傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

恥と命令とプライドと

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。外出は通勤を含む。そのために対面を必須としない業務は大急ぎで在宅勤務に移行した。具体的にはインターネットを経由して仕事をするようになった。わたしの職場はIT系ではない。だからそうしたことが得手な人間が不得手な人間をサポートすることになる。わたしはサポートする側である。そしてその状況に、つくづく飽きている。

 全員が思いきり働いて全員が機能している組織があったら不健康だ、という話を聞いたことがある。どんなにすぐれた組織にも常時さぼっている者はあるし、能力がマッチせず機能しない者もある。そういう従業員を全員見つけ出して片っ端からくびにする組織は、いったいどうやってそれを可能にしていると思う? 想像した? ね、恐ろしいだろうーーそういう理屈だった。

 わたしはそれを聞いてなんとなし納得し、職場で誰が仕事をしていなくても、また自分が(今のところの経験では、一時的に)仕事ができていなくても、さほど腹は立たない。そういうこともある、と思う。完璧な採用はなく、組織も人も変化する。だから誰かが役に立たない状態でもあまり腹は立たない。

 しかし、いま機能していない人の機能しなさといったらもう徹底的である。もともとあまり仕事をしているようすでなかった人が可視化された上、その人たちの一部が過剰なサポートを要求するようになった。リモートワークは疫病の蔓延にともなう政府からの要請によるものである。経営層の意思でもなければリモートワーク化対応業務を担当するはめになった者の意思でもない。全員やりたくないんだけど、しかたないからやっている。でもしょっちゅう他人のサポートを要求する人は、そうは思わないらしいのだ。なんというか、お客さまなのかな? という感じである。

 いちばんすごかったせりふは、在宅勤務が始まってしばらくしてから放り投げられた「うちWi-Fi通ってないんで」というものだった。あれにはびっくりした。業務内容が限定された職種の人ではない。部署は違えど、わたしと同じ中間管理職である。

 単に「できる」というだけの理由で、同じ立場の(そして、なんならわたしより給与の多い)人間をお世話する。それが常態化しつつある。そしてお世話されている側はそれを当然視するのみならず、なんだか、とても、威張っている。まるでこの事態がわたしのせいで、それをがまんしてやっているんだ、とでもいうように。

 わたしはつくづく疲弊した。そしてある日突然気がついた。辞めちゃえばいいじゃん。

 わたしは自分の本来の仕事の経歴書を作り、それにリモートワーク移行関連業務の履歴を加えた。双方を評価する会社があって、詐欺かなと思うくらい早々に新しい職場が決まった。給与は上がり、リモートワーク移行にともなう仕事の量は制限されてぐっと減り、他の社員から手軽に使われることはないと保証された。

 辞意を表明しても上司は驚かなかった。引き留められもしなかった。上司には転職の原因になった問題をとうに相談していたからである。わたしは上司に尋ねた。あの、威張ってわたしにお世話を要求しつづけたあの人やあの人は、結局、いったい何だったのでしょう、たとえ少々のお手当をつけても、本来の業務外でああいう人たちの相手をさせると、だいたいイヤになっちゃうと思うんですけど。ものには限度があると思うんですよ。

 そうですねと上司は言った。彼らをかばう気はありません。とても困っています。でも彼らの態度の説明はつきます。彼らはね、恥じているんです。他の社員の足を引っぱっていることを恥じている。でも恥に向き合うことができない。自覚してちゃんと恥じることができない。だから威張るのです。お世話されなければ仕事ができない状態になって、そうしたら自分が下位になった気がして、それに耐えられないから、お世話する人にことさら横柄に接して、命令をしたがる。横柄な態度で命令するとプライドが回復する。そういう人はいるんです。

