傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

うしなわれた毛づくろいを求めて

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしの仕事ではときどき要で急とみなされる業務内容があるらしく(それを判定するのは上司というより「空気」であり、とらえどころがなさすぎて、わたしには「気分」と区別がつかない)、週に二度ばかり出社している。

 社屋の中で人とすれちがう。すでに身に着いた動作で距離をとる。目だけを合わせる。わたしは目だけでほほえんでいることを伝えることができるようになった。近隣の部署には会釈がとてもうまい人(今日はテンションが高いな、今日は疲れているみたい、くらいのことがわかる)、ハンドサインであいさつをする人などがいる。わたしたちの口元がマスクでおおわれて久しい。表情がわからないと人間は不安になるので、それぞれが代替となる表現方法を身に着けているのだと思う。新しい「表情」を会得していない人はなんとなし温度が低く見える。動いているのに景色に埋め込まれているように見える。

 同僚がわたしのデスクに近づいてきた。ゆっくりと近づき、「適切な距離」を置いて立ち止まった。他人に声を出させる回数は少ないほうがいいので、「適切な距離」で止まった相手はわたしに用事があると察するようになった。近ごろはそうした相手の姿が視界の隅に入っただけで気づく。わたしがそっと立ち上がってからだの向きを変えると、同僚はしぐさだけで「お邪魔します」というような意味内容を表明した。

 同僚の用事は明後日の会議の根回しだった。必要十分な声で、同僚は話した。はい、そういうわけで原案に強い反発は予測されないのですが、できれば補助的な説明をしていただけると安心だなと、こういう次第です。

 わたしはうなずく。わたしのうなずきの種類は疫病以降飛躍的にこまかくなった。「聞いていますよ」「ふむ」「なるほど」「わかります」「賛成です」「実にまったくそのとおりだ」などなど。この同僚は眉の動かしかたがうまい。そのテクニカルな眉によって言葉数を疫病前の半数程度に削減しているのではないかと思う。

 同僚が自席に戻るとわたしはマスクを少し持ち上げて息を吸った。気分がよかったのだ。会議の根回しなんてほんとうに久しぶりだった。そんなものが禁じられる世界になるなんて誰が思っていただろう。

 根回しがうれしかったのではない。何がそんなにうれしかったのかと、自分で不審に思う。相手が好きな人とかだったらともかく、良くも悪くも普通の同僚だというのに。わたしは同僚との会話を頭の中でリピートする。たいした内容ではないと思う。重要なことではないし、感情をやりとりしているというのでもない。

 わたしを喜ばせたのは同僚その人ではなく、会話の内容でもない。わたしは他人と他愛ない話をすることに、きっと飢えていた。発話が制限される世界では、伝える意味のあること、重要なことが優先される。意味のないことや些末なことは優先順位の下のほうでひっそりと待つ。順番なんかきっと来ないのに。

 疫病前にこんなにも意味のある会話ばかりしていたことがあるだろうか。いや、ない。わたしは無駄な会話をたくさんしていた。意味のない会話をしていた。あいさつなんてその最たるものだ。ようやく梅雨があけましたね、とか。

 そういうものがわたしを安心させていたのだと思う。敵意のないこと、少なくともことばが通じることを始終示されて、それでようよう、この複雑な社会を生きてきたのだろうと思う。相手がそこにいることを認めるための意味のないことばを交わすこと。内容のないしるしを交換するようなこと。毛づくろい的なコミュニケーション。

 それは戻ってこない、とわたしは思う。少なくとも年単位で戻ってこない。もしかするとずっと戻ってこないのかもしれない。そんなぜいたくは同居している家族にだけしかできなくなるのかもしれない。

 電車に乗る。電車の中で突然誰かが話しはじめる。そういう症状の持ち主なのかもわからないと思う。彼のまわりから人が引き、そのぶん人と人とのあいだが詰まった。誰も誰とも目を合わせなかった。わたしも合わせなかった。かなしかった。声をかけたかった。人と間隔を詰めざるをえないとき、失礼、と声をかける、そういう者のままでありたかった。わたしはさみしかった。もうすぐ家に着くのに、家に着いたら家族がいるのに、わたしは彼らと仲がよくてたくさん話すことができるのに、それでもとても、さみしかった。

 

わたしのかわいい放浪

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから長い時間が経ち、不要不急の代表格である旅行が好きな人間はだいぶ弱ってきた。わたしもそのひとりである。

