傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしは孤独に死ぬだろう

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのため人の死に目に会えるのは親族のみになった。感染の状況によっては親族さえ会えないこともある。

 わたしはいまだ五十の坂を越えたばかり、昨今の平均寿命から考えると死が近いとはされにくい年齢だが、平均はあくまで平均なのであって、人によっては強く死を意識する。具体的には病気をするとか、そういうことで。
 わたしは病気をした。生きて帰ったが、年に一度検査をして「まだ死なないでしょう」というようなお墨付きをもらっている。もう数年そうしている。そんなだから死について考えることは日常であり、特段の悲劇とも受け取れない。法的に有効な形式の遺言も書いたが、自筆なので、公正証書遺言にして後の憂いを断ったほうがよいのではないかと考えている。
 一方で「もう法定のままでよいのかもしれない」「死んだあとのことなんかどうでもいいのかもしれない」「だって、どうせ思い通りにはならないのだし」とも思う。

 というのも、近ごろわたしより少々年かさの友人が亡くなったのである。わたしは赤の他人だからもちろん終わりのほうには会えなかったのだけれど、連絡はとっていた。彼女はしきりと周囲に感謝しながら最期の時を過ごした。彼女の親族たちーー夫、息子と娘、自分の姉妹、高齢の親までーーは、それぞれの能力や取得可能な余暇に合わせてチーム戦のように彼女を支え、およそ考え得るかぎりの環境を提供して、彼女が治療の苦痛で精神的に荒れたときにも辛抱強く相手になった。
 それは彼女が血縁ある関係の人々に感謝され、恩を返したいと思うような人生を送ってきた、そのことの結果である。もちろん、相手によっては恩も忘れるだろうから、よい人生を送れば弱ったときに恩が返されるというものではないが。

 わたしは彼女とは正反対の人生を送ってきた。当時としても珍しいほど男の子どもばかりを大切にする家で、わたしが皿を洗っているあいだ弟が塾に通っているという、簡単にいえばそういう家だった。家庭内労働や教育や投下される費用の面での差別は、しかし本質ではなく、「蔑まれる係」としての役割を生活の隅々に至って与えられていることのほうが、わたしにはこたえた。だからわたしは十八ですべての血縁を切って捨てた。
 もう一度人生があるのなら、やはりわたしはそうするだろう。しかし切って捨てられた両親は自業自得として(あんなの、いま考えても一切の感情を持つ必要がない)、弟についてはどうか。ただの甘やかされたぼんくらであり、はちゃめちゃに邪悪だったというわけではない。少なくとも父親のしていた日常的な娘への性的な言動をまねることはなかった。そんなのは感謝するようなことではないが、両親と一緒くたに切って捨てて何の感情も抱かなかったことについては、もしかするとやりすぎだったのかもわからない。

 わたしのすでに短くなくなった人生において、わたしを助け、わたしを愛し、わたしを笑顔にしてくれたのは、いつも赤の他人だった。だから自筆で遺言を書いたとき、わたしは「わたしが働いてためた老後のための貯金、早死にしたとしても血縁者になんかびた一文もやるものか」と思って、そのように書いた。
 でも、法的な関係のない人々に、国家が把握し法律が管轄する「親密さ」のない人々にお金を残そうとするのは、それはそれで迷惑なことなのかもしれない。彼ら彼女らは笑っていいよと言ってくれたけれど、いざとなったら揉めるかもしれず、そもそも「ほんとうは自分を指名してお金を残したりしないでいてくれたほうがありがたいけれど、相手の意思を尊重したいから」という姿勢なのかもしれない。会社員ひとりが貯められる額面だからたいしたことはないが、それでもその程度の金額でも人間や人間関係がおかしくなることは珍しくない。
 それならばわたしはおとなしく法定相続人にわたしの遺産をくれてやったほうがいいのかもしれない。

 わたしはきっと孤独に死ぬだろう。わたしの親密な人々は誰もわたしの病室に入れない。法と国家が把握していない関係だから。カテゴリ「知人」にすぎないから。一緒に生活していようが、たがいの危機を何度助け合おうが、「知人」にすぎないのだから。
 正しい「親密さ」を築いてきた人間だけが、死に目を誰かに看取ってもらえる。それが人生の総決算というものだ、とでも言われているようだ。