 わたしはびっくりした。なんだ、下位って。なんだ、プライドって。意味がわからない。

 上司は画面越しにもわかる疲れきった顔で、言った。そういう人もね、正社員なんです。すぐには切れないんです。できる人間がやめて、できない人間が残る。それを促進する愚かな判断をしている。し続けている。独裁者みたいに人の首をばんばん切れたらどんなにいいかと思います。それではさようなら。今までほんとうにありがとう。

関係は減衰する

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。家族のほかは届け出をした相手にしか対面で会うことができない。とんだ国家だが、ここよりほかの場所に行くための許諾はしばらく下りそうにない。

 他人とのかかわりを減ったことを嘆く声がたくさんある。わたしが(オンラインで)口をきく相手もそのようなことを言う。そう、とわたしは言う。わたしは、実は、そのことについては、あんまりつらくない。わたしはひとり旅を愛し、友人は少なく、職場のつきあいにも熱心ではなく、都心といえる場所の賃貸マンションに独居して地域社会に属していない。ずっとそうだった。だから疫病の流行後もわりと平気である。何週間も誰とも口をきかなくても問題を感じないたちなのだ。年末年始の旅行などは人と口をきかずに知らない場所をほっつき歩くためにしているようなものである。

 勤務先では、リモートワーク中の社員の心が暗くならないようにというはからいで、週に二回ばかり「リモート雑談」の時間がもうけられているのだけれど、それだって正直言ってべつにいらない。てきとうに参加して楽しんでいるふりをしているが、そんなのは対面でも同じことである。組織においては「あなたがたを私的な感情の面でも必要としてますよ」という顔をすると仕事がしやすい。だから芝居をしている。それだけである。

 わたしのそれほど多くない友人たちは屈託なくインターネット上のツールを使っておしゃべりを楽しんでいる。わたしもそれに誘ってもらって話している。私的な会話はそれで足りるようにも感じている。

 しかしながら、よくよく考えたらこの状態はどうしたって長引くのである。なんならこの状態を平常とする世界が生まれるかもしれない。そうなるとだいいちに旅ができないことに絶望する。わたしは基本的に悲観的なので、最悪の事態を想定する。公共交通機関の本数はすでに減少しているが、乗るために許可証が必要になったらどうしよう。ありうる。現在の状況をかんがみるに、まったくもってありうる。そしてそうなったら高速道路も閉鎖されるだろう。わたしは自家用車を持たない。レンタカー屋の人から誰何されながら冷や汗をかいて身分証明書ともっともらしい理由を並べて車を借りたりするのだろうか。

 しかし、それでもどうにかなる。わたしはそう思う。散歩は禁じられていないので、最悪でも歩いて行ける場所のすべてに行けば、十年くらい精神の均衡を保てる。道はたくさんある。靴を通信販売で買うことだけが不安である。友人にそう言うと旅行好きの考えることは極端だと言われた。旅行好きというか、放浪癖だと思う。

 かくしてわたしはこのように孤独になりがちな世界でも精神の健康を保つことに自信がある。あるのだが、一点、問題が残されていることに気づいた。人間関係には寿命があるという事実である。

 わたしの数少ない友人たちの中には、古い者もいれば新しい者もいる。私的で利害関係をともなわない親密な関係には寿命がある。季節がある。ある者は三ヶ月で、ある者は三年で、別の者は十年で、「もういいかな」と思う。そういうものである。もしも友人としての寿命がとても長かったとしても、生物として死ぬ。わたしは丈夫なので同世代の友人の誰よりも長生きすると思う。そうなると完全に孤独になる。親は両方ともすでに死んでいるし(わりと早かった)、きょうだいはいない。親戚とかそういうのにも興味がないままで生きてきた。

 完全な孤独について、わたしは考える。それはちょっと無理かもわからない、と思う。そう、わたしは非社交的であるわりに「人間関係は減衰する」という真実を知っていて、それをおそれていた。それでもって要所要所で新しい友人をつくってきた。なんというか、自分が親密になるべき相手が、こう、人混みのなかで(比喩的に)光って見えるのだ。そしてそういう相手を食事に誘うとだいたいついてくる。だから親しい相手を作るのに困ったことがない。要領が良いのである。