 わたしが思うに旅行好きには二種類あって、きちんとしたレジャーとして旅行したい人と、遠くへ行ってふらふらすること自体をやりたくてしかたない人がある。後者は要するに放浪癖のある連中である。移動していればそれだけで薄ぼんやりと嬉しく、なんとなし元気になる。

 わたしもそのひとりだ。三日も休みがあれば、「あれやりたい、とくになにもないと言われる地方都市で駅からスタートしてひたすら地名を読んだり方言を聞いたりするやつ」と思い、それより多くの休みがあれば、「あれやりたい、東南アジアでぺろぺろのTシャツにサンダルで歩き回って屋台で名前のわからない麺をすすったりするやつ」と思う。ストレスがたまると「パリに移住して美術館の掃除をする係になる」とか「ニュージーランドで羊飼いに弟子入りする」とか「スコットランドの島で醸造所をいとなむ老人と意気投合して跡を継ぎ、ウイスキー作りに後半生をささげる」とか言い出す。負荷がかかったときの妄想がぜんぶ「遠くへ行く」なのである。

 そんな人間が疫病下における移動の制限にダメージを受けないはずがなく、わたしも旅好きの仲間たちもどんどん弱った。少しだけ移動の制限が緩和された時期があったので、それぞれが勇んで近場に行った。過去には旅行とカウントしなかったほどささやかな移動であったのに、わたしたちはおおいに喜んだ。わたしのスマートフォンには、「息がしやすくなりました」「どうしても取れなかった肩こりが治った」「眼精疲労が回復した」「道行く人々がみな頼もしく美しく見える」などといった、あやしげな健康食品の宣伝文句みたいなメッセージが次々に届いた。

 しかしわたしたちはふたたび、県境を越える移動を禁じられた。禁じるのは政府や自治体だけではない。人々が相互に監視をし、圧力をかけあっている。疫病はもはや「外から来る連中が持ち込むケガレ」である。うすうす気づいていたのだけれど、この事態はきっと何年も、どうかすると十年単位でおさまらない。わたしたちは長いあいだ、居住地に縛られて生きていくしかない。

 つまり、わたしたちはわたしたちの放浪癖をなだめる手段をもはや持たないのだ。数日の休みが決まった瞬間に航空券を押さえて「そんなところに何をしに行くの」と言われるような旅行をすることはこの先もうないのだ。世界はすっかり変わってしまったのだ。元になんか戻らないのだ。そしてわたしは世界の一部であって、だからわたし自身も元には戻れない。

 頭の中は自由だと、わたしは思っていた。しかし、空想上の放浪のイメージさえしだいに貧弱になり、解像度がどんどん下がっている。わたしは愕然とした。わたしの空想が貧しくなったことがかつてあっただろうか。空想はいつもわたしの味方で、つらいときにはよりいっそう鮮やかにわたしを包み込んでいたというのに。

 わたしはメモを手にとって考える。旅行・旅・放浪のメタファーになりうる行為を列記する。直接手に入らなくなったものにはメタファーを通してアクセスするよりほかにない。わたしはわたしの放浪をあきらめるつもりはない。かつて「そんなところに何をしに行くの。意味ないでしょ」と言われたとき、わたしは気取ってこうこたえた。「わたしのかわいい休暇は百パーセントわたしのものです。だから意味があるかどうかはわたしが決めます」。

 わたしはわたしの持って生まれたものをだいたい愛している。そのほうが生きるのが楽ちんだからである。自分の外見をだいたい好きだし、自分のことをいいやつだと思っている。放浪癖についても、だから手放すつもりはない。わたしはわたしの顔をかわいいと思うし、わたしの放浪癖だってかわいいと思っているのだ。

 そうしてわたしは文章を書きはじめた。読書はもともとするし、あれがいちばん旅に近い。でもそれだけではだめだ。わたしはもっと遠くへ行きたい。わたしのたましいを遠くにやるのは、画像や映像ではないようだった。また、書くにしてもあることをそのまま書いても、遠くには行けない感じがした。そんなわけでわたしはフィクションを書くことにした。いろいろ試してみたところ、フィクションを書いているときの感覚がもっとも旅をしているときの感覚に近いからである。

世界を試す

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから長い時間が経ち、世界はすっかり変わってしまった。そのためにわたしは無意味な賭けごとがしたいという気持ちでいっぱいになっている。

