダメ出しされるとダメージ受けるの

わたし:そういう認識はあります。ほんとうにはわかっていませんが。だってミスの指摘でしょう。直せばいいのでは? 直せば自分の能力も上がるしナイスでは?

上司:あなたはそれでいい。そしてできれば繊細で丁寧な人たちに細かい気遣いをしてもらっていることに気づいて、それに対する感謝を口にしてあげてほしい

わたし:なるほど?

上司:上司に資料レビューでミスをカバーしてもらってお礼を言うとか、そういうわかりやすいことじゃなくてね。えっと、他の人たちに、周りのみんなに「これしてくれたんだね、ありがとう」って言ってほしい。彼らは感謝されるととても喜ぶ。あなたが思うよりずっと

わたし:なるほど?

上司:えっとね、たとえば、あなた劣等感とか、わからないでしょ

わたし:そんなことないです。思春期にはちゃんと劣等感ありましたよ。わたしだって自意識あるホモ・サピエンスなんだから。ゴリラとかではない

上司:いや劣等感を思春期の現象と思っているところがすでにわかっていない

わたし:大人になってもそれが重大な問題になる人がいることは認識しています。小説にそういう人物が出てくるので

上司:現実にもよくあることなんだよ。そして彼らは繊細であること自体にもちょっと劣等感を持ったりする。もっと言うと優越感と劣等感を両方持っていたりする

わたし:劣等感を持つ対象には優越感も持ちますよ。セットメニューだもん

上司:まあそうだけど、それ繊細な人の前で言うんじゃないよ。劣等感があるって自分で言ってる人でも、「優越感があるでしょ」って言われるとすごく傷つくんだよ。優越感を持つのは劣等感を持つより「悪いこと」みたく思ってる人がけっこういるんだよ

わたし:わかんないけど、わかりました、言わないようにします

上司:繊細な彼らは雑なあなたにあれこれ気を回してくれている。あなたはそういう気遣いに支えられてやってきたところもあると思うんだ

わたし:たしかに。総務のTさんなんて、わたしの服が裏返しだとそっと教えに来てくれます

上司:出社時には服をちゃんと表にして着てください

わたし:はいがんばります。そういうのはわたしも普通に恥ずかしいです

上司:そして彼らは雑なあなたに優越感を持つけれど、優越感にフォーカスしない性質を持っているので、タフなあなたに対する劣等感だけを感じてしまう

わたし:あ、おっしゃることがなんとなくわかりました。してもらっていることに気づいて感謝しないとがっちり嫌われるコースですね

上司:おお、そのとおりです。そしてあなたが彼らの支えに気づいて感謝すると彼らはあなたを好きになる。特別に好きになる人もいる

わたし:わかりましたがんばります

上司:資料の戻しは明日でいいから丁寧にね。ではこれで

敏腕家庭教師の子ども

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために保護者ぬきでの行動範囲が狭い年齢一桁の子どもたちの生活圏がぐっと狭くなった。疫病の状況によって可能なことが変わるので、それについていくことも必要である。学校に行けない時期があったり、習いごとができたりできなかったり、友達の保護者の方針によって一緒に遊べたり遊べなかったり、といったぐあいである。
 わたしは子のない大人であって、小さい子どもの心などとうにわからない年齢だけれど、よその子のようすを見るだにストレスフルだろうと思う。疫病やら社会やらのしくみを納得いくまで理解できる年齢でなく、自分に合った日常を構築しなおすための選択できる年齢でなく、(なかには可能な子もいるのかもしれないが)ぱーっとお金を使うといった一時的な気晴らしもできない。

 そんなだから友人から「娘の家庭学習について相談がある」と言われたときにも驚きはしなかった。そりゃあ家庭学習にも支障が出るだろうと思ったからだ。
 友人の娘はカナちゃん、今年八歳、何度か会った印象では言葉も達者でしっかりしたお子さんである。しかし友人に言わせると最近どうも素直に勉強してくれないし成績も心配だという。
 聞いてみるとカナちゃんは全然勉強していないのではなく、強固に自分のペースを貫いているということのようだった。たとえばやる気になれば五分で終わるちょっとしたドリルがある。親である友人はそれをやるように言う。「だって五分で終わるのだし」と言う。でもカナちゃんはやらない。延々と(保護者から見ればあんまり役に立たなさそうな)小説を読んでいる。何度か声をかけると振り向き、キリッとした顔で「わたしには今これが必要なの」と言ったそうである。