 しかし、今は人を食事に誘うことはできない。人混みに出ることさえできない。わたしは数少ない友人にそのことを話す。すると彼女は言う。インターネットでしょ、そこは。

 わたしはインターネットを検索する。オンライン読書会というのを見つける。わたしは目をこらす。もしかするとこれかもわからない、と思う。わたしはわたしの欲する関係を、どうにか見つけなければならない。すべての親密な関係には季節があり、寿命があり、放っておいたらわたしが口をききたい相手は誰もいなくなるのだから。

 

 

家族を分ける

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。遠方の親族に会いに行くのも「自粛」の対象である。私的なコミュニケーションの大部分がオンラインに移行し、そして、オンラインでの飲み会といった集まりの物珍しさが減衰すると、その相手を選ぶようにもなった。当然のことながら、疫病の感染リスクを取ってでも面会する相手とそうでない相手は厳しく峻別された。

 同居の家族もそのままではなかった。いまや感染リスク低下のために家庭内別居をする者も珍しくない。自室がある者はそこに籠もり、場合によってはリビングルームに衝立をめぐらせ、水回りを使う時間を分けて、使用前と使用後に消毒するのである。

 わたしの家ではそうしていない。夫と息子と一緒に生活している。わたしたちはそのことをきっちり話し合って決めた。息子はもう十歳だ。両親と手をつなぎ一緒に食事をすれば感染リスクが上がると理解している。あなたには選択肢がある、とわたしは息子に告げた。感染リスクを下げるためにお父さんかお母さんのどちらかとだけ一緒にいて、お父さんとお母さんが接触を避けるという方法がある。

 息子はそれを選ばなかった。だからわたしの家では、夫からわたしに、わたしから夫に、あるいはわたしたち夫婦から息子に、息子からわたしたち夫婦に、感染する可能性がある。わたしたちはそれをのみこんで生活している。

 わたしの親は比較的近くに住んでいる。母はスマートフォンを持っているが、どうしてもアプリで通話できないようで、よく電話をかけてくる。母の話は長い。内容は九割がた兄のことである。疫病の前からだ。母はことのほか兄を愛する。兄はいまや、母の世界の九割を占めている。

 母はわたしのこともたいへんかわいがったが、それは炊事を教えて一緒に台所に立ったり、家のインテリアについて話しあったりするといったかわいがりかただった。母はわたしと並んで髪をととのえ、わたしに自分の化粧水を使わせ、一緒に子ども服を買いに行き、何を試着してもかわいいかわいいと褒めそやした。

 兄に対してはそうではなかった。母は兄と並んで何かをすることがなかった。母は兄の世話をすることを好んだ。兄は幼いころからおそらくは今まで、自宅での食事中に立ち上がったことがない。父もそうだが、父は非常に無口なので、いるかいないかわからない。皿があくだけである。兄はもう少し主張があり、たとえば、これちょっと醤油つけたら、と言う。母はいそいそと醤油を取りに行く。

 わたしは兄のことをよく知らない。兄がわたしにマッサージをしろというような意味の持って回ったせりふを言うので断った。わたしが九歳、兄が十四歳のときである。兄は非常に驚き、それから黙った。わたしが母にそのように告げると母はあらあらと言って兄のマッサージをしに行った。

 兄はわたしを避けるようになった。わたしはもともと兄に親しみを感じていなかった。家で何もしない上、わたしの記憶があるかぎり昔から食事時以外はほとんど自室にいたからだ。少し年の離れた妹を、たぶん兄も面倒に思っていたのだろう。

