傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

僕らは世界をハックする 二人目

 シンガポールのオフィスははじめからすぐにたたむつもりだったから一年間使い切りの契約にしていた。学生時代のやんちゃが思ったより早く飛び火したので海外にまで出るはめになった。正直なところ、計算違いをした。

 個人で使うカネなんかたかが知れている。俺ははじめから大それた資産は望んでいなかった。そんなに野心的なたちじゃないんだ。大富豪になりたいんじゃなかった。巨大な権力(カネは一定量を超えると権力になる)は巨大な責任を生じさせる。俺はそんなものはほしくなかった。

 ほどよくアッパーで、ちょうどいい余裕があって、人よりも優雅だけれど、抜きん出すぎて孤独になることなく、上等な連中とつるんでいられること。そして誰も知らない資産を持っていること。それが俺の好みだった。どうして誰も知らない資産が必要かというと、不安や不確定要素を抱えているとQOLをそこなうので、一般人の範疇で人のうらやむ暮らしをしながら社会の変動にそなえるためだ。そう、俺は根っからの小物、ただし優秀な小物なのだ。

 最初は、ただのゲームめいたベンチャー経営だった。でも俺のアイデアはあきらかにそれ以上の利益をもたらすものだった。ただしそれは長期的なビジネスではなく、短期的な荒稼ぎだった。そして確実に世間の非難を浴びるものだった。非難はごめんだ。俺の人生には必要ない。

 俺は「相棒」を探した。つまり犠牲者を。俺に全幅の信頼を置いて危ない橋を渡り、どんな方法を用いても漉せなかった泥を最終的にすべてかぶってくれる相手を。

 同級生に適任者がいた。あらかじめ彼の好みを調べてから近づくと彼はあっという間に俺になついた。犬みたいに。彼はものすごくプライドが高く、たかが東大に入ったくらいで鼻高々になるほど世間知らずで、自分はもっと評価されるべきだと感じていた。特別扱いしてくれ。特別扱いしてくれ。そういう声が全身から漏れているような男だった。

 そして彼には友人がいなかった。まわりにいつも人がいるように振る舞っていたけれど、それは単に何らかの手続きをして複数のコミュニティに属しているというだけの話で、友人がいるのではなかった。彼はそのことをどこかで自覚しているようにも見えた。彼女という名称の女ができてもそれは単に自分のスペックでどこかのスペック好きを引っぱってきているのであって、なんていうか、物々交換みたいなものだった。

 こういう情愛に恵まれない男は「友情」にハマる。俺はそう予感した。そしてその三年後、予感は確信に変わった。日本で受託した仕事の結果、元請けが新聞沙汰になって自分たちの会社をあわてて畳むに至ったというのに、彼は俺をつゆほども疑っていない。書面上、人から非難されるような仕事の元締めは自分だけになっている、そのことにまったく気づいていない。この先に追徴課税を要求されるのが自分だけだと気づいていない。シンガポールのオフィスでする仕事なんか存在しないことに気づいていない。

 書類だけ見れば、俺は大学生の一時期ダークな同級生と連絡をとりあったことのあるクリーンな青年にすぎない。彼とのビジネスもアルバイト程度しかしていない。別のベンチャーを経営していたことになっている。シンガポールにも移住していない。観光旅行で来てすぐに帰る、そういう身分である。

 この世のしくみに愚直にしたがうのは奴隷のすることだ。しかしそれを破壊しようとするのは愚か者のすることだ。技術系の連中の言う「ハック」ということばが、俺は嫌いじゃなかった。素敵に滑稽だからだ。要するに「ちょっとした裏道を見つけてこずるくやろうぜ」ってことだろ? わかるよ、俺もそういうの好きだよ。

 そういうわけで俺は三月のうちに「観光旅行」を終えて日本に戻る。日本には尊敬すべき両親、かわいい妹、大切な恋人、そして多くの友人たちが俺の帰りを待っている。三月三十一日までの俺の肩書きは修士課程の大学院生、四月一日からは大企業の新入社員である。ただの新入社員ではない。俺の犠牲になった「相棒」が絡んでいない、隅から隅までクリーンな学生ベンチャーでの実績をひっさげた期待の新人だ。ただでさえ裕福な側の人間なのに、両親も恋人も知らない隠し財産をたっぷり抱え、そして二十四歳の若さ。

 なあ、こういう状態を「ハックした」というんだろ。俺は何も法をおかしていないし、誰のことも騙していない。泥をかぶってくれる「相棒」? ああ、あいつは勝手に勘違いしたんだよ。俺が騙したんじゃない。だって、証拠なんかひとつもないんだぜ。