 友人には悪いのだけれど、わたしは笑ってしまった。いいせりふである。
 この友人は学生時代、たいへんな敏腕家庭教師だった。わたしも同じ事務所でアルバイトをしていたのだけれど、彼女の時給は事務所でいちばん高かった。教えるのが上手いのである。とくに成績が平均前後の子どもの得点を全科目まんべんなく上げて上位校に合格させるのが得意だった。
 あまりに子どもたちの成績が上がるので、コツを尋ねたことがある。すると彼女はこう答えた。できなかったところは何度でもやってもらう。焦らない。待つ。ぜったいに嫌な顔をしない。そういう気持ちを持たない。「どうしてここができないんだろう」と問われたら「繰りかえせばできるし、ほかはできている」と言う。だって、それが事実だから。あとは時間配分の問題。

 カナちゃんにもそういうふうに教えているの、と訊く。彼女はいささか気まずそうに「どうしてできないの、できることをしないのって思っちゃう」と言う。そりゃそうだろうとわたしは思う。だって自分の娘だもんな。自分と同じようにできてほしいと思ってしまうだろう。他人の子とは距離感がちがう。
 でも、とわたしは言う。それでもあえて言います。あなたは学業成績きわめて優秀な人でしょ。配偶者もそうでしょ。極端なんだよ。そしたらその子どもは極端じゃないほうに近づく可能性のほうがずっと高い。平均への回帰ってやつ。

 彼女はもちろんそんなことはわかっている。ことは理屈ではないのである。彼女はわたしが繰り出す程度の理屈はぜんぶわかるので、「相談」というのは「理屈でわかっていることができないのでその話を聞いてくれ」という意味である。
 この状況下では子どもがかかわる大人が少なくなるからねえ、とわたしは言う。親御さんはたいへんでしょう。お子さんもたいへんだ。かかわる人数が少なくなると、なんていうか、酸素が減るんだよ。カナちゃんは小説という他者を招き入れて上手に外気を吸っているのだと思うよ。
 ああもう、と彼女は言う。どうして、五分でできることを、ぐずぐずといつまでも、やらない。終わったらまた小説読んでいいのに。動画もゲームも決まった時間内ならやっていいのに。理不尽だ。やりなさい。すぐ。五分なんだから。「やらなければなあ」と思い続ける脳みそのリソースが無駄。精神の負荷が無駄。無駄無駄無駄ッ。
 わたしはガヤを入れる。いいぞいいぞ、どんどんいこう。
 彼女は言う。わたしならやる。でもカナはやらない。ふう。やれやれ。

 わたしは思う。自分にすごく近い人は自分みたいな気がしちゃうときあるよな。だからときどき確認しないといけなくなるんだよな。

俺に口を利くなというのか

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのときわたしは一人暮らしだった。こんな世の中だから、とわたしの交際相手は言った。不安だよね。一緒に暮らそう。結婚しよう。
 そうしてわたしたちはたがいの両親に会い、いささか古いと思いながらも「婚約」というプロセスもやることにした。区役所に婚姻届を出す前に結婚式の準備をしながら同居して生活を整える期間をもうけたのだ。
 結果として、これは正解だった。さっさと籍を入れていたらより面倒なことになったはずだからだ。婚約してよかった。そう、わたしは婚約から半年後、それを破棄したのである。