 大学進学のために関西に出て、就職して東京に戻った。そのときからもう、育った家に住む気にはなれなかった。行けば母は喜んでわたしの好物を作ったりするのだけれど、自宅は母と兄のための場所としてすっかり整えられていた。それに、大人になったわたしは、母と仲良くしたいと思えなかった。わたしが思うに、母はまったく悪気なく、疑問なく、「男の人は偉い」と思っているのである。わたしはそうではなかった。そう思ったことは一度もなかった。

 兄は結婚し、自宅に妻を住まわせた。わたしも結婚した。そのあと十年以上、年に二度くらいの薄い親戚づきあいをした。ただわたしは年々、兄と母の家に行くのが億劫になった。そこは完全に「兄と母の家」であり、兄の妻はいつまでたっても住人のように見えず、父に至っては家の中にはりついた無害な影のように感じられた。

 疫病が流行したのでよぶんな人と会わない世界になった。わたしは母と会う気になれなかった。兄にも会う気になれなかった。母の長い長い電話も、ほんとうはいやなのだった。わたしはそのことに気づいた。彼らはとうにわたしの家族ではなかったのだと思った。わたしは彼らを、静かに切り離すことに決めた。感染リスクのない遠隔コミュニケーションでさえ、彼らととる必要はないように思われた。わたしはわたしの友人たちや気の合う義妹や仕事仲間とのおしゃべりを優先させたいのだった。

子育てを終える

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。

 産んでもいない子を育て上げたような気がしていた。彼らがもうずいぶんと大きくなったので、もういいやと思った。疫病が流行した、この春のことである。

 もちろんそれはわたしの子ではなく、わたしはいまだ二十代で、子どもたちは十七と十五の女の子と男の子で、わたしの弟妹である。

 わたしの母は十代でわたしを産んだ。十代の母としてはずいぶんと立派だったと思う。彼女はわたしを背負ったまま手に職をつけ、同じく手に職をつけていた若い夫であるわたしの父とともに、せいいっぱい働いた。

 彼らはわたしが十三の時に、乳幼児だった弟妹を残して死んだ。ばかだなとわたしは思った。夫婦そろってさんざっぱら働いてようよう手に入れた店で火事を出して、それで死んだ。火が出たらとっとと逃げたらいいのに、店を守ろうとしたのだと聞いた。わたしは警察に呼ばれて両親を確認した。両親を、ばかだなと思った。

 わたしは長女だったから弟妹を育てた。店は繁盛していたから別の店をやっている親戚が経営を引き受けて建て直した。お涙頂戴のお話がそこにはついていて、それは商品に箔をつけた。だからわたしはそこで働いたし、弟妹を連れて、「お手伝い」をさせた。そういうのは客に受けた。つまりカネになった。親戚からもらう、わたしたちの生活費や学費に。

 店と家はさほど遠くはなかったけれど、敷地内ではなかった。幼年の者には永遠に思われるほどの隔たりが、そこにはあった。

 父と母は愛だかなんだかを信じて子をごろごろ産み、この世を生きるためのこまかいきまりを知らなかった。彼らは善良ではあった。善良ではあったけれど、長女のわたしが子どものくせに異様に的確に弟妹の面倒を見ていることを問題視するほどのよぶんな知識はなかった。彼らはただ仕事帰りや寝起きの時間にわたしを猫かわいがりし、お姉ちゃんは良い子だねえお姉ちゃんもまだ甘えたいのだろうにねえごめんねごめんねありがとうねえと言った。

 ごくたまの休日には、べっとりと隈をはりつけた顔でからだを引きずり起こし、お姉ちゃんとお父さんだけでお出かけをしよう、と言った。お姉ちゃんとお母さんだけでね、みんなには内緒よ、と言った。父は、あるいは母は、わたしの手を引き、銀座やら上野やらに出て、些細な娯楽を提供した。わたしはそのときの写真を、今でも何枚か、捨てずにとってある。両親はそうしてほどなく、ふたりして死んだ。