 学生の時分に何度か酔っぱらって路上で寝た。文字通りの睡眠ではないが、つぶれていたことはたしかである。そのころわたしは若い女であり、特段に身を守る能力もなかったから、どう考えても危険だ。

 酒が好きでつぶれるまで飲んでいたのではない。今となっては若い自分の考えていたことはよくわからないが(日記を読んでも「どちらさまですか」「たいへんそうですね」と思う)、少なくとも酒自体を好んでいたのではなかった。若いころから飲む機会がなければ飲まなかったし、今でもそうだ。食事とともに二杯か三杯がせいぜいである。

 そんなだから、若いころのわたしはたぶん、飲みたかったのではなく、酔いつぶれたかったのである。もっと正確に言うと、酔いつぶれて悲惨な目に遭うか遭わないかという賭けをしたかったのだと思う。

 二十代半ば以降のわたしは今のわたしとのあいだに強い連続性があり、日記を読んでも「どなたさまですか」とまでは思わない。どうやらそのあたりからわたしは、「世界はそれほど悪いところではなく、わたしはそれほど悲惨な境遇に陥らない」という信念を持っている。

 もちろん世界には暴力と死があふれている。疫病の前から、理不尽と悲惨にあふれている。しかし同時に世界には美があり、驚きがある。若いころのわたしは(日記によれば)世界の美と悲惨の双方をすでに知っていた。日記にそう書いてあった。要するに若者が芸術や恋愛で多幸感をおぼえたり、身近な人が死んで嘆き悲しんだり、そういうありふれた生活をしていたわけだ。

 そして若いわたしは世界の両義性に耐えられなくなった。どちらかにしろと思っていた。世界よ、美しくあるか、悲惨であるか、はっきりしてくれ、と思っていた。直接のきっかけは大学の友人が死んだことだと推測される(そのことは日記には書いていない。中年になったわたしの推測である)。友人が死んだのに腹は減るし、夕焼けは美しい。それに耐えられなかったのだと思う。

 今のわたしからすると、その程度の両義性に耐えられないのは未熟としか言いようがないし、世界がおまえの単純な頭に合わせるわけないだろと思うのだけれど、でもまあしかたない。要するに幼かったのだ。

 そして若いわたしは大量の酒を摂取して路上にへたりこんだ。結果、一度は水のペットボトルをもらい、一度はマンションに送ってもらい、一度はしっかり歩けるようになるまで公園のベンチで付き添いをしてもらった。

 わたしは賭けに負けたのだ。三回勝負して三回とも完敗した。わたしは財布を取られず、暴行されず、放置さえされなかった。わたしは世界が美しいことを認めざるをえなかった。そして今のわたしと連続性のあるわたしができあがったのだーーたぶん。

 けれども今、わたしはもう一度、世界を相手に賭けをしたくなっている。疫病の蔓延で薄く複雑な恐怖がわたしたちを覆い、そのくせ日常はだらだらと続いている。会う人間が制限され、そのために私的関係を選別しなければならず、楽しいことや美しいものにアクセスする方法も減っている。世界は、もしかして世界は、やっぱり、ただ悲惨なだけの場所なのではないか。

 わたしはおそらくそのように感じたのだ。だからわたしは唐突に若いころのわたしのことを思い出し、実家から持ってきたきりあけていなかった段ボールを引っ張り出して日記を読んだのだ。

 とはいえわたしは分別盛りである。もう酔って路上で寝たくはない。そもそも酔うための場所だって疫病対策でやけにこまかく区切られて向かいの席とアクリル板やビニール幕で仕切られているのだ。完全に興ざめだし、それすらいつアクセス不能になるかわからない。

 わたしは考える。考えるというほど明瞭ではないぼんやりとした思いをめぐらせる。わたしは賭けをしたい。わたしは世界を試したい。世界の悲惨を引きずり出してやりたい。賭けに勝って、そして、

 わたしははっとする。それから散漫な思考の中身を書き出す。ずいぶんメランコリックである。病的というほどではない(たぶん)。でも気をつけたほうがいい。そのように思う。若かったころの無茶な自分は、いなくなったのではない。彼女はわたしの中にいて、わたしが世界に耐えられなくなったときに出てくるのである。

彼女の最後の犬

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。人が死んで出かけるのは「要」で「急」とされている。しかしこのたび死んだという知らせが来たのは犬である。親戚の犬が死んだから県境を越えて出かけるというのは、今のこの国の基準では「不要不急」である。

