傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

無意味さを飼い慣らす

 彼のことは左利きだと思っていた。同じ部署ではないが、私よりひとまわり以上年長の、社歴の長い人なので、私が先だって管理職に就いてからはいくらか接点がある。ペンも箸も左手で持っていた。だから左利きなのだと思っていた。

 今日の会議で彼がちょっと複雑な説明をはじめ、立ち上がって「じゃあホワイトボードに書きます」と言った。そしてすらすらと図解した。図がうまいなあと思って、それから、あ、と口に出してしまった。彼は右手で図を画いている。

 会議が終わったあと部屋を出ると後ろから彼が出てきて、言う。さっき、あ、って言いましたね、あ、って。マキノさんって思ってることだいたい顔とか声とかに出ますよね、僕は嫌いじゃないですが。

 失礼しましたと私は言う。どうということはないんです。ただ、左利きでいらっしゃるものと思っていたので。彼は笑って、右利きですとこたえた。

 マキノさんはたしか四十かそこらですよね、それならもう気づいているんじゃないかと思うのですが、人生にはどうしようもなく退屈というものがついてまわります。背中にぺったりとはりついたもうひとつの影のように。

 若いころはその影を、ときどきしか感じることがない。あるいはうまくごまかすことができる。若ければ無知で、経験が少なくて、何か新しいことをすれば退屈を感じなくてすむからです。なかには退屈そのものをべたべた触ってみっちり体験する人もいます。僕の友人で美大に行ったやつは留年して六年くらい延々とそれをやっていました。芸術家だとか、そういう人種の中には、そうやって退屈を、言ってしまえば人生の無意味さを、真っ向から取り上げようとする者もある。

 でも僕は芸術家じゃない。ホワイトボードに書いた図がよかったですか。どうもありがとう。でも僕は小器用なだけで、そういう能力で食う気もなかった。会社員としてうまくやっていけると思ったし、実際、このまま定年までそれなりにやっていけます。たぶんね。

 ええ、退屈です。マキノさん、その顔は、さてはもう、知っている人だな。そう、人間は、中年になると、最終的に自分を殺すのは退屈だと気づく。あのね、僕の息子、去年就職したばかりなんだけど、なかなか気の利いた男でね、初任給で僕と妻にプレゼントをくれたんですよ。小旅行のチケットです。普通の旅行券じゃなくて、二人で何かちょっと珍しいことを体験するメニューを選んで行くっていう商品です。ええ、親孝行でしょう。

 でも僕はそれを見て思い出してしまったんだ。だってそのメニューの多くを、僕はすでに体験していたんだ。乗馬だとか、パラグライダーだとか、ワイナリー体験だとか、着物を着るだとか、そういうやつです。もっと変わったものもあった。ええ、僕だって、もちろんぜんぶやったことがあったわけじゃなかった。妻は喜んで選んで、僕も楽しみました。

 でも僕は思い出してしまったんだ。そして思い出したことはなしにはならない。息子が就職して、子育てという最大のイベントが完膚なきまでに過ぎ去った。僕の人生にはもう、退屈から目をそむける要素がひとつも残っていない。ええ、幸福な生活です。そしてできあがった穏やかな生活というのはね、マキノさん、きっとおわかりになるでしょうが、人生にべったりとはりついた無意味さをいやでも直視させられる生活でもあるんです。人生にもう新しいことは起こらないだという宣告をずっと受け続ける生活。

 だからといってメランコリックを手玉に取って芸術の主体になることもできない。僕にはその才能がなかった。今の僕が持っているのはこの、ちょっとガタがきた身体ひとつです。

 それで右利きなのに左手で生活をしはじめたんですか。私が尋ねると、彼はうなずいた。そこで筋トレとかじゃないのが、なんか、いいですね。そのように感想を述べると彼は声を出して笑って、言った。

 いやいや、筋トレでもいいですよ、結構結構。ただ僕はもう、やっちゃったんですよ、あなたくらいの年齢で。それに筋トレは役に立ちますよ、だからこの場合「弱い」んだ。僕はもっと無意味さに対抗できることをやりたかった。それで左手を使いはじめた。左手で文字を書くのはものすごく難しい。箸なんか苦行です。ええ、なかなかいいですよ。もしも人生の無意味さを飼い慣らすメニューを増やしたかったら、一度おやりになったらいい。

 でも今日は突然のホワイトボードだったから、つい右手で書いちゃったなあ、だめだなあ、まだまだ訓練が足りないなあ。彼はそう言いながら、左手でドアをあけた。