 わたしは彼らを、嫌いではなかった。でもわたしは彼らがわたしたちにそうしたように(たとえば弟妹に)絶対の愛を手向けることもできなかった。だって、両親は、死んだじゃないか。きれいな死体さえ残してくれなかったじゃないか。

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。不要不急の外出が禁じられた。潰れる、とわたしは思った。両親が遺した店はきっと潰れる。あんな、ちいさな店、あっというまになくなる。

 幸いにも弟妹は高校生である。わたしの子育てはほとんど終わったようなものだ。わたしは彼らを呼び、店を閉める、と宣言した。彼らはふたりしてもっともらしい不服を述べた。わたしは笑った。健全な高校生の、まっとうな被保護者の、子ども時代をしっかり過ごして育った弟妹の、感傷的な不服。

 わたしは弟妹に言う。そうしたら、おとうさんとおかあさんのお店は、あなたたちにあげよう。お姉ちゃんは、もう、無理なの。お姉ちゃん、もう、あなたがたの保護者も、お父さんとお母さんのお店の仕事も、できなくなっちゃった。なんでかっていうとね、お姉ちゃんは、ほんとは、お父さんのこともお母さんのことも、だいっきらいだからだよ。

 わたしは店舗の受けうるかぎりの休業補償を申請する。親戚連中にカネを渡す。弟妹が商売をする上で力になってくれそうな人たちに頭を下げてまわる。

 疫病が流行しているので、小さな商店の先行きはみな暗い。だからわたしのしたことは基本的に無意味だ。

 わたしは弟妹が高校を出るまでの生活費として溜め込んだ預金通帳を金庫に入れ、その使いかたを弟妹に宛てた手紙に記す。自分の荷物をまとめる。父がわたしを山に連れて行ったときに使ったバックパックにみんな入るので可笑しかった。わたしはわたしの人生において、それだけのものしか、ついに持つことがなかったのだ。

 わたしはバックパックを背負って東京を出る。その先のことは考えていない。次の駅で警察に止められるかもしれない。「不要不急の外出」をしてはならないから。わたしはそのことを想像する。そうして少し愉快になって、笑う。

わたしがどこへも行けなくても

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。ほどなく私用の海外旅行や、まして移住は、事実上不可能になった。

 わたしは休みの日には女の格好をしていた。いつかそういう格好で職場に行きたかった。そういう格好のまま彼氏を見つけて腕を組んで歩きたかった。そのために英語とスペイン語とフランス語を話せるようになった。大学ではグローバルに必要とされるというITと統計とAIの原理とその社会的応用について学び、いかにもすぐに役に立ちそうなスキルをいくつか身につけて、そうして就職して、少しのあいだつとめた。

 でももうそんなのはもはや意味のないことだ。疫病が流行したので、どれほど勉強したって、わたしが海外に出ることはできない。苦労して取った性別不問の外資の転職の内定は疫病の世界的な流行によってあっけなく取り消された。

 わたしは男である。男のからだをしている。そのことに異論はない。このからだを変えたいと思わない。けれどもわたしは、このからだのままで、女のような格好をすると、しっくりくる。男のような格好をするのは苦痛である。学生時代まではボーイッシュな女の子のような格好をして、それでだいたい通っていた。一人称だって「わたし」でかまわなかった。あれこれ言う連中は無視した。職場ではスーツを着て、でも、パンツスーツを着なければならない職場でも、どうにかがまんできないのではなかった。

 けれどもわたしの実家はそのようではなかった。父はわたしから目をそらして口をきかず、母は父の内心を代弁するかのようにわたしの目を見てため息をつき、それから目をそらした。法事に出ると親戚はわたしのまわりに座らなかった。きょうだいはしかたなさそうにその空席を埋めた。しかし彼らとて、思春期以降、わたしとまともに話をしたことはない。わたしには兄と妹がいた。兄と妹は仲が良くて、わたしだけが彼らから遠かった。