 最初に疑問を感じたのは彼の「いいよ」ということばだった。
 結婚すると決めて以降、この小さなことばの使い方が、ほんの少し変わったように感じたのだ。それまでは「コンビニ寄っていい?」「いいよ」といった使い方だった。これはぜんぜんおかしくない。友だちにも親きょうだいにも言うし、言われる。
 わたしたちはともにフルタイムで、生活費を等分に負担した。一方、家事はわたしのほうが多く負担した。それ自体についてはわたしも了承していた。彼の家事能力は低い。完全な公平を追究することは難しい。そのときどきで多少負担が偏ってもできる範囲で協力しあうのがいいかなと思った。
 彼がわたしの手料理を食べたいと言うので、わたしは彼に炊事と掃除を分担することを提案し、彼は了承した。彼はロボット掃除機を走らせ、風呂掃除をした。わたしはそれを褒めた。ほんとうは彼が「どうしてもできない」と言い張るトイレ掃除や、当然のように手をつけない洗面台の掃除も彼がするべきだとは思ったけれど。
 ある日、わたしは彼にこう言った。今日はカレイが安かったから煮付けにしたよ、あと冷凍庫に半端な量の豚バラが余ってたから冷しゃぶっぽくサラダ仕立てにした。すると彼は食卓を見回して、少しだけ間をあけ、こう言った。いいよ。

 わたしはその夜、よくよく考えた。たったのひとことだし、本人に確認できるようなことでもない。だから暫定的な判断ではあるのだが、あれは「許可」だった。割り当ての家事をした人へのお礼ではない。「不満はあるが、許す」という意味だった。

 それからわたしはやや敏感になった。わたしの行動への許可のような「いいよ」、あるいは却下のような「へえ」「そうするんだ」が出るたびに、はっきりと言った。わたしは、これって、あなたの許可を貰うことじゃないと思う。すると彼は誤解だと言い、ホルモンバランス、とつぶやいた。
 彼はわたしと食事をともにしないことが増えた。ふたりとも働いているから不自然ではないが、意図的にずらしているようにも思われた。いい気分ではなかった。
 彼がわたしの作ったものをひとりで食べると、一人で食べたときには洗っておくという合意を取った食器以外のもの(ドレッシングとか)を食卓に置き去りにするので、それが地味にイヤだった。そういうの片づけてよとわたしは言った。
 彼は返事をしなかった。のちに共通の知人から聞いたところによれば「あいつ口うるさいんだよ。俺も最初は下手に出ちゃったから、それが悪かったんだよな」と言っていたそうだ。

 二つ目に疑問を感じたのは「クイズ」だった。
 わたしは料理を担当するから、余裕があればリクエストを聞く。その日もそうした。鶏モモがあるんだけどチキンカレーと唐揚げとどっちがいい?
 彼は「あ、考えて」というようなことを言った。だからわたしは自分が食べたかった唐揚げにした。
 すると彼は特段に陽気な、上機嫌な、そのくせどこか逼迫した気配を含んだ声で、言った。いやー、惜しいなあ。チキンカレーなら正解だったんだけどな。

 正解?

 わたしは唐揚げをむしゃむしゃ食べた。わたしの唐揚げはうまい。
 食べながら理解した。彼はわたしをジャッジする立場でいたいのだ。いたいというか、自分をそういう立場だと思っていて、その立場を確認するために許可を出したりクイズを出したりしているのだ。

 わたしは第三者を入れた話し合いの場をもうけ、メモをもとに「だから別れてくれ」と説明した。すると彼は見たこともない顔で(なんというか、ほとんどハイみたいな顔で)言った。俺に口きくなって言うの? そんなことが不満なんだったら口きけないじゃん、おまえと、誰も。
 彼がわたしを「おまえ」と呼んだのはその一度きりである。心の中ではずっとそう呼んでいたのだろうなと思った。

 そうしてわたしは婚約を破棄した。
 わたしが思うに、彼は相手の上か、さもなくば下かでないと、口をきけないのである。

家の女

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。だからわたしは行くところがなくて、ただ走っている。

 わたしが十代だったころ、若い女は将来結婚すると決まっていた。わたしは短大を出て大企業に就職してその職場で結婚して「寿退社」をした。そして子どもを産む予定だった。婚家は都内の、政治家や芸能人の屋敷はないけれどそれなりの「ランク」の住宅街の一軒家で、子ども部屋候補としてリフォームされた部屋がふたつあった。