 それならそれでかまわない。わたしは孤独に死ぬだろう。わたしは幸福なまま、ひとりきりで死ぬだろう。

あの人たちいったいどこに行っちゃったんだろう

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにオンラインでのコミュニケーションが活発になり、ふだん会わない人とのインターネットを介した「再会」が(わたしの周辺で)ちょっとしたブームになった。今どうしてる。そう、それはいいね。

 疫病のはじまりから一年、再会ブームもひととおり落ち着いた。なにしろふだん会わなかった人なので、十年二十年ぶりに連絡がついたからといって、そのあと濃密な人間関係が生じる確率はきわめて低く、「どうしてる」「それはいいね」が終わればだいたい用はないのである。「久しぶりに集まろうよ」ができないご時世だから、なおのこと。

 そうしてわたしたちはいつもの人間関係に戻った。戻ってだらだらとオンラインで話をする。今日は高校生の時分からの友人と、高校生のとき空き教室やコーヒー二百円のカフェで延々と話していたように話している。

 わたしが再会ブームを話題にすると、そうだそうだ誰それはこうだった誰それは意外なことにこうだった、とちょっとだけ盛り上がった。それから彼女はおそらく手元の皿かなにかを下げて(そういう音がした)、低い声で言うのだった。あのさ、こういうときにも連絡を取らない、取れない、なんなら思い出さない、大学出て何年かのあいだにわたしたちの前からいなくなっちゃった人たち、いるじゃん、この世からいなくなったわけじゃないはずなのに、再会ブームでも名前があがらない人たち。それから低い声のまま当時教室でいくらか話をする仲だったクラスメートの名を複数挙げた。

 わたしたちはいわゆる就職氷河期世代である。就職先がなかった。それはもう、ぜんぜんなかった。そんなだからわたしの同世代の友人には外資と公務員と資格職がやたらと多く、一部が大学院進学やベンチャー立ち上げを経験しており、転職経験のない者がきわめて少ない。職業生活の初手からけちがついたので景気がよくなってから転職するのは当たり前のことだったのだ。

 でもそれはいわばコミュニティに残った人間から見える景色である。

 もちろん、このたび再会しなかった人々が不本意な人生を歩んでいるとはかぎらない。彼ら彼女らは単に高校大学の薄い友人たちに愛想をつかしていて、誰にも連絡を取りたくないだけかもしれない。その後の人生が幸福にすぎるのでインターネット経由で誰かと再会するなんて思いもよらないのかもしれない。たいへんなお金持ちになったので下心のありそうな連中とは接点を持ちたくないのかもしれない。

 しかしそうとはかぎらない。もちろん。なにしろたいへんな不景気だったのだ。都内有数の進学校で、あるいは有名大学で、自分はできるのだという意識をすくすくとはぐくみ、努力もして、そうしてまったく報われず、白紙の値札を下げて労働市場で買いたたかれた、そういう人がいっぱいいたのだ。全員が全員「じゃあしょうがねえな資格でも取るか」とか「日本がだめなら外資に行きましょ」と思って白紙の値札の重みに長いこと耐えられるわけではない。

 実際のところ、失踪は多かったよ、と友人が言う。友人は理系だったので、少々専門を変更してまで修士卒の需要が多い工学系の大学院に進み、修士課程に入るなり研究そっちのけで就職対策を打って、景気がよくなったところで転職した。そうして大学院時代に幾人もの「失踪者」を見たと、そのように言うのだった。休みがちになり、他人を拒絶するようになり、そうして次の進路も決めずいなくなる人がそれなりの数いたのだと。

 疫病なんて不景気よりなお悪いよ。友人が言う。もっと理不尽で、もっと突然なんだから。わたしが今の就活生だったとして、どうして一年前に大学四年生じゃなかったんだろうって思うよ。今の進学率は半分くらいだっけ、そしたら半分近くは高校三年生で就活してるとして、十八でそんなのに耐えられる?
 わたしだったら耐えられないな。大学四年生でも耐えられないかもしれない。あのころだって「どうしてバブルに間に合わなかったのか」「せめてここまで冷え込む前ならどんなによかったか」「こんなの一生不利になるじゃないか」と恨みに思ったし、実際、世代として一生ものの不利を背負っているでしょう。

 失踪した人がみんな幸福ならいいな。友人はそう言う。単に幸福にすぎてわたしのことなんか忘れてて、それで連絡がつかないならいいな、全員がそうであったら、いいのにな。でもきっとそうじゃないんだろうな。