 犬はトイプードルで、名をスモモといった。スモモはとてもわがままだった。飼い主はわたしの伯母である。犬がわがままになるのはたいてい飼い主の不適切な甘やかしによるものだけれど、ご多分にもれず、伯母はスモモをそれはそれは甘やかして育てた。

 伯母はしろうとだから、あるいは判断力がなかったから、犬を甘やかしたのではない。トイプードルを飼う前に、伯母はセッターを二頭飼育していた。そのときはまだ伯父が生きていたし、子ども(わたしの従弟)も家にいたが、主な飼育者は伯母だった。犬たちは機敏で物静かで、人間の食べものにはまるきり興味を示さず、とても安定した生き物に見えた。

 セッターは狩猟犬にもなる運動量の多い犬である。伯母はセッターたちに玄人はだしの訓練をほどこし、二頭の犬の仲に目をくばり、甘えがちでも怯えがちでもない、落ち着いた素晴らしい犬に育てた。わたしはセッターたちと伯母が一緒にいるところを見るのが好きだった。ファンタジー小説に出てくる魔法使いと動物みたいでかっこよかったから。

 でも犬は死ぬ。健康的な生活を送っていたセッターたちも死んだ。人間も死ぬ。折悪しく二頭目のセッターの死と前後して伯父が病を得、しばらくして亡くなった。従弟が就職のために家を出てすぐのことだった。

 従弟は伯母を心配し、犬が必要なんじゃないか、もう一度犬と暮らしてはどうかとすすめた。そうねと伯母はこたえた。そして迎えたのがスモモである。従弟の帰省に合わせて伯母を訪ねてスモモと対面し、わたしはたいそう驚いた。わがまま放題の、可愛いといえば可愛いが、あの伯母の育てた犬とはとても思われない、落ち着きのない犬だったからだ。人間がものを食べていると必ず寄ってきて自分にもくれとせがむのである。そんな犬は世の中にたくさんいると思うけれど、わたしの犬の基準はあの優秀なセッターたちだったので、完全にあきれてしまった。

 伯母も伯母である。しかたないわねえなどと言いながら、塩分のないものを少しちぎってその場でやってしまう。なんというけじめのない態度か。トイプードルは警察犬をつとめることだってあるのに。わたしが渋面をつくると、伯母は言った。

 この子はわたしの犬よ。人ではない。人を甘やかしてわがままに育ててはいけない。犬だってそうしてはいけないとわたしは思っていた。でも、犬なら、いいの。わがままが原因で寿命が縮むこともあるかもしれない。それでもわたしはスモモを甘えんぼうの犬にした。わたしの意思で。わたしがそういう犬をほしいというだけの理由で。

 わたしはスモモより先には死なないつもりよ。でもスモモのあとに犬を飼って寿命まで一緒にいることはできないでしょう。だからスモモはわたしの最後の犬になる。最後の犬を、わたしは甘やかした。わたしがそうしたかったから。正しくはないわね。でも正しくないことをしてもいいのよ。わたしの犬だから。子どもではないのだから。わたしはね、犬が自分の子ではなく、誰の代わりにもならないことなんか、よく知っているんです。犬は犬。人ではない。だからカネで買ってきて人にしてはいけないことをするのよ。

 わたしは黙りこんだ。スモモのわがままはごく普通の犬の範疇だ。客観的にみれば、ひどい育て方をされているとはいえない。でも伯母はきっと「悪い育て方をするんだ」「そして自分の、ただかわいがりたいという欲望に都合のいい存在にするんだ」と心に決めて育てたのだ。自分のためにスモモを犠牲にしたと思っているのだ。

 スモモが死んだので伯母から電話が来た。来なくていいわよと伯母は言った。このご時世だし、親戚の犬のことなんかで出歩いたらいけないわよ。東京から病原菌もってきたって言われるわよ。わたし? わたしはスモモが死んだら高齢者住宅に入ろうと思って準備してたから大丈夫よ。

 伯母はゆっくりと言った。犬なんてどうせ死ぬの。わかってて飼うの。スモモが死んだからもうわたしの人生に犬は来ない。都合良くわたしと同時に寿命が尽きる犬はいない。それでもね、犬のいる人生は、とてもいいものだったわよ。

