傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

JR両国駅前24時30分の和平

 わたしはあたたかいラーメンを待っていた。両国には商業施設もあるが、お隣の錦糸町よりは繁華でない。終電近くの時間帯に駅前のラーメン屋に入るのはだいたい帰途にある住民である。そんなだから、見知らぬ者同士ながら、店の中には何となく連帯感が漂っている。わたしの隣の席の白髪の男性はラーメンに半チャーハンをつけてむっしゃむっしゃ食べている。斜め向かいの青年はビールだけを飲んでいる。ほどなくわたしのラーメンが来た。わたしの丼を置いた女性店員はそのまま別の客の会計に行った。

 おい、どうしてくれんだよ。

 会計をしていたスーツ姿の男性が怒鳴った。おまえこれどうすんだよ、ぼったくりじゃねえかよ、え? ああ? おまえどう責任とんだよ、え? 俺の日本語わかってんの? おまえみたいなのに日本のカネさわる資格なんかねーんだよ、てめえ、店員呼んでこい、店員、てめえじゃ話になんねーの、ちゃんとした人間の店員呼べよ、ワカリマスーカー? 

 東京の下町はたいへん治安がよい。たまに酔っ払いがそこらへんに落ちてる。したがってわれわれ地域住民は酔っ払いへの対応をよく知っている。店内を視線が行き交う。怒鳴られている女性店員は日本語名の名札をつけているが、おそらく海外の出身である。

 カウンターの反対側にいた中年女性が怒鳴っていた男性の前に立った。彼女は男性が怒鳴り始めてすぐ移動し、男性の斜め後ろに陣取って男性を見ていた。財布を手にしてにこにこしている。いい笑顔である。怒鳴っていた男性はややトーンダウンし、てめえ、何、みてんだよ、と言った。お会計まちでーす、と中年女性は言った。

 人間のうち鬱屈を抱えた者のさらに一部は、酔っ払うと人にからむ。からむ内容はだいたい普段から腹に据えかねていることである。このスーツ男性はおそらく外国人が嫌いなのである。でもいくら酔っていても、「自分には不当なところがある」という意識があれば、人目を意識した段階で矛をおさめる。だからこの中年女性が会計にかこつけて「見ているぞ」というパフォーマンスをやったのは正しい。

 男性の店長がさっと出てきて、怒鳴られていた女性店員を背後に下げる。店長も案の定酔っ払いの取り扱いに慣れており、威圧的な口調の男性に対して卑屈にならず上手に状況を聞き取って、きっぱりと「警察を呼びましょう」と宣言した。

 スーツ姿の男性が店長に迫った。するとカウンターでビールを飲んでいた青年が絶妙なタイミングで野卑な声を放った。おっさん、うっせえんだよ、さっきからよお、やんのかよ。

 店長に暴力を振るったらスーツ男性は傷害罪になりかねない。「やんのかよ」と怒鳴った青年はだから、店長だけでなく、スーツ男性をも助けたのである。青年はいかにもガラの悪そうな格好でオラオラした空気感を出している。目がぜんぜん怒っていない。完全にわかっていてやっている。

 普通の酔っ払いならこのくらいの介入があれば捨て台詞を吐いてラーメン代おいて帰る。しかしスーツの男性は血走った目でスマートフォンを取り出し、みずから110番した。どうやら通報される側ではなく、通報する側に回ろうとしたらしい。最寄りの交番や警察署じゃなくて110番にかけたらよけいおおごとになるのに。

 スーツの男性はレジの前から動かない。わたしはラーメンを食べ終える。怒鳴られていた店員が回ってきたので、大きな声で「ビールをください」と言う。さっきオラオラ感を出していた青年も「ビール、おかわり」と言う。「ことがおさまるまで、自分たち、ここにいますんで」という宣言である。最初にレジ前でファインプレーをやった中年女性はパフォーマンスの都合上お会計して帰ったので、残りはわたし、隣の席の白髪の男性、そしてオラオラ青年である。

 警察がやってくる。さすが110番、たかが酔っ払いひとりに警察官四人体制である。二名が酔っ払いを連れて店の外に出る。店長がそれについていく。よろしければ、と警察官がわたしたち客に向き直る。わたしは外の酔っ払いに聞こえるよう、大きな声で言う。はい、わたし、証言します。隣の白髪の男性も言う。ああ、わたしも証言するよ。

 わたしたちは酔っ払いがレジ前でごねてヘイトスピーチを展開したこと、物理的暴力には至らなかったことを説明した。あとは警察の仕事である。白髪の男性が店員に会計をたのみ、それから英語で「もしかしてミャンマーのご出身か」と尋ねる。女性が頷き、ふたりはわたしの知らないことば(たぶんミャンマー語)で楽しげに話す。わたしもお会計をして、ごちそうさまでした、と日本語で言う。