恋はごみ箱

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしたちの身辺から恋の芽が完璧に摘まれた。摘まれ尽くした。ぺんぺん草も生えやしない。

 恋はこのような世界にも存在する。なんなら燃え上がっている。わたしもそのような話をたくさん聞いている。しかしそれらの種は疫病の前に蒔かれ、疫病の前に息づいていたものである。恋はだいぶん原始的なものだから、フィジカルな接触が禁じられた疫病以降の世界では難産になるのだろう。
 もちろん恋はプラトニックなものでもある。精神的な活動のみで完結しうるものでもある。しかしそれは相互作用をもたらさない。しばしば一方的に誰かを「応援する」「奉仕する」というようなものだ。わたしはそういうものを好きではないが、世界はそれをも恋と呼ぶので、だから疫病下の世界でも恋は発生しているのだ。たとえばガラスとアルミニウムの小さく薄く四角なデバイスを通して。
 しかしそこには相互性はない。相互性のない恋はきっと存在するのだろう。しかしわたしは片恋というものを経験したことが一度もなく、だからそれを理解することができない。貧しいことである。わたしが他者を恋するとき、その他者はすでにわたしと(たとえば友人であるというような)何らかの個人的な関係があり、そのうえで「わたしはあなたに独占欲をともなう恋をしており、あなたもわたしにそのような恋をしていたらわたしは幸福なのだが、どうだろうか」とわたしがオファーする(あるいはされる)、それだけがわたしの恋だった。

 わたしの思う恋は相互に身体としての存在と大量の言語をやりとりするものだ。相互性なしの恋が想像できないのと同時に、言語のやりとりなしの恋もまたわたしにはわからない。ことばを通じて他者に触れ、そこに相互に固有であることの合意が発生するのがわたしの思うところの「恋の成就」である。
 自分を偏っていると思わないこともない。片恋がわからないなんて貧しいことである。人類はすでに、描かれた絵にも恋をしている。存在するが決して会えない人にも恋をしている。集会で宗教の教祖さまにひれ伏すのも、たぶん恋のようなものである。それらのすべてを理解しないわたしはきっと感情的な貧民なのである。

 いずれにしてもわたしたちは恋をする。わたしの理解するたぐいの恋は疫病下でその発生が抑制されている。すでに発生していた恋は燃え上がっている。そうでない恋についてはどうだろうか。人々の見解を聞きたいものである。もしかするとより盛んになっているかもしれない。
 というのも、わたしたちは名付けえない感情を持て余しているのだ。別の誰かへの執着、すでにない者への執着、皮膚や体温への執着、復讐心のようなもの、恩を返したいという欲求のようなもの、ただ誰かにやさしくして慰撫してやりたいと思う欲求、その他、わたしの知らない感情たち。
 それらをすべてぶちこんでも咎を受けないのは恋と呼ばれる箱だけである。

 わたしたちは恋と名付けた対象に自分の名づけていない感情や解釈しがたい執着をぜんぶぶちこめる。しかも箱の表面は幻想を映すスクリーンになっていて、だからやたらと美しい。 幻想の寿命は短い。投影された端から死ぬ。だから恋はすぐに腐敗する。そんなこと十代に知ったはずなのに、新しい幻想が映ると、性懲りもなく飛びついてしまう。
 わたしの知っている恋というのはそういうものである。とても美しくやたらと都合の良いごみ箱を呼ぶときの名である。

 もしかするとこの疫病下の世界に生きる人類はそのように美しいごみ箱をうしなってしまうのかもしれない。フィジカルな出会いが極端に制限された世界では、恋することはできないのかもしれない。だって、わたしたちは、画面越しに誰かにときめいたとしても、別の名前をつけるだろう。わたしたちはすでに名付けられた相手としか接続することができないだろう。そうではないか? 理由のないフィジカルな接触が禁じられた世界で、理由のないフィジカルな接触をともなう突発的な強い幻想の相手が生じうるものだろうか?
 親密な他者はすべて、「生活や家計をともにする契約を結んだパートナー」とか「養育を法律で義務づけられた相手」とか「カネや利便で購入している/されている相手」とか「片方だけががまんして都合のよい状態を提供する相手」とか「家族の一員として迎え入れたペット」とか「推し」とかだけになるのかもしれない。この世界において、恋はもう死んでいるのかもしれない。