地面につながる

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。最初の一、二ヶ月くらいはリモートワーク効率的でいいじゃんと思っていたし、Zoom飲みもしょっちゅうやった。僕はわりと社交的なたちで、呼ばれれば行くし、自分が声をかけて人を集めるのも嫌いではない。

 それは事実である。表面的な知人もいれば、胸襟をひらいて親しく話す相手もいる。仕事でいろんな人に会うのも好きだ。会社関係以外にもいくつか仲間を持っている。一人暮らしを満喫しているけれど、家族仲はいい。今どき三人もきょうだいがいる。しかも年が近い。彼らのことはとても頼りにしている。

 しかし同時に僕は基本的に内向的な人間でもある。しょっちゅう漠然とした薄暗いことを考えている。暗いマンガとか暗い小説とかをやたらと読む。たましいが薄暗いのである。僕は思うんだけれど、社交性のある人間が明るくてそうでない人間が暗いなんていうのはまったくの思い込みである。他人とのコミュニケーションが好きでよく笑うおしゃべりな人間であることとたましいが薄暗いことは両立する。どこも矛盾しない。

 不要不急な外出が禁じられても、僕は平気なつもりだった。仕事で対面の打ち合わせができないために起こりがちなトラブルを防ぐ程度の能力はあるし、会話をしたければリモートで話す相手もたくさんいる。疫病の前に恋人と別れたのだけれど、僕が思うに恋人というのはいれば孤独でないわけではなく、場合によってはいるほうが孤独である。

 だから平気なつもりだった。でもそれはある瞬間、静かに訪れた。あれ、と思った。なんだろう。世界が目の前にない感じがするんだけど。

 最初はすぐに元に戻った。体調不良かなと僕は思い、多めに睡眠をとった。睡眠にも支障はなかった。僕はのび太くんのようによく眠る。食事だってちゃんととっている。しかもけっこう健康的なやつを。

 でもそれはまた訪れた。世界が目の前にない感じ。全身が薄いビニールの膜に包まれているような感じ。脳が半透明なゼリーで覆われているような感じ。音は聞こえているのにどこか遠く、目は見えているのにモニタの外と中の区別がつかない。すべてが書き割りめいている。

 ああ、これは、だめなやつだ。僕はそのように直感した。僕は実はぜんぜん平気なんかじゃなかったんだ。これはあれだ、人間が幽霊みたいになっちゃうやつだ。戦後を舞台にしたマンガで読んだことがある。戦場で凄惨な体験をした男が帰国するんだけれど、帰国しても彼のたましいは戦場にあり、だから身体が東京にあっても何の実感もない。

 似ている。感覚としては似ている。でも僕は戦争に行ったわけじゃないから、この男よりずっとダメージが浅いはずである。「ここにいない感」「実感のなさ」だって百分の一とかだと思う。でも、百分の一だろうが千分の一だろうが、それがまずい状態だってことはわかる。えっと、こうなっちゃったら、どうすればいいんだ。

 僕はKindleをあさってそのマンガを取り出してぱらぱら読み返した。たましいを戦場に置いてきた男は商売をしたり戦友と再会したりいろんな人に心配されたり明るいきれいな女の子に愛されたりするんだけど最終的に死んでいた。だめじゃん。仕事しても人に心配されても友情や色恋を得ても結局死ぬんじゃん。

 そういうのではだめなのだ、と僕は思った。誰かに助けてもらうことはできないのだ。だってこれは僕のたましいの問題なのだから。あのマンガの男は戦場からたましいを持って帰ることを拒んだから死んだのだ。僕はそうではない。僕は遊離しつつある僕の薄暗いたましいを、しっかりつかみ直さなくちゃいけない。

 そして僕は外に出た。平日だけれど、昼休み時間帯だからか、近所のちょっと大きな公園には小さい子を連れた家族連れが何組もいた。きっと子どもの保護者たちがリモートワーク中なのだろう。子どもが靴を脱ぎ、父親らしき人があわててそれを拾った。

 これだ。

 僕は芝生の上を裸足で歩いた。ちょっとつめたい地面、草のおもての特有の感触、そのにおい。足の指、土踏まずとそうでないところの境目。かかとの厚い皮膚をくすぐる芝生。

 「今なにしてんの」というLINEが入ったので「裸足で公園歩いてる」と返した。「何その奇行」と返ってきた。僕は笑った。僕は戦争に行ったのではないから、きっと大丈夫だ。小さな疎外が雪のように降り積もっていることを忘れず、それをなめてかからず、足と地面をつけていれば、きっと大丈夫だ。

