傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

脆弱とマヨネーズ

 世の中にいるのはみんないい人だと思っていた。僕は二十七歳で、パリ近郊の鉄道駅にいて、一文無しになったところだった。

 会社が海外でMBAを取らせてくれるというからフランスに行くことにした。ラッキー、と思った。学校では主に英語を使うけれど、現地語もできなくちゃいけない。ぜんぜん休めなくて、「ちょっとこれはまずいかもしれないな」と思ったところで大学の休業期間に入った。バックパックを背負って周辺をくるりと回って、住処の近くのターミナル駅まで戻った。そんなに長くフランスに住んだわけでもないのに、早くもホーム感があった。部屋に帰ったら、すごくだらしない格好で寝そべって、何ひとつしないで眠りこんでやろう、と思った。

 おい、あんた、コートがえらいことになってるぞ。声をかけられて自分の背中を見た。もちろん見えない。声をかけてきた男は斜め上から僕の背中をのぞきこみ(僕だって小さくはないけど、彼はアフリカ系で、身長が二メートル近くあった)、マヨネーズかなんかじゃないか、と言った。コートを脱いで見るとたしかにマヨネーズがめちゃくちゃついていた。なんだこれは。

 どうもありがとうと言おうとするともう彼はいなかった。僕のバックパックもなかった。その中の新しいノートパソコンも、背伸びして買ったハイブランドの財布も、その中のいくらかの現金も、クレジットカードも。

 というわけで、泥棒に遭ったんだ。なかなか知的なやり方だ。殴られなくてなによりだった。とりあえず警察に行ったけど結局大使館に行かなくちゃいけないんだ。そう話すと、現金を持って助けに来てくれた友人があきれかえって言った。そんな手口を信じたらいけない。電車で旅行してて背中にマヨネーズがつくなんておかしいだろう。

 まったくそのとおりだねえと言って僕が笑うと友人はすこし黙って、おまえはそのおためごかしをそろそろ捨てたほうがいい、と言った。僕はこの友人のことをよくは知らない。フランス語のクラスで仲良くなっただけなのだ。海外で日本人に囲まれていたらなんの勉強にもならないけど、ひとりくらい日本人の友だちがいないとやっていけない。最初はそういう動機で話しかけた。専攻もバックグラウンドもちがう。彼は僕より経済的に余裕がなく(公費留学生でアルバイト禁止なのだそうだ)、いろいろと悲観的だ。「俺は薄暗いたましいを持って生まれてきたんだよ」などと言う。

 友人はゆっくりと、低い声で言う。おまえはその泥棒に引け目を感じているんだ。だから疑っているそぶりを見せることができなかったんだ。そういうのをおためごかしと言うんだ。おまえは、「相手が移民に見えるからといって悪い人間だと思ってはいけない」という規範を持っているんだ。相手の肌の色が白っぽかったらかえって警戒してバックパックを地面におろしたりしなかったんじゃないか。なぜかといったら、その場合は警戒しても自分のことを差別的だと思わなくて済むからさ。

 僕は黙る。友人は言う。おまえは自分が恵まれていることに引け目を感じている。努力してもその努力を誇示してはいけないと思っている。なぜなら恵まれない環境で努力している人間もいるからだ。しんどくなってもしんどいとは言わない。なぜなら今の自分の境遇は自分の選択によるもので、それに対してぐじゃぐじゃ言うほど弱い人間じゃないと思っているからだ。

 おまえは生まれ育ちに不運な部分がない。生まれつき勉強ができて、障害がなくて、男で、見栄えも悪くない。だから意地でも「この世界はいいところだ」と言い張らなきゃいけないと思ってる。世界に対して友好的な態度を取って明るい顔して過ごすべきだと思ってる。自分の弱者っぽい部分から目を逸らすために全力で「みんないい人だ」「世界はいいところだ」と言う。そんなだから泥棒に遭うんだ。いいかげんにしろ。泥棒を罵れ。犯罪被害に遭って恐ろしかったと言え。海外生活に疲れたと言え。そんなのは当たり前のことだろう。

 僕はしばらく黙ったままでいた。友人も黙ったままでいた。いやだ、と僕は言った。移民の犯罪率が高いとしたら、それは貧しいからだ。構造的な問題だ。泥棒個人を罵ってもしょうがない。僕は望んでここまで来たんだし、勉強は順調だ。休暇だってまだ残ってる。寝て起きれば元気になる。

 泥棒にマヨネーズをつけられたコートはクリーニングに出しても完全にはきれいにならなかった。僕は帰国するまでそのマヨネーズ・コートを部屋にかけておいた。