 わたしはとうとう妊娠することがなかった。それが誰のせいかは知らない。知ることができる時代でもなかった。それを甘えと今の若い人は言うのかもしれない。そもそもそういう結婚をすべきではないとか、手に職をつければよかったのだとか、そのように言うのかもしれない。
 とにかくわたしには子がいない。

 子ができないがそれ以外に「目立った問題」がないために離縁することもできないらしかった。そうして夫はがったり老け込み、もともとこもりがちだった書斎で食事までするようになった。
 夫はわたしを殴ったことがない。だから悪い人ではないのだと思う。
 夫は結婚当初から、わたしが用件のない会話を持ちかけることを嫌う。夫はわたしの名を呼んだことがない。

 わたしがうんと若かったころ、わたしは美しかったのだそうである。それで夫がわたしを気に入ったのだそうだ。わたしは毎日実家の犬を連れて歩いて、足りないからひとりで走って、それだけで高校では陸上の都大会まで出た。のんきな時代だったからだと思う。
 わたしは暇さえあれば犬を連れて外を走っていた。犬が誰よりもわたしと感情をやりとりできる相手だったから。
 勉強はあまりできなかった。スポーツを続けたいなどと言っても誰も喜ばないことはわかっていたし、目立つこともよくない気がした。両親ははなからわたしを「片づける」つもりだった。その方針を悪であると断定することは、わたしにはいまだにできない。今どきの会社勤めのインテリの若い女の人を見て、自分に同じことができると思われない。

 子ができないことをあきらめたらしい夫から「趣味を持ってもよい」と許可されたので、安く済む範囲で登山をはじめた。わたしは細いと言われることが多いけれど、身体きわめて頑健である。実際に山に行ける回数は少ないけれど、身近なものを使ってトレーニングするだけでも楽しかった。
 なによりわたしは少々の「妻のこづかい」がもらえたことをうれしく思った。わたしがごはんをたくさん食べるので、舅と姑はそれが気に食わないようすだったのだ。わたしは舅と姑の目の届かないところでごはんをいっぱい食べてそうしてまた動き回っていられることを、何よりうれしく思うのだった。

 ある日、登山は楽しいかと夫が聞くので楽しいですとわたしはこたえた。一人でもかと夫は重ねてたずねた。登山はひとりでやるようにと厳しく言われていたからだ。わたしはこの機会を逃すまいと思い、珍しく一瞬で大量の思考を重ねて、言った。ほんのすこしさみしく感じます。もし犬を飼うことができたら、わたしの生活は完全になります。

 完全か、と夫はつぶやき、完全ですとわたしはこたえた。
 そしてわたしは犬を手に入れた。

 それから十数年が経った。わたしの生活はもちろん完全だった。わたしは自分の身体が求めるだけの運動をすることができる。わたしは運動に見合った食事をすることができる。朝の公園で犬仲間とおしゃべりすることができる。ときどき近郊の山に登ることだってできる。わたしにはそれでじゅうぶんだった。家にいない時間を確保できるなら、それで。
 犬が老いて視力をうしなったすぐあとに疫病禍がやってきた。

 犬は名を「ぐら」という。仲間と森の中を歩いておいしいごはんをいっぱいつくってみんなで食べる絵本の主役のひとりだ。子どもができたら読ませてやろうと思っていた。
 子犬のころは「ぐらちゃん」と呼んでいたけれど、その響きからあっというまに「ぐらたん」になった。ぐらたんのことは舅も姑も好きなようだった。彼らがこっそりおやつをやってもまったく太らないほどにぐらたんはよく運動していた。

 ぐらたんは老いた。もう走れない。疫病下では日帰りで都外の登山をすることも難しい。
 朝が来る。わたしはぐらたんを歩かせる。朝の公園にはぐらたんをかまってくれる犬がいっぱい来る。わたしの会話の九割はここでおこなわれる。わたしは帰宅する。家事をする。それからジョギングに出る。もはやジョギングのほかにわたしが家にいない理由はない。

