傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

憤怒の才能

 嫉妬って怖いですよね。歓送迎会でよく知らない人がそう言うので、そうなんですね、と私は言った。とくに意味のない、社交上のせりふである。歓送迎会はまとめてやるので、ふだんはかかわりのないよその部署の人がいるのだ。

 そうなんですね。私が相槌よりやや疑問に寄った四文字を発すると、そうですよと彼は言う。俺すごい嫉妬されるんで困ってるんですよ。

 彼はそのように言う。恋愛相談だ、と私は思う。唐突だと思う。私の理解によれば、嫉妬というのは「あなたは私だけに恋していると私は思い込んでいたのに、そうじゃなかったんだ、あなたは別の人を好きなんだ、その人は私ではないんだ。私の世界はまちがっていたんだ、そんなの認めたくない」という感情である。

 私があなたの好きな人のようであったらよかったのか。でも私はそのようでない。あなたはその人を好きになった。私はかなしい。私はくやしい。あなたが私を好きなあなたのままでいなかったことがつらい。私は、あなたのことを、私の心臓であるかのように思っていた。あるいは私があなたの肝臓であるかのように。でもそれは嘘だ。あなたは私の心臓ではないし、私はあなたの肝臓ではない。私は、できるものならあなたになってしまいたい。でもできない。私は私以外の誰かになることができない。

 嫉妬というのは、そういう感情である。いくら配偶者や恋人であっても、なかなか出てくるものではない。ひとことで言うと、どうかしている。恋で頭がおかしくなっている。対処としてはまず、「恋人は私ではないから、しかたない」と自分に百回でも千回でも言い聞かせる。あと座禅のまねごとをする。私は四十年ちょっと生きてきて、恋で頭がおかしくなったことが複数回あるんだけど、自己暗示と座禅以外に有効な対処はなかった。

 あの、つまり、配偶者の方ですとか、彼女さんですとかが、大変な感じなんですか。私がそう訊くと、彼は顔をゆがめて突然嘲笑する。あのさ、恋愛とかぜんぜん関係ないですよ。そういう話題、セクハラなんですけど。えっとお、失礼ですけど、おいくつですっけねえ? 俺が話してたのは、会社の嫉妬深い連中に困ってるって話なんですけど、わかりますかね、足引っぱる側の人の話を聞こうと思って声かけたんですけど。

 私は彼の言葉に含まれる大量の負のエネルギーにショックを受ける。無関係の他人に向けるにはあまりに強い悪意だ。彼はたぶんすごく怒っている。憤怒している。もちろん私にではなく、誰か、他の人に。彼の「足を引っぱっている」人に。私はその代わりなのだ。彼は言う。

 マキノさんそんな仕事できるほうじゃないじゃないですか。てかザコポジションでしょ、こないだ篠塚さんがもっと上いったじゃないですか、負け組決定、で、どう思うんですかね。

 どう思うと言われば、「篠塚さんは仕事ができてうらやましいなあ」と思う。篠塚さんは私より仕事ができて成果を出した。仕事は評価されるものだし、評価があれば上やら下やらに位置づけられて、いつも自分が上じゃないのは当たり前だ。自分の評価が下だったのは、ふがいないけど、しかたない。そう思う。もし自分にぜんぜん需要がなくなったら仕事を変えたらいい。たぶんどこかには需要がある。

 私がそう言うと彼は私のことばに金属質の笑い声をかぶせる。なげーし、と叫ぶように言う。私は完全にうんざりして彼に背を向ける。背後からさらに声が飛んでくる。めんどくせえ女。私はその甲高い声を非常に不快に感じる。声はやまない。俺ああいう女いっぱい見てきたわ、ほんとめんどくせえよなー。

 なんだか怖かった。彼はおそらく強く怯えていて、その怯えの気配のようなものが私を怖がらせた。酔っているからといって済ませるような感情の表出量ではなかった。たぶん彼は、「自分の足を引っぱっているのは自分より評価されていない社員に違いない」と思って、それで「マキノもうだつが上がらないから誰かの足を引っぱっているだろう」と思って、それで怒っているのだ。怒ってあれだけ激しいエネルギーを発することができるのなら、それも才能のうちだ。その才能でもってがんばって成果を出したらいい。そして、私は、その才能を、好きではない。私は彼の怒りの依り代にされるいわれはない。「足を引っぱっている」人に直接怒ったらいい。私はその人じゃないんだから、放っておいてほしい。あとやたらと性別の話をしていたのは不適切だ。だって、性別、ぜんぜん関係ないじゃんねえ。