傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

迷信の誕生

 炭酸の摂取がアルツハイマー病の発症と相関関係にあるという説があるらしいんです。同僚が言う。私たちはたがいの手元を見る。そこにはビアグラスがある。炭酸ガスがその存在を主張している。どこの説ですか、と私は尋ねる。そういう言い方から推測するに、たしかな話ではないのでしょう、そんな風説を思い出してはいけません、思い出すならどこの誰が発表したかくらいチェックしなくては。そうですよねと同僚が言う。エビデンスもない話を思い出すだけ損ですよね。そうですと私も言う。ファクトをチェックしなくてはいけないです。引用元がないものはだめですからね。そうです、孫引きも有罪です。

 私たちはビールを飲む。彼女がその胡乱な説を思い出した原因は明白である。最近、彼女のいわゆるママ友のひとりが、若年性アルツハイマー病を発したのだ。近くの人がかかったからといって自分がかかる可能性が上がるような病気ではない。そんなことは彼女にもわかっている。それでも恐ろしい。恐ろしくて、それが確実なら報道されるようなうわさ話を「もしかしたら」と思ってしまうのだ。きっと、炭酸ではなくて、炭酸を含む、たとえば添加物を大量に含む甘い飲み物の常飲との、因果もわからない相関関係についての話なんだろう。気にするような内容ではない。彼女だってふだんは気にしないだろう。でも今は気にかかってしまう。恐ろしいからである。

 エビデンスだのファクトチェックだのと唱えて落ち着くのは、彼女の持つ不安が軽度だからだ。もっと強い負荷がかったときには、あるいはもっと弱っているときには、そんな理屈で不安をおしとどめることはできない。多くの人はそのような精神を持っていない。私だってもちろん持っていない。ちょっと弱っているときにあれこれ言われたらパニックに陥って機能を停止する。

 私がそうぼやくと、同僚は宙をちょっと見て、言う。うちの妹、医者なんですけど、今は町医者で、えっと、その妹が、研修医だったときの話なんですけど。

 その医学部では、忘年会の開始時刻を遅くするのが慣例だった。連れだって神社に行ってお祓いをしてもらって、それから忘年会を開くからだ。お祓いへの参加は任意で、プレッシャーはまったくかかっていなかった(「別に来なくてもいい」というくらいだった)けれども、九割がたが参加していた。

 つまりですね。同僚が言う。ふだん論理でものを言って迷信を退けていても、人の死をしょっちゅう見るような、そして人の強い感情にたくさん接するような仕事をしていたら、日常的な回復手段では歯が立たないような何かが精神にべっとり貼りついてしまうんです。それをどう落とすかは、それぞれやり方があるんだろうけど、お祓いには一理ある、というのが妹の意見でした。死への恐怖に理屈で立ち向かうなんて常人のすることではない。宗教者は何百年も「とりあえず今は生きているし、大丈夫、OKOK」という気分にさせる様式を研いていて、だからお祓いされればなんとなく清らかになった気がする。人の死に疲れた集団が年に一度お祓いしてもらうのは効率がいいのだと。

 同僚はそこまで話して、ひといき置く。それから宣言する。つまりですね、マキノさんが鼻で笑うスピリチュアル、あれは少なからぬ人にとって必要なものです。しょっちゅう死に目にあう仕事じゃなくても、生きていれば不安になります。そして人間はいろんな要因で不安をコントロールできなくなります。不安をこじらせると死ぬことだってある。そういう気持ちをまぎらわせるためにスピったっていいじゃないですか。半信半疑が本気になって、パワーなストーンを集めようが、パワーなスポットを巡ろうが、占い師を頼ろうが、いいじゃないですか、それでどうにか生きていられるなら。

 私はビールをのむ。それから反論する。いや、石を集めたりするのはいいんです、好きにしたらいいんです、ちょっとお金はらって人に会って気が済むならそれでいいと思います。でも私は、そういう心性を利用した、還元主義と選民思想にまみれたカルトがやたらとあるのがいやなんです。そんなね、すぐ救われるわけないでしょうよ、日常的に超越者を想定する必要があるなら、搾取されない信仰をしたらいいじゃないですか、まともな宗教団体、いっぱいあるじゃないですか。

 同僚はビールをのむ。それからちいさく言う。まともな場所や人はね、自分にもまともさを求めます、たぶんね。だから不安で恐ろしくて、あるいはさみしくて、まともでなんかいられないときには、たいして頼りにならないんじゃないかなあ。