傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

知らないなんて許せない

 ソーシャルメディアをぜんぶ閉じた。ものを書いたときの通知に使用するSNSアカウントを一つ残したが、そこでも一切の相互性を排除した。誰もフォローしない。リプライはしないし、見ない。シェアや「いいね」はもとよりほとんどしないが、徹底してゼロにする。

 インターネットで文章を書いて十数年になる。書いているのはフィクション、それから人が書いたフィクションに対する感想文である。ふだんはコメント欄のないブログで延々と書いている。たまに注文原稿の依頼が来る。注文に沿うように努力をするが、いつも注文どおりに書けるのではないし(あきらかに書けない内容の依頼だと辞退する)、しょっちゅう依頼があるのでもない。だから私はプロではない。基本的には自分のために無料の文章を大量に書いている愉快なアマチュアである。

 私は社交をしないのではない。インターネットでもいい文章を見たら賞賛の感想文を書いてアップロードして本人にURLを送りつけたりする。一方、私のところに知らない人から身の上話などが送られてくることもある。「ほほう」と思って読む。他人の身の上話は嫌いではない。

 ではなにがいやでソーシャルメディアを全部閉じたかといえば、「自分の話をしろ」という要求がいやで閉じた。

 私は、本を読んで「まるで私のために書かれたかのようだ」と思うことがある。ぜったいにそんなわけがないのに、「私の話だ」と思う。「私のステイシー・レヴィーン(作家名)の話をしていいですか」などと言う。ほんとうはまったく私のではない。赤の他人である。これ以上ないくらいきっぱりさっぱり無関係の他人である。

 そんなだから、「自分のための文章みたいだ」と言われることにはまったく抵抗がない。どうぞこの野良ブロガーの文章をあなたのためのものと思ってください。私も赤の他人の小説家の文章を「私の」と言ってにこにこしています。めでたし、めでたし。

 問題はその逆だ。「こうした文章を書く人が赤の他人であってはならない」というような欲望である。そんなやついるのかと思われるかもしれないが、いるのだ。その人にとって私は自分の一部、あるいは好みの文章を「供給」する道具のようなものである。私にメッセージを送るとき、彼らは巨大な、理不尽にひどい目に遭ったという感情を、そのメッセージにこめる。

 彼らはソーシャルメディアアカウントを持っている。彼らはそれでもって私をフォローする。私は彼らを知らない。彼らは私にメッセージを送る。私は「読んでくださってありがとうございます」と言う。あるいは何も言わない。彼らはまたメッセージを送る。そこには激しい怒りと苛立ちがこもっている。私が彼らのための物語を書かないことを、今週の更新が彼らの気分を良くする作風でなかったことを、私が彼らのメッセージに丁寧な返信をしないことを、私が彼らのアカウントをフォローしないことを。彼らはたとえばこのように書く。

 無視するとはどういうことでしょうか? ○○さんの@には返信していました。公共の場でそんなに差をつけるのがどういうことか考えていらっしゃいますか?

 あるいはこのように書く。

 お返事をいただけないほど怒らせてしまって本当に後悔しています。最後にこれだけは聞いていただきたいのですが、

 怒っていない。怒る材料がない。だって、知らない人なのだ。

 槙野さんがわたしを知らないことが耐えられません。知られる価値を生み出せなかったわたし自身を許せません。

 知るわけがない。赤の他人である。知らない人である。私はプロではなくて愉快なアマチュアだから、営業のためにソーシャルメディアを使う必要がない。だから相互性を一切排除した。無視していればいいと言う人もあろう。私だって罵詈雑言なら平気で無視する。でもあの巨大なエネルギーを無視することはできない。ああいうものに対して無感情になることができない。

 私はあの怒りに見覚えがある。自分のものだと思っている相手が離れていこうとするときに見せる怒り、自他の境界が危うい人の発する怒りである。それを話したこともない他人にやっているのだ。自我の一部としてインターネット上の「供給」を切り貼りしている人がそれを取り上げられたように感じてすごく怒っているのだと思う。取り上げられたら自分の存在があやうくなるからあんなにも感情が巨大なのだ。私はそれを無視できない。相互性を排除することで「私はあなたではありません」「私はあなたのものではありません」と示すよりない。