まろやかな地獄

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。職場においてもできるかぎりのリモートワークが推奨されたが、ものには限度がある。「不要不急」の範囲は感染状況だけでなく政治的な要因で拡大縮小され、さらにそれを「忖度」した人々が他者を監視し、ときに私刑ともいえる行為に至る。まろやかな地獄、とわたしは思う。

 わたしの勤務先で解釈されている現在の「不要不急」度は隔日出社なら良い、というものである。根拠はとくにない。雰囲気である。まわりを見て決めている。魚の群れみたいなものだ。でも先頭の魚は見えない。

 弊社における隔日出社というのは、全社員の出社を平均で半分にするというものである。全員が隔日で出社するという意味ではない。なにしろ外向けに「隔日出社しています」と示すことのほうが大切なので、社員ひとりひとりの労働形態までは気が回らないのだろう。いち管理職のわたしの目からはそのように見える。

 そうなると当然のことながら業務量が多い社員とそうでない社員が出てくる。そうして、弊社の場合には出社する人間はリモートでも補助的に仕事するなどしているために、業務量が多い人間ほど疫病へのリスクも高いという現象が発生している。端的にいって、たいへんに不公平なのである。

 業務の不均衡、感染リスクの増大、コミュニケーション機会の低減、そしてその長期化による倦怠感。当然ながら社員の不満は溶けない雪のように降り積もる。不満がたまった人間はけんかをする。とくにオンラインでのけんかは始末が悪い。対面ならばーっと怒って「ふん」と終わるようなケースでも、文字情報で発言が残ってしまうから、延々と引用しあいながらけんかを継続することが可能なのである。

 わたしの部署でもとうとう派手なけんかが発生した。おとななのに、とわたしは思った。おとななのにけんかをするのだなあ。双方が重要な業務をになっているのだが、双方が「解決しないならこの立場を降りる」とまで言っている。これを解決するのが管理職であるわたしの仕事である。

 わたしはため息をつく。というのも、けんかをしているふたりは部署でもぶっちぎりでよく働いているメンバーだからである。疫病以前から有能な社員だったが、疫病以降はそれがいっそう加速した。非常時には常時の構造が良くも悪くも拡大するものだなあとわたしは思った。

 有能で、責任感が強く、非常時だからと無理もして、ある程度のリスクも飲み込んで、理性的な判断もしている。けんかしている二人は、そういう社員である。未熟だから喧嘩っぱやいのではない。そうでないから負荷が集中して、あるところでぶつかり、そしてキレるのだ。彼らは職能にすぐれた機械ではない。職能にすぐれた人間である。だからいつも職業上有益なばかりの存在でいることはできない。

 わたしがせつないのは、「あいつらけんかしてるねー」「おとなげないねー」みたいなノリでのんきにしている社員たちがたいして働いていないことである。彼らの業務負荷は増えておらず(任せられる仕事が少ないから)、疫病感染のリスクも相対的に少なめであり(どうしても移動しなければならない仕事を任せられる社員ではないから)、他者との調整や難しいコミュニケーション場面も発生していない。仕事ができなければ非常時の負荷も増えない。少なくともわたしたちの仕事ではそうである。

 それではのんきにしている社員たちは悪か。もちろん悪ではない。彼らは彼らにできることをしているし、常時はそれでよいのだ。期待したほどの成果が出ていなくても、責任は採用した会社の側にあり、被雇用者には労働者としての権利がある。非常時だからといって非常な働きをするように求めることはできない。少なくともわたしにはできない。できるのは「お願い」だけである。そして「お願い」を聞いてくれた特定の人に負荷がかかる。

 わたしはため息をつく。わたしはけんかしている社員のそれぞれと面談をする。自費で買ったフェイスシールドをつけて面談する。よく働いてくれているのにごく薄い手当しか出せないことを詫びる。もちろんわたしは、そんなことでものごとが解決するはずがないことを知っている。

 こんなことがいつまで続くのか知らない。仕事があるだけましだと言う人もあるだろう。感染した上で誹謗中傷された患者よりましだという人もあるだろう。そのとおりである。こんなのはまったくましな、些細なことだ。そしてあれもこれも些細だと片づけられるのは、やっぱりまろやかな地獄なのだ。