私たちが広場ですること

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために休日の公園にやたらと人がいる。私の家の近所には大きな都立公園があり、よく飼い犬を連れて散歩に行く。今日も行った。そうすると疫病の前の二倍くらい人がいるのだった。遠出も屋内レジャーも禁じられたので、休みの日にやることがないのだ。
 ベンチは等間隔で埋まり、人々は本を読んだり音楽を聴いたりおしゃべりしたりしている。なかには自前の折りたたみ椅子を使っている人もいる。芝生や落ち葉のスペースの上にレジャーシートを広げ、家族や大人同士で寝そべっている人も少なくない。なるほど、「屋外で寝る」というのは考えうるかぎりもっとも害のない娯楽である。
 公園の敷地は広い。何もない空間が続く。ふだんはよくここに大道芸人がいるけれど、今日はいない。きっと人が集まるから禁じられたのだ。その代わりといってはなんだけれど、ものすごく上手なサックス吹きがいる。商売ではなくやっているようだけれど、お金をもらってもいいのではないかと思うくらい聞き応えのある演奏だ。

 私は公園を横切りながら人々の娯楽を数える。読書、音楽鑑賞、おしゃべり、楽器演奏、飲食、ジョギング、キャッチボール、スケッチ、写真撮影、コスプレ、ダンス、スマートフォンのゲーム、落ち葉のかたまりへのダイブ(主に子どもがやる)。地面があるだけでいろんなことができるものだ。疫病前はこの公園でここまで多くの娯楽を観察することはできなかった。
 でも私はそのような光景に見覚えがあった。まだ海外旅行が一般的な娯楽であったころ、東南アジアでよく見かけたのだ。
 たとえばホーチミンシティに行くと、街を細長い公園が横切っている。細長い公園には夕食後の時間帯まで人々がいる。それで何をしているかといえば、運動をしている。チームスポーツをしている一群もあるし、ジムにあるような器械を使っている人もいる。どうやらホーチミンシティの公園はジム代わりになっている。道路のふちに腰掛けて小さなダンベルを上げている人までいる。東屋の下には大音量で音楽をかけて社交ダンスを踊る年配の男女がいる。
 彼らはもちろん運動のほかの娯楽も楽しむ。道ばたに椅子を出してお茶を飲み、話をし、恋人の肩にもたれる。道ばたで食事をし、運動し、ボードゲームをし、スマートフォンで何かに接続する。酒を飲み、音楽をかけ、あるいは演奏し、踊る。子どもと遊び、犬を走らせる。人生の楽しみがすべて路上にあるようだった。喧噪、におい、排気ガス。イラ・フォルモーサ。

 今や東京がそのような場所になったのだ。冬の寒さのある国の、その冬のさなかにも、人々は広場に娯楽を展開している。それは疫病によるさまざまな社会活動の制限の結果だ。それでも私はそれらを豊かさと呼びたい。
 まだ海外旅行が一般的な娯楽であったころ、寒いさなかの公園で口をあけたウォッカの瓶を持ち歩いていたために警察官に連れて行かれた人を見た。ニューヨークでのことだ。ニューヨークの公園や路上での飲酒が禁じられていることを知らなかったのではあるまい。住んでいて、知っていて、それでも酒を飲まざるをえなかった、そういう人だったのだろう。リスのいる林も、素晴らしいジョギングコースも、敷地内のスケート場も、彼の気を引くことはできなかったのだろう。まったくもって他人事ではない。
 楽しいことがないとき、そして楽しいことを作り出せないとき、私たちは簡単に麻痺することを選んでしまう。何もなければ内側から不安が湧いて出るのが人間の仕様であって、それを外に逃がす方法がなければ薬物を使うか、さもなくば別の嗜癖に耽溺するかして、湧いて出る不安から目を逸らす。そういうことをやりかねない心性はもちろん私にもある。麻痺はいつだって私を待っている。辛抱強く私の体内に苦痛を送り続け、自分のところに駆け込んで来るのを待っている。
 だから私は自分にとっての人生の喜びのひとかけらを(たとえば飼い犬のリードを)握り、大きい公園に行く。そうして赤の他人が持って来た人生の喜びを見せてもらう。彼らが家にこもらず、その素敵なものを持って公園に出かけてきてくれて、ほんとうにありがたいことだと思う。病的な人間関係、病的な飲食、病的な活動はもちろん彼らの中にもあるだろう。でも私はそれらを仮定しない。美しい人生の印象だけを、彼らの姿からもらう。

