傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

生存税の納入

 差し歯がそろそろ限界です、と歯科医が言う。歯科衛生士がうなずく。わたしは彼らの説明を聞く。今の歯はどれくらい入れていますか、と歯科医が尋ねる。わたしは指折り数えてこたえる。八年もちました。いい子ですねと歯科衛生士が言い、孝行です、と歯科医が同調する。

 わたしの上顎のにっこり笑って見える歯はみんな作りものである。原因は家庭内の暴力だが、わたしは純粋な被害者ではない。いわゆる暴力の連鎖というやつで、わたしは加害を防ぐために人間を椅子で殴り、別の人間がわたしの顔面を壁にたたきつけた。あれから二十年が経過したが、いまだにたぶん全員自分が正しいと思っている。正当なことをした、しかたがなかった、そう思っている。生まれた家の自分のほかの人間には十代のころから会っていないから実際はどうだか知らないが、賭けてもいい。誰も反省していない。わたしも反省していない。誰も懲りない。わたしが生まれた家は、そういう場所だった。

 叩き折られた部分以外にも、ほぼ全歯にダメージが及んでいる。たとえば打撃の衝撃で歯の根が曲がっている。あるいは乳歯の段階からケアされていなかったために成人以降に治療した跡が異常に多くあり、定期的なメンテナンスを必要とする。叩き折られるのはレアだが、自分で稼ぐようになってから歯を大量に直すのは「虐待家庭出身者あるある」である。

 世界は暴力にあふれている。見えない人には見えない。でも当事者には見える。物理的な暴力もあれば、そうでない暴力もある。わたしたちはたがいのからだにしみついた暴力のにおいをかぎあてるかのように、人生のさまざまな時期に接近しあう。暴力を経験した人間にはつきあにくい性格の者も多いから(とくに若いころは高確率で情緒不安定である)、わたしは彼らと親しくならないことも多い。多いが、あとからその行く末を聞くことは少なくない。

 わたしの知る彼らの多くは若くして死んだ。はっきりした自殺は二件のみである。いちばん多いのは「限りなく自殺に近い事故」だ。たとえばアルコールを使いながら愉快に過ごして死ぬ確率をどんどん上げて、そしてある日、アタリを引く。そういうやつ。だいたい三十にならないうちに死ぬ。

 わたしはそれをしなかった。わたしは生きていたかった。だから現在は第一志望の未来、よかったですね、という状況なのだが、しかし、生き残るとカネと手間がかかってかなわない。これはたぶん中年サバイバーの多くが肯定してくれると思うんだけど、暴力のある家庭に生まれた人間が生き残った場合、けっこうな額の「税金」を生涯にわたって支払わなければならない。たとえばわたしは引っ越し先を探すたびに「緊急連絡先はいくらなんでもご親族でないと」と言われる。そこをクリアするために手間暇とカネがかかる。保証人の代わりに保証会社が使えるのはありがたいが、彼らに毎月カネを払っている。しじゅう歯医者に通い、数年に一度は前歯の取り替えのために大きな出費をする。

 それほど暴力的でない環境で育った友人たちは「そういう負担は不当なことなんだから、税金とか言っちゃだめだよ」と言う。でもわたしはそうは思わない。払ったほうが気が楽だからだ。わたしは「税金」を払ったほうが落ち着くのだ。どうして自分が生き残ってよかったのか、わからないからである。

 死んだ人間の中にはわたしよりずっと気の毒な人もいた。わたしより純粋な被害者、つまり(たとえば)殴られて殴り返さなかった人間もいた。わたしより有能な人も、わたしより高潔な人も、わたしより若い人も、いた。わたしは生きたかったし、だから生きたし、長生きする予定だが、しかし、同時にこうも思うのだ。どうしてわたしは死ななくていいのか?

 健全な環境で育った友人たちは「どうして彼らが死ななくてはならなかったのか、とは考えられないの?」とわたしに尋ねる。友人たちの言いたいことがわからないのではない。でもわたし自身にその思考をインストールすることはできない。OSが合わない。そして友人たちもまた、わたしの問いにこたえることはできない。どうしてわたしは死ななくていいのか?

 わたしは歯科医院の椅子に腰掛けている。椅子の背がゆったりと倒れる。近ごろは痛いことを痛いと感じるようになって、「支払い」が増えた。以前は前歯が折れてもたいして痛くはなかったのだ。

 生き残った人間は毎日、毎月、毎年、生存税を払う。わたしはそれを、嫌いではない。