傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

この町を出て、永遠に戻らなかった

 東京の下町に生まれた。放課後の主な居場所だった区立図書館には「郷土の本棚」というのがあって、区内の歴史の本だとか、区内を題材にした落語を集めた本だとか、区内が登場する近代文芸のオムニバスだとか、そういうのが並んでいた。気が向いていろいろ読んだら、都市計画の大家が私の出身地一帯を指して「東京のスラム」と称していた。私は十二歳で、スラムということばを知らなかったから、辞書のコーナーに行って引いた。そこにはなんだかたいへんな印象の漢字が並んでいた。都市、貧民、貧困、密集、荒廃、失業。

 私が子どものころに住んでいた小さな一戸建てはトタン屋根で、隣もその隣もそうだった。雨が降ればばらばらと大きな音がするもので、窓をあけて手を延ばしたら隣の家の壁に触れるものだった。戸主が年をとって銭湯に通うのがきつくなるとようよう自宅に風呂をつくる、そういう町だった。敷地の大きい家はたいてい町工場を兼ねていた。町にひとつだけある大きな高層団地に住む同級生の部屋に遊びに行って階段をかんかん音たてて登ったらトタンの波が見えた。瓦葺きの家をかまえるのはけっこうなお大尽であって、あとは町工場と、当時出たてのマンションがいくらかあった。

 同世代ばかりの場でそのような子ども時代の話をすると、「いくらなんでも盛りすぎ」と言われた。「今のアラフォーで東京出身で子どもの時分にトタン屋根とか、ぜったいありえない」と言われた。ありえないと言われたってあったのだからしかたない。私は笑って、あなたがたは東京を知らないねと言った。私はトタン屋根の家から大人用の自転車の錆びたやつをむりやり使って浅草や上野に通っていたし、たまには銀座にだって行ったよ、銀座は自転車とめるところがすくないから気をつけなくちゃいけないんだよ。

 自転車をこがない、図書館にも行かない放課後には、よその家にいた。友だちの家はたいてい町工場だったから、敷地の隅に子どもたちがうろうろしていてもまったくかまわれないのだった。大人たちはトイレを貸してくれて、水道を使わせてくれて、たまにお菓子をくれて、飼い犬を河川敷に連れて行って一緒に走ると喜んだ。町には川がいくつもあった。護岸された大きな河、雑草が茂る土手のある河、もっと細い用水路めいた河。川沿いに住む大人たちは、私の背丈が伸びたとか、よく本を読むとか、むつかしいことをしゃべるとか、足が速いとか、そんなつまらないことをいちいち口に出してほめた。

 友だちは自分の家の工場の従業員のバングラデシュ人と将棋を打ち、私はチェスはさっぱりできなかったからバングラデシュ人の片言の英語をさらに心もとない日本語で復唱する係をやった。バングラデシュ人は住み込みで、「バングラさん」と呼ばれていた。バングラさんは「将棋とかわかんないけど、ムードでプレイしてる」と言った。私はバングラさんに中学校の教科書を見せ、バングラさんは英語の教科書をひらいてげらげら笑った。

 やがて町工場は次々につぶれた。友だちの工場は大きくてうまくいっていたからつぶれなかったけれど、バングラさんたちを雇うことはできなくなった。バングラさんが住んでいた工場の二階は友だちが使うことになった。友だちと私は中学三年生だった。肉屋のコロッケを私に差し出して、友だちが言った。バングラさんは強いからだいじょうぶだ。あんたも強いからだいじょうぶ。中学が終わったらこの町を出て、もう戻るな。この家は、わたしが守る、あんたはこの家の人間じゃないから、あんたの家はろくでもないから、そしてあんたは強いから、外に出て、もう戻るな。

 私は自分の気質に合った学費の安い高校に合格し、下町の区立図書館よりはるかにたくさんの本があるいくつかの図書館へのアクセス権を手に入れ、世界がどのようにできているかを学んだ。家にはろくに帰らなくなった。三年後にはもっと遠くの大学に入って「ろくでもない」生家の人間がつきまとうことのできない環境を手に入れた。そうしてたくさん仕事をして大人になって仕事をしていたら新しい仕事があるというので東京に居をかまえた。

 引っ越しが好きだから数年ごとにわけもなく居所を変える。幾度か住んでみても東京の西側はどうも水が合わない。東側だって今はきれいなマンションがいっぱい建っていて、トタン屋根なんか探したってなかなか見つからない。それでも私は近くに河のある部屋を探して住む。稼いでマンションを借りて朝な夕なに川沿いを歩く。もちろん夜中にも歩く。私はうんと昔にあの町を出て、永遠に戻らないのに。