僕が正常になった日

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。そのために人々は個人的なコミュニケーションに困り、インターネット越しに話したりしていたようである。僕にはそういうのはとくに必要ないのでやらなかった。数ヶ月間くらい私的なコミュニケーションがなくても僕の精神はとくに問題を感じない。個人的な情を交換する会話は年に何度かでじゅうぶんに足りる。疫病のせいではない。もとからである。そういうのを正常でないと言う人もいるんだろうけれど。

 久しぶりに友人と会った。その友人が久しぶりなのではなく、友人という関係の人間に久しぶりに会った。なにしろ僕の友人は一桁しかいない。そのうえで疫病が流行したので、他者がいる空間での食事など一年ぶりである。僕は独居で、遠方に住む血縁者と話したいという欲求もとくにないので(仲が悪いわけではない。単に必要がないのだ)、一年間、すべての食事を黙って一人で食べた。そういうのは正常な状態でないと人は言うのだろうし、だから外出禁止が少しでも緩むといっせいに人と会おうとするんだろうけれど。

 友人はテーブルの向こうにいる。大きなテーブルである。隣のテーブルとも大きく間隔があいている。そういう場所を選んだと友人は言う。どうもありがとうと僕は言う。僕は食が細いし、満腹したらぜったいにそれ以上食べたくないし、酒は一滴も飲まない。他人に合わせて喫食するなんてぜったいにごめんである。友人は僕のそういう性質をよくわかっているから、勝手に好きなものを食べて手酌で日本酒をのんでいる。そして言う。羽鳥さん、ここしばらく、快適だったでしょう。

 僕はうなずく。僕は他人と物理的に接触することが嫌いだ。目の前の友人のような、よほど慣れた人間であれば、たとえば自動車の隣の席に座ってもそれほど不愉快ではない。世の中のほとんどの人間とはそれ以上近づきたくない。僕はそれほどまでに他者との接触や近接を嫌う。職場ではコクーン状の半個室ワークスペースを使用している。就職氷河期世代だったので何度か転職しているが、転職条件のひとつに「じゅうぶんなワークスペース」と明記している。混んだ会議室はひたすらがまんする場所だった。満員電車に乗らないためだけに相当の家賃を負担し、一時間歩いて通勤している。

 そいういうのは正常じゃないと、若い頃はとくにうるさく言われたので、ひどく努力して女性と交際したりもしたけれど、そしてそれはやってできないことではなかったけれど、そのあと「抑うつ状態」と診断された。交際していた人が嫌なのではなかった。他人との物理的接触のすべてが、僕は嫌なのだった。医者にしつこく質問されたのだけれど、僕は人を汚いと思っているのではない。自分を汚いと思っているのでもない。単に皮膚だとかそういうものと接触するのが嫌なのだ。調理のために生肉を触るのが嫌で、生きている他人の身体はもっと嫌だと、そのように感じる。生まれつきそういうたちなのだ。

 でも今、混んだ会議室はない。大量の他人がみっしり詰まった宴席もない。僕はきわめて安定し、仕事のパフォーマンスは向上した。

 友人は言う。羽鳥さん覚えてる? 私が「羽鳥さんに向かって正常じゃないって言ったやつ全員殴りに行く」って言ったときのこと。

 覚えている。僕が抑うつ状態に陥ったとき、最初に気づいたのはこの友人だった。友人は僕の性質をよく知っていた。僕と交際していた女性と親しい仲でもあった。

 正常になろうと努力した、その結果、どうも生きていかれる気がしない。そういうようなことを、僕は述べた。友人は憤怒した。そしてかばんから紙とペンを取り出し、名前を書けと僕に命じた。あなたにそう思わせた人間の名前をぜんぶ書け、ひとりひとり殴りに行くから。そう言ったのだ。

 友人は言う。でも今や世界はこのようになった。人々はモニタや、アクリル板や、ビニール・カーテンや、フェイスシールドや、そんなものをはさまないと、他人と話すことができない。なんならそのうえでマスクをつけている。みだりな物理的接触は悪事になった。ねえ、「正常」なんて、その程度のものですよ。今やあなたは「正常」であり、社会に迷惑をかけない、立派な生活態度の人なのですよ。

 僕は笑う。僕はうつむいて少しだけ笑う。僕はもうだいぶ前から「正常でなくてもよい」と思い定めて生きてきた。でもいざ自分が「正常」になってみると、やはり少しだけ、ほんの少しだけ、嬉しいように感じるのだった。