レストランの開会式

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにレストランの営業は20時まで、アルコール類の提供は19時までが推奨されている。わたしの好きなレストランも軒並みそうしている。
 そのうちの一件に予約の電話をかけた。17時一斉スタートですべての客に同じコースを提供する形式にしているということだった。こうするしかないので、と店主は言った。いつものようにアラカルトもやりたいのですが、とてもできません。それでもよろしければ、どうぞいらしてください。17時に伺いますとわたしはこたえた。

 さて、17時に開店、同時にスタートということは、その五分前ほどに到着すればよいか。通常レストランに行くときにはそんなに厳密にやらないのだが、なにしろ一斉スタートである。全席埋まった状態で美しく17時を迎える、みたいな感じにしたい。わたしは同行の友人にそのように話し、わざわざ少し前に待ち合わせ、駅前のドラッグストアで時間をつぶして、きっちり五分前に店のドアをあけた。他の席はすでに埋まっていた。
 各席気合いじゅうぶんである。わたしたちはゲート前の競走馬のごとく開始のときを待った。運動会の徒競走で使う空砲みたいなやつがあるといいのにな、とわたしは思った。
 しかし現実はわたしの妄想を越えていた。シェフがやけに本格的な音響装置の前に立ってマイクをにぎったのだ。まさかの「開会宣言」である。わたしはおおいに愉快な気分になり、最初の一杯をシャンパンにすることにした。だって、なんだかおめでたいじゃないか。

 そんな真剣な姿勢で外食したくないという人もいっぱいいるだろう。店の都合に合わせるのがいやだという人もいるだろう。でもわたしたちは合わせる。不要不急とされるぜいたくな食事を親しい人とすることなしに、わたしの人生は成り立たない。わたしは祝祭的な皿の数々を要し、それを出す場であるレストランに急ぐ。
 疫病禍で変更された規範にはそれなりに適応している。幸いに職があり、住むところもある。精神の健康も保っているつもりだ。それでもわたしは近ごろ、こんなに愉快な気持ちで笑うことがなかった、と思う。
 なぜかといえばたぶん「何ヶ月ものあいだ、自分が予測できないことが起きなかった」からである。

 たとえば同じマッサージでも自分でするのと他人にしてもらうのでは後者のほうが気持ちいいのだと、ものの本で読んだことがある。著者が言うには、ほどよく予想外であることが快楽には必要で、それは自分ではできない(自分の動きは自分で決定するから)、だから他人のマッサージを必要とする、とのことだった。たしかに、同じ場所を同じ力で押すにしてもセルフマッサージより人にやってもらったほうが気持ちいい。
 マッサージだけでなく、生活そのものに予想外が必要なのだと思う。あまりぶっとんだ予想外ばかりでは疲れてしまうが、ほどよい無害な予想外があるから生活の気持ちよさが上がるのだと思う。
 疫病の流行は大いなる予想外だったけれど、その後の生活ではひたすら選択肢が減り行動範囲が狭まり、そのために予想外の喜びがうしなわれた。日常の中で出会うよきできごとのほとんどすべてが予測の範囲内になった。わたしはそのことに、たぶんうんざりしていたのだと思う。

 料理を食べに来たら開会宣言があるというような、ちょっとした予測範囲外のおもしろさ。わたしの生活からうしなわれていたのは、そういうものだったのだ。疫病が流行する前、わたしは知らず知らずそういうものの獲得のために休暇を使用していたのだ。
 感染拡大防止のため、自分にとって重要でない人とはできるかぎり顔を合わせず、知らない土地をふらふらすることもない。そうすると生活は定型化し、予測範囲外のことは起きなくなる。自分の世界を小さく小さくして、安全志向で、できるかぎりのことを自分でするようになる。そうした状勢を反映してか、自分の機嫌は自分で取れ、といった言説がはやったりもした。わたしはそれが上手いほうだと思うが、人にしろと言われてするものでもないように思う。権力がある側がない側に機嫌を取らせるのが問題なのであって、あとは他人に頼ることがあってもよいのではないか。
 セルフマッサージも上手になったが、セルフでは解決しない欲求もある、つまりはそういうことである。

 受け取ったものは返したくなる。だからわたしもこれから誰かにささやかな「予測範囲外」を提供したいと思う。美しくて奇妙ですこし滑稽で素敵な、レストランの開会式みたいなものを。

 