 兄が結婚するというので、わたしはおめでとうと言った。そうして彼を安心させるために、ちゃんとメンズのスーツを着るからね、と言った。髪もちゃんとそれらしくするから。兄はわたしの目を見ずに自室にひっこんだ。父も背を向けた。母がしかたなさそうに、あのね、と言った。おにいちゃんの、結婚式、ね、あんた、ね、来てもつらいでしょ、悪いと思ってね、だから。ね。

 わたしはお呼びでないのだった。わたしだけを除いた家族全員がすでに兄の配偶者になる人と「身内の顔合わせ」を済ませていた。わたしははずかしかった。彼らがわたしを「外に出せないもの」として扱っていたと、大学を出て就職するまで気づかなかったことを。わたしがとうに、彼らの「家」のメンバーではないことを。

 わたしは生まれつき細身で、背丈は少しあるけれど、男としては骨格も細くて、だから女性向けの服のLサイズをきれいに着こなすことができる。そんなのは若いからだと、女の服を着るほかの男たちは言うけれど、わたしは気にしなかった。わたしは、サイズが変わったとしても、中身はきっと変わらない。女もののXLでも何Lでも着るつもりだ。

 わたしは女になりたいのではない。わたしは戸籍上男性に分類されるこのからだを、ひとつも嫌だと思わない。そうして同時に、女向けとされる格好をしたい。恋をする相手はほぼ男性だった。それだけである。それだけのことが、わたしの人生を困難にした。わたしはわたしの、今のからだのままで、好きな格好をして、好きな人と恋人になりたかった。たとえば外国に行けば、それができると思っていた。

 でもそれはもう不可能なのだ。疫病が流行したので私用の海外旅行はできない。移住なんてもってのほかである。

 わたしは思い立って、ボーイッシュでない、ゴリゴリの女性装をする。悪くないと思う。わたしの髪はふっくら整えた前髪つきの、ヘアアイロンで毛先を波打たせた豪華なショートボブである。繊細なレースのニットをV字にあけた平たい胸(わたしは胸を盛り上げたいという欲求を持ったことがない)、あっけない腰にまとわりつく光沢のプリーツスカート、流行のブランドのアイテムを厳選したカラーレスのアイメイクとチーク、下向きにととのえた長い睫、赤いリップ。わたしっぽいと思う。わたしはその格好で何枚か自撮りする。フィルターは使わない。おすましした顔の写真をFacebookのプロフィールに使う。破顔した写真をLINEのアイコンに使う。

 わたしはきっと、どこへも行けない。けれどもわたしは、ひとりで死ぬまで、このままでいよう。

オホーツクに行く

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。渡航するべきでない国がひとつひとつ指定され、ほどなく私用の海外旅行は事実上不可能になった。職業上の理由による渡航も大幅に制限された。要か不要か判断しにくい渡航をした者は見つかり次第インターネット上で激しい非難にさらされ、勤務先の電話が鳴り続ける、そういう世の中になった。

 僕は外国に行くのが好きで、だからときどき外国での職務があってうれしかった。たとえ短期の滞在でも、私的な時間がほとんどなくても、知らない町を歩いているだけで僕は簡単に幸せになることができた。ほんの少し前のことなのに、今となっては昔話である。

 恐慌は当然のようにやってきた。そりゃそうだ。疫病で外出が制限されたら経済は停滞する。買い物だってそんなにしなくなる。僕の会社にもじわりじわりとその影は落ちた。僕らの仕事はゆっくりとその足を止め、うずくまった。リモートワークの作業の量はしだいに減った。自分たちの会社だけが沈んでいったなら、死にものぐるいで戦っただろう。でもそうじゃなかった。世界中の多くの企業がゆっくりゆっくり沈んでいくのだ。

 それは僕らに奇妙な平穏をもたらした。だって、しかたがないからだ。僕らはもしかすると、少し安堵しているのかもしれなかった。自分たちだけが敗北し沈没するのではないことに。「しかたがない」ということ、それ自体に。とうとう役職のない社員全員に特別な休暇が付与され、交代で長期の休みを取ることになった。もちろん自主退職は歓迎される。僕らの船は沈むのだ。そして沈まない船はおそらくはないのだ。

