傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ユキコはいい子、いつも、ずっと

 ユキコはまじめな女の子だった。わたしたちは中学生で、同じ塾に通っていた。保護者が熱心に勉強させている家庭の子が行くたぐいの塾で、入塾試験が難しいと評判だった。わたしは間違って入ってしまったみたいな感じで、いつもびりに近かった。ユキコは精鋭の中にあって上位25%のクラスにずっといる成績優秀な子どもだった。

 ユキコはきれいな女の子だった。ひょろひょろと背ばかり伸びて、中学一年生としても幼い印象だったけれど、細面の整った顔だちで、所作が端正だった。毎朝きっちり編んだ三つ編みを崩すことなく、塾の入り口のベンチで親の迎えを待っているときにも背筋がぴんと伸びているのだった。

 わたしとユキコはクラスがちがったけれど、親の迎えがときどき遅れることは共通していた。塾の入り口にはそうした子どもたちを想定してか、いくつかのベンチがあり、わたしたちはそこで仲良くなった。ベンチのそばには紙カップが出てくるタイプの自動販売機があった。仲良くなった夏にわたしが飲んでいたのはカルピスサワーで、ユキコが飲んでいたのははちみつレモンだった。

 わたしは月に二度はユキコの家に行った。ユキコはこぎれいな個室を与えられていて、折りたたみ式のプラスティックの小さなローテーブルを出してくれた。わたしたちはそこにノートを広げた。ユキコのお母さんが子ども部屋を見に来たときのアリバイづくりだった。わたしたちはひそひそ声でそれぞれの学校の話をし、ローティーン向けのファッション誌を両側から見た。

 ユキコはときどき居眠りをした。わたしはそれを見ていた。ユキコのお母さんが来たらすぐ起こそうと思っていた。でもユキコはいつもすぐに起きてしまって、実際にそれが必要になった記憶はない。ユキコは子どもなのに疲れていた。ユキコはすごくよく勉強していた。小学校から私立に通っていて、中学校はさらに別の学校を受験したのだと言っていた。わたしはユキコが眠っているのを見るのが好きだった。年齢よりも幼い、痩せているのに丸顔の、その眉間のこわばりが外れて、赤ちゃんみたいな顔になるんだ。

 ユキコのご両親はユキコが疲れていることをたぶん知っていた。塾にいるほかの私立の生徒の親はわりとナチュラルに「区立の子」「D(塾でいちばん成績が低いクラス)の子」を自分の娘や息子から遠ざけていた。あからさまな蔑視ではなくて、「うちとは違うでしょ」という態度で、それを子どもがまねるのだった。

 でもユキコのご両親は「区立でDクラスの子」であるわたしを許容していた。ユキコのお母さんは、一度だけその理由みたいな話をした。晩ごはんをご馳走になって、ユキコが席を立ったタイミングだったと思う。小さい声だった。ユキコはいい子すぎるの。がんばりすぎていると思うの。だから、なんていうのかしら、ユキコがほかの環境の子とお友だちになるのが、おばさん、とっても嬉しいの。

 ユキコは私立の女子高校に、わたしは都立高校に進んだ。それでもユキコとはときどき会った。ユキコはいい子のままだった。名門高校から名門大学に入り、早すぎも遅すぎもしないタイミングで彼氏を作り、三年つきあった相手と二十七歳のときに結婚した。ほどなく赤ちゃんが生まれた。実家に帰りがてら、わたしにも赤ちゃんをだっこさせてくれた。その後、しだいに連絡が間遠になった。三十代半ばを過ぎると、わたしからの年賀状にも返信がなくなった。

 そのユキコから突然連絡があった。実家に帰ってきているというのだ。わたしは大急ぎで予定をあけてユキコに会った。ユキコは『VERY』みたいな格好をしていた。夫が毎日のように暴言を吐くこと、最近は「手をあげる」こと、子どもが自分を軽んじて一緒に来てくれなかったことなどを、ユキコは話した。

 わたしはユキコの話をたくさん聞いた。その日だけでなく、いくつかの平日の夜と休日の昼に。会うよりもLINE通話が多かった。ユキコはなかなか通話を切らせてくれなかった。一時間でも二時間でも、ユキコは話した。夫がいやがるから女友達にも連絡をあまりしなかったこと。夫は子どもができるまでとてもやさしかったこと。夫の好みがとてもうるさいこと。子どもが幼稚園のころまで後追いをしてたいへんだったこと。

 わたしはDV被害者に対する公的支援を調べ上げてユキコのLINEに送った。仕事と家族の事情で忙しいと嘘をついて通話を避けた。同じ塾だった別の友達からユキコがいろんな女たちに「相談」して通話を切らせてくれないこと、いろんな男たちに「相談」して「恋愛」をしていることを聞いた。

 ユキコはいい子だった。とてもいい子だった。きっと今でも。