ラブホ行こうよ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それでしばらくおとなしく暮らしていたところ、彼氏が「ラブホ行こうよ」と言うのだった。
 こいつだいじょうぶかとわたしは思った。一緒に暮らしてる人間とラブホ行ってどうすんだ。ベッドなら家にもある。それぞれが一人暮らしのころに使っていたベッドを持ち寄ったのでそこいらのホテルのよりでかい。ネトフリの見たいものリストはまだ長いし、switchも買った。最近は近所の銭湯に行くのがこの家のブームでもある。セックスだってしているじゃないか。奇抜な設備を別にすれば、ラブホにしかないものなんかないだろう。

 ある、と彼は言い張るのである。行きがけにコンビニに入ってテンション上がってあれこれ買って結局残しちゃったりとか、女の子がシャワーを浴びてるあいだそわそわしながら待ってたりとか、なんとなく寝ないでぼつぼつ話したりとか、窓がないもんだから朝ぜんぜん起きられなかったりとか、そんでつい寝過ごして女の子に置いていかれたりとか、そういうの。
 女の子って、とわたしは思った。同居して一年近くにもなる三十歳をつかまえて女の子って、あんた。

 それから彼のせりふを反芻してなんとなく理解した。彼が必要としているのはこの世界から消滅した軽薄な夜なのである。ちょっとした知り合いと、ときには知り合ってすぐの相手と話していて、なんとなく距離が縮まって、たいした思い入れもなく「うん、エロい」なんて思って、向こうもそういう感じで、色恋の色をエンジンに恋のほうは上澄みのひとかけだけ使って、それでもって手をつないで、ねえ今日は一緒にいようよっていう、あれだ。明日はわからないけど今日は一緒にいようっていう、あれ。
 不要不急といえばこれ以上の不要不急もない。疫病の前からそんなの必要なかったという人のほうが多いだろう。このたび流行している疫病以外にもリスクはあるのだし。
 でもわたしもほんのときどきはそういうことを必要としていたタイプの人間だ。経済にも学問にも芸術にも文化にも貢献しない、軽薄な楽しみ。そこからいわゆるまじめな(えっと、つまり、一対一の長期的な? そういうのまじめって言うんだよね?)関係に至ることもあるけれど、それはたまたまで、別にどこにも至らなくってぜんぜんいいですって感じの、不要不急。生産性とか進歩とか高潔さみたいなものをまとめてぶん投げちゃうのがなぜだか愉快な、あのなつかしい不要不急。

 この世界ではいらないとされたものが次々に消滅していく。そのような世界がはじまってすぐ、まだ誰も消滅が継続的な現象になると思っていなかったころ、彼はわたしにこう言った。今の部屋の更新が近い。引っ越す。だから一緒に住んでよ。
 彼はたぶん彼の好きな場がしだいに消えていくことを予期していたのだ。なんとなく人が集まる場所、約束なしに会話が発生する場所、特段の理由なしに呼ばれる場所、浮ついた音楽のある場所、深刻でない親密さが発生しうる場所。その筆頭が「女の子とラブホ行く」なのである。それらがしだいになくなることを予見したから誰かを家に置いておこうとしたのだろう。さみしがりだから。

 そんなわけでホテルから会社に直行した。わたしはこのところ土曜日の出勤が多いのだ。朝の百軒店の景色はなんだかガラス質で、うらぶれているのにしめっぽくはない。坂を下る。コーヒーをテイクアウトする。ガードレールにもたれる。からすの声を聞く。見るべきものなんかない視界をざっと走査する。わたしが若かったころこのあたりで目についた脱法ハーブの店の妙に可愛い看板はもちろんもうない。世界はよりクリーンになり、安全になり、疫病が来ても人々はちゃんと家に引きこもってマスクをかけ、夜中に知らない人と話しこんだりしない。
 妙にコーヒーらしさを保っている奇妙な黒い液体をのむ。百円でまともなコーヒーが飲めるはずがないから、わたしは味覚のどこかをハックされているか、あるいは非情な搾取に加わっているのだろう。
 でもだいじょうぶだ。わたしはホテルに男の子を置いて出てきて、そのまま捨ててもいいし、一生一緒にいてもいい。だから、だいじょうぶだ。

 ホテル代家計に入れておいて、と送信しかけて、やめる。たぶん彼も今わたしと同じような軽薄な自由の残滓を味わっているだろうから、しばらく邪魔しないでおこうと思う。家計って、あんまり軽薄じゃないもんな。

