傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

学歴ロンダリング成功したんですね

 あ、じゃあ学歴ロンダリング成功したんすね。

 誰かが私の背後でそう言った。その発言の直後、聞き覚えのある声がこたえた。は? ロンダリング? それって不正なカネの洗浄を指すことばですよね? わたしが不正な学歴を洗浄したとでも?

 振り返ると聞き覚えのある声の主は私の顔見知りの他部署の後輩なのだった。私の勤務先では昼休みの時間は比較的フレキシブルで、「だいたい十二時から二時くらいの間に一時間とってね」という感じなのだけれど、そのどまんなかの十三時に社員食堂に行くと、たいてい知っている人がいる。

 すげえ、と私は思った。「学歴ロンダリング」という物言いもなんだかすごいが、言い返した後輩のせりふはもっとすごい。よくもまあ咄嗟にそこまで言えるものである。口調もいい。「おまえはばかか」とゴシック体で書かれているみたいな完璧な軽蔑のトーンで、ほとんど平坦ながら声はきれいに通り、役者がせりふを読んだようだった。わたしは野次馬根性を全開にして振り返った姿勢のまま彼らを見ていた。後輩が言い返した相手はよくわからないことを言いながら食べかけの皿を持っていなくなった。

 マキノさん、と後輩が言った。すごくいい笑顔ですね。マキノさんってほんと他人のけんかが好きですよね。基本的に下世話なんですよね。こっち来ますか。

 私はその誘いに乗り、食事の盆を持って移動した。あの人、知り合いなの、と訊くと、いえ、よく知らないですけど、なぜかわたしの出身校を知ってたみたいで、話しかけてきたんで、こたえただけです。後輩はそのように言い、それから、かつ丼をむっしゃむっしゃ食べた。いい食べっぷりだねえと言うと箸を止め、若いんで、とこたえ、またかつ丼に戻った。

 はっきりものを言う女性だということは知っていたが、あれだけの言い返し能力があるとは思わなかった。私はそのことを褒めた。けんかは最初の一発が肝心なんだよ、さっきのは実によかった、ほんとうにすばらしい。ところで学歴ロンダリングってなんだい。

 後輩はたっぷり十秒かけてかつ丼の最後の一切れを飲みくだし、それから言った。マキノさんはものを知らないですね。そうなんだよと私はこたえた。後輩は背筋をぴんと伸ばして食堂の安っぽい茶碗を胸の前にかかげるように持ち、そのままの姿勢で説明をはじめた。

 あのね、わたし、北海道出身で、北海道大学に行って、そのあと京都大学修士を出たんです。さっきの人が学歴を聞いてきたから、そのとおりにこたえたんです。で、そういうのを一部の人は「学歴ロンダリング」って呼ぶんです。そういう俗語があるんです。わたし、就職してそのせりふ言われるの、今日で二回目なんで、言い返すシミュレーションが済んでたんですよ。初回のときなにも言えなくて、くやしかったんで。二度目はねえぞと思って。

 なるほどねえ、と私はこたえた。さっきの人は京都大学北海道大学よりえらいと思っているから、そういう失礼な言い方をするんだね。そうですと彼女はこたえる。入試用の偏差値でしか学校を見ることができないんです。つまり、あんまりものを考えていないんです。

 ねえ、マキノさん、わたしは思うんですけど、いい年して「偏差値が高い学校が偉い」と思いこんで、人の母校を「ロンダリングした」なんて言う連中はね、たぶん、ものを考えるのが好きじゃないですよ。もの考えてたらそういうせりふはぜったい出てこないですよ。彼らの内面って、ヤンキー的な反知性主義に近いとわたしは思うんですよ。いっけん逆ですけど、十五だか十八だかのときに入学試験の便宜のためだけにつけた数字をやたら広範囲に適用しようとする姿勢は一緒じゃないですか。

 なるほど、と私は言う。つまり、考えていないという意味で。

 そう、と彼女は言う。入学試験のための便宜的な数値を大人になっても延々と使い続けてるのはいっしょじゃないですか。その数値を低く算出されて対象を憎めば「勉強ができるからってなんだ」「大学なんかろくなもんじゃない」という反知性主義。その数値を高く算出されて、高く算出されたという事実をアイデンティティに組み込み続けないと自我が保たないのがさっきみたいな人。そういう人間が、人の出た学校を「ロンダリング」とか言う。

 彼女はお茶をのむ。そして宣言する。だいたいねえ、地元じゃ北大より偉い学校とか、存在しませんよ。北の大地に来たら、あいつ袋だたきにあいますよ。いもの袋に入れて道ばたに捨ててやる。