犬のアルバイト

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにペットを飼う人が増えたのだそうだ。私もご多分に漏れず犬の飼育計画を前倒しした。それでうちにはいま一歳の犬がいるのだけれど、この犬はふつうの犬であって、何ができるというわけでもない。しかし最近は犬の身ながらアルバイトをしている。
 私の犬は特別な経験をしていない。強いて言うならめちゃくちゃ散歩している。いちおうは小型犬なのに、大型犬のごとく激しく散歩している。そうして近所の犬とよく遊び、休日はピクニックやドッグランに行っている。幼犬ばかり集めたお泊まりなどにも参加した。
 そんなだから私の犬は他の犬が好きだ。飼い主としては「犬同士で遊んでくれるならラクでいいわ」という程度のものだったのだが、そういう性質がアルバイトになるのだから世の中わからないものである。なんとなればこの世には犬同士で遊ぶ機会が少ないまま大きくなったために犬との遊びかたがわからない犬がけっこういるからである。

 私は犬のしつけをひととおりやって「まあだいたい良いな」「しかし、もうちょっといけるはずだよな」と思って、自分だけでは練習のしかたがわからないから、徒歩圏内のドッグトレーナーを探した。
 そうしたらトレーナーさんが自分のところで預かっている犬と私の犬を遊ばせて、「よかったらまた他の犬と遊んでください」というのである。遊び相手が確保できるのはこちらも助かるので、歯磨きやらドッグスリングやらの練習に通い、前後によその犬と遊ばせている。トレーナーさんがそのたびに何かくれる。リードとか犬のガムとか犬の服とか歯磨き剤とか、そんなのをくれるのである。どれもあればありがたいものだ(私は進んで犬に服を着せたいとは思わないが、手術後の服や雨の日のカッパなどを着せる必要があるので慣らすようにしている)。

 そのようにして私の犬はアルバイトをしている。たいていの相手は犬社交をやる機会が少なく、犬に対しては吠えるか突進するかしか知らない子犬ちゃんである。私の犬は突進されても距離を取り挑発して追いかけっこに持ち込み、相手の体格に合わせてプロレスごっこをやる。
 相手の子犬ちゃんは何度か遊ぶと遊び方を覚えてくれる。そして人間に向き直り、私に愛想良くしっぽを振る。みんな私の犬よりかしこい。私の犬は「なんだ、もう遊ばないの」とばかりに鼻をピスと鳴らして私の斜め後ろに座って耳の後ろをかく。私にしっぽを振らない。私の犬は私がいると機嫌はいいが、他の人に対するより愛想がよくない。たまにはしっぽをぶんぶん振ってほしい。

 そのような犬のアルバイトにおいて、ちょっと難しい犬の相手をした。対面させるとキャンキャン吠えるのはよくあることだが、あいさつの機会を待っている私の犬に向かって吠え、犬の嫌がることばかりを試みる。追われれば即座に人間の後ろに逃げる。初対面の人間である私のスニーカーの間にぐいぐい入りこんで私の顔と私の犬の顔を交互に見ながら吠えつづける。
 この子は他の犬が気になるんですよとトレーナーさんが言う。気になるのにこんなふうにしかできない。面倒ですみません。しかしこの子も苦労していましてね。飼い主さんがDVの被害に遭って。ええ、それはもうひどいもので、行政の接見禁止を取ったのだそうです。
 DV加害者は犬には暴力を振るわなかったそうですが、目の前で飼い主が殴られたら犬だってつらいのです。だからこの犬は人間には無条件で媚びる。そうして自分と同じ犬に対面したときの自分の感情がわからなくなってしまったのだと思います。興味と無関心と好意と意地悪な気分がごちゃごちゃになっている。
 私は納得した。この面倒なふるまいをする犬は、子どもで言うところの「面前DV」に相当する経験をしたのだ。コミュニケーションに難が生じても無理はない。コミュニケーションをしようとするだけ立派である。
 疫病禍が長引くにしたがってDVが増えたのだそうだ。しんどい話である。私はそうした問題の専門家ではなく、親しくない相手にできることがほとんどないから、人間の被害者にはたいしたことができないが、犬同士の遊びならばんばん提供したい。私の犬がいいよと意思表示する範囲での提供ではあるけれど、私の犬はちょっと鈍くて細かい屈折とかよくわかんなさそうだから、だいたいOKするんじゃないかと思う。