世界が小さくなったあと

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。僕の学生時代からのバックパッカー仲間の龍二が「もう子育てするしかない」と言い出したのはそのせいである。
 僕は仰天した。龍二は何かに拘束されることがものすごく嫌いなので、自由に旅に出ることを嫌がる女性とは付き合わない、子どもはいらないと、そのように公言していた。物体を所有するとそれに拘束される気がするという理由でやたらとものの少ない部屋に住み、ベッドさえ持たず、高性能の寝袋で寝ている。彼女が来たら彼女も寝袋で寝かせるのである。なんていうか、彼女もすげえと思う。僕だったらベッド買えって言う。買ってやるかもわからない。

 疫病の流行によって龍二は成人後はじめて自宅で年越しをした。社会人になってからはとくに長期休暇が貴重なので、年末年始は毎年海外にいたのだ。機長にハッピーニュイヤーと言われ続けてはや十年、死ぬまでそうやって過ごすものだと、彼自身も思っていたそうだ。
 僕も四日も休みがあれば航空券を探しはじめるクチで、国外に出られなくなる日が来るなんて考えたこともなかった。国内旅行も自粛の対象で、時期によっては県境を超えることさえやめろと言われる。そうすると休みに何をしていいかわからない。
 僕は料理に凝り、龍二トレイルランニングをはじめた。それなりに上達して、インターネットで新しい趣味の仲間を探して、そこに会話も生まれたりもしている。それでも僕らはものすごく暇である。旅が僕らにどれほどの刺激をもたらしていたのかを、強烈に思い知っている。

 あまりに暇で旅が恋しいので、東京にやってきた旅行者のふりをして休日を過ごすことにした。海外からやってきて歩き回っている、という設定で場所を選び、旅行者になりきって感想を述べるのだ。
 僕らは古本屋街を歩き、老舗のカレー屋で昼食をとり、やはりとても古くからある喫茶店(カフェではなく、喫茶店である)で買った本のプレゼンをした。旅行者ごっこの一環で、海外旅行者として選んだ古本を旅行仲間に自慢するという遊びだ。そしてその後は銭湯に行き、風呂上がりには謎のローカル飲料・コーヒー牛乳を飲むのである。

 龍二は英語でコーヒー牛乳を褒め称えたたえて笑ったあと、不意に素に戻って、退屈だ、と言った。世界を見られなくなって退屈だ。もうタイとかでいいから行きたい。東南アジアに行きすぎて飽きたなんて言った俺が悪かった。懺悔する。国境を越えたい。もう台湾とかでいいから行きたい。あのへんはもはや外国じゃないとか言って悪かった。反省している。これから何年も東京にいるなんて悪夢だ。東京は好きだけど、俺の世界が東京サイズに縮んだことが耐えられない。だからさ、もう子ども作ろうと思って。そうすれば子どもの目を通して世界を見るから、もう一度世界が広くなる。

 暇だから子育てするっていうのでも、べつにいいだろう。退屈に殺されそうなんだから、命がけでやるさ。彼女は前から子どもはほしいって言ってたし、この年になるとキャリアの先も見えるから、極限まで仕事をしたいとも思わない。いや、出世はするだろうよ、転職もしようと思えばできるだろう、言っちゃなんだけどできるからね俺。でもそれでもたいした変化はないだろう。暇なままだ。それなら多少給与が減ってもいいからゼロから人間ひとり育てたほうが暇じゃなくなる。

 あんなに何にも縛られたくないと言っていた人間が、変われば変わるものだ。でもこの焼けつくような退屈をうっちゃるには、たしかにいいアイデアなのかもしれない。
 おまえ子ども好きだろ、と龍二が言う。好きだよと僕は言う。しょっちゅううちの子と遊んでやってな、と龍二が言う。おまえを子どもの親戚みたいな扱いにしたいんだ、彼女の姉ちゃんが子ども好きの友達を子育てリソースに組み込んでうまいことやってるんだよ、その話きいてて、じゃあうちではおまえにやってもらおうと思って。
 僕は男の恋人と住んでいるから子どもはできない。血縁にこだわりはないけれど、今の日本では同性カップルが里親になるハードルがとても高い。だから僕の人生に子どもはきっとやってこない。そのことを不公平と思わないこともない。でもこうやって自分のことを理解してくれる友人が「子どもの親戚になってほしい」と言ってくれる。

 世界が小さくなったあと、僕らの退屈をしのぐ主な方法は他人になったのかもしれなかった。