傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

なりふりかまわず手当たりしだい

 自宅のある階でエレベータを降りようとしてそれに気づいて指が痛くなるほど強く「閉じる」ボタンを押した。見るな、見るな、こちらに顔を向けるな。エレベータが一階に降りても恐怖は消えず、あとも見ずに走った。

 LINEでつかまった女友達に通話を頼んで、言う。ユキコがマンションの部屋の前で待ってるんだけど。いや別れた、ていうか、そもそも、つきあってない、いずれにしてももう会えないって言ったんだけど、オートロックって役に立たないね、ドアの外から動かなかったらどうしよう。

 女友達は言う。管理会社に連絡しなよ。管理人さんか警備員さんに声かけてもらったらいいと思う。

 僕は少しむっとする。こいつ、わかってねえな、と思う。そして言い聞かせる。そんなことしてユキコの親や会社が知ることになったらどうするんだ。かわいそうじゃないか。もちろん僕だっておおごとにはしたくない。

 女友達は言う。そしたら誰かに頼んでユキコがその場から離れたかチェックしてもらいなよ。人間はトイレ行くし飲食が必要だからユキコだって必ずその場を離れるよ。そしたら家から貴重品一式持ってウィークリーマンションにでも移って引っ越し物件をあたって、「おまかせ引っ越しパック」を手配しなよ。

 僕は黙る。どうもおかしい。尋ねる。ユキコからなんか聞いてるんだ?

 そりゃあねえ。女友達の声は平坦だった。わたしはたしかに、ユキコとそんなに仲良くはないけど、でもユキコは去年実家に戻ってきてから、もう手当たり次第なんだよ。木村くん、自分だけだと思った? 男だけだと思った? そんなわけないじゃん。全員が対象だよ、たぶん。うん、昔はそんな人じゃなかったよね。 わたしも「えっ」と思ったし、残念だよ、でも今はちがうんだから、しょうがないよ。ユキコはあのグループLINEのほとんど全員になりふりかまわずしがみついているんだよ。女にも男にも「相談」のLINEを送りまくって、女からは同情とケアを、男からは恋愛っぽい関係を、引っ張りだそうとしているの。とてもつらいのだろうと思う。でもわたしには何もできない。そういう状態のユキコの誘いに乗っかった木村くんにできることもない。

 あのグループLINEって、メーリングリストを引き継いで誰かが作ったんだよねえ。塾が一緒だったっていうだけで、よく保ったよね。わたしたち可愛い中学生だったよね。でももうそうじゃないんだ。ユキコはまだ法律上結婚しているのに誘いに乗るなんて、木村くんも焼きが回ったんじゃないの。

 木村くん、あのグループLINEに元カノが二人いるでしょう。二十代半ばあたりでそういう関係になった人たち。それはもちろん問題ないよ、でも、中学生のときの塾のメンバーにあらためてアプローチするくらいには彼女を途切れさせたくない人なんだなってことは、わかる。彼女たち、すごーく未練があったみたいだよ、木村くんに。

 それでさ、木村くんみたいな人って、年とっても同じようなことするんだよね。つまり、常に誰かが自分を追いかけて、自分に執着して、自分の世話を焼きたがって、自分のアテンションをほしがる状態をつくる。関係が安定するとだめなんだ、常に相手から大量の感情が自分に来ていないといやなんだ。わたしは、想像で言ってるけど、木村くんって、たぶん、そうでしょ。女と寝て向こうが彼女面するようになったら別れるんでしょ。

 木村くんが二十代後半から三十代まであのグループLINEのメンバーに手を出さなかったのは、単にほかで交際相手を調達できたからじゃないかと、わたしは思うんだよね。でもユキコが結婚相手とうまくいかなくて実家に帰ってきて「相談」してきたら、ほいほい自分の部屋に呼んだんだよね。四十路ともなると木村くんもモテ度が下がってきたのかね。それでも誰かが自分に執着して自分がその相手を捨てる立場にならないと気が済まない? わたしに「相談」してうまくもっていけば次の相手になると思った?

 通話を切った。LINEのアカウントを非表示にして連絡先を消した。これで先方から連絡があってもこちらからは見えない。あの女は今ごろ僕のアカウントに向かってテキストメッセージを送りつけているだろう。明日になっても明後日になっても一ヶ月経っても未読無視が積み上がるばかりだ。僕に二度と連絡できないと知って、後悔するだろう。なんせ、とっくに賞味期限切れの、しかも顔面偏差値40の女だ。

 指をスライドさせて新しいアカウントを表示する。そしてテキストメッセージを送る。家に帰れなくなって困ってる。