 僕の上司は、たいへん面倒見の良い、しかしミスや手抜きを激しく憎む、きわめて有能かつ心の狭い人物である。私物を引き取るために久しぶりにオフィスに行くと、上司は自分のデスクで厚い本を読んでいた。そうしてしばらく僕が荷造りしていることに気づかなかった。

 ああ、と上司は言った。休暇を楽しんできます、と僕は言った。上司はうっそりとほほえみ、楽しんでください、どこへ行くの、と尋ねた。オホーツクですと僕はこたえた。僕は高校生のときオホーツクに行き損ねて、だからいま行こうと思うのである。

 たいした根拠なしに進路を決めちゃった人、けっこういると思う。僕もそうだった。海の生物が好きだったから、大学を選ぶとき、そういう学部も受けたんだけど、合格したのがオホーツク海のほとりにある研究所つきのキャンパスだった。十八歳の僕はそこで珍妙な海の生きもののことばかり考えて生活する自分を想像した。悪くないように思われた。暑いのは嫌いで、寒いのはわりと平気だし。

 でも僕は都心のキャンパスの、より汎用的な学部に進学した。そして楽しい青春を過ごし、順当に就職した。悪くなかったと思う。悪くなかったとは思うけど、悪かろうが悪くなかろうが、いま、僕らの船は沈むのだ。

 だからオホーツクに行く、と上司は言った。だからオホーツクに行きます、と僕は言った。いいねと上司は言った。なにを読んでいらっしゃるのですかと僕は尋ねた。上司は僕の知らない単語を口にしてから(ウェルベ? とかなんとか)、フランス文学、と言いなおした。そういう勉強をなさっていたのでしょうかと訊くと、ぜんぜん、とこたえて笑った。小説はただの趣味だよ、きみの真似をするなら、行くべきところはインドかな、学部生のとき、大学院進学をちょっと考えたんだけど、そしたらインドの田舎で二年フィールドワークをやれって指導教官に言われて、やめたんだ、インドの村に二年いる度胸はなかった。

 でも、と上司は言った。フランスでもインドでも変わらない。どれももう空想の国だ。行くことができないんだから。そこいくときみはいい。人生の中で置き去りにしてきた選択肢が、いま東京から行けるもっとも遠いところのひとつにある。

 僕は電車に乗る。かろうじてまだ動いている、間引きされた長距離電車に乗る。帰れなくなったときのことを考えろと言って責める人がいるから、友人知人には旅行に出ると言わない。個人情報と顔写真つきでインターネットに流され「無責任」で「不謹慎」な人間だと糾弾されるから、言わない。そう思っていたのに、「どこへ行くの」という軽いせりふがあまりになつかしくて、親しくもない上司に言ってしまった。

 まあいいやと僕は思う。インターネットなんかもうどうでもいいやと思う。不要不急の集まりを慎む世界におけるコミュニケーションの命綱になったインターネットを、もういらないかなと思う。寒い寒いところで、珍しい生き物を見たいと思う。

お知らせ

 近ごろの注文原稿についてお知らせします。

 文藝春秋『文學界』2020年2月号に書評を書きました。吉田修一『逃亡小説集』について。紙媒体のみです。昨年に河出書房新社『文藝』に書いたエリザベス・ストラウト『何があってもおかしくない』の書評はWebで読めます。

 現在、インターネットラジオ放送局『まちだ大學ラジオ放送局』でドラマの脚本を担当しています。隔月連載。最新作は「テーブルの上の心臓」、主演は佐々木心音さん。

 一昨年から昨年まで短編を連載したWebメディア『フミナーズ』がなくなったため、掲載先が移りました。こちらでまとめて読めます。