傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

愛されない子のピアノ

 両親から相続した小さな二階建てをリフォームしてひとりで住んでいる。空き部屋があるので、ときどきそこに人を住まわせる。たいていは自分の住居を見つけて出て行くから、わたしはまたひとりになる。しばらくひとりでいて、また別の人を住まわせる。わたしのそのような癖を知る友人は「人を拾うなんてよくないことだよ」と言う。

 わたしは楽器メーカーが運営する教室にピアノ教師として雇われている。それからときどき演奏の仕事をする。ディナーショーの伴奏とか、そういうやつだ。忙しくはない。嫌いな仕事ではない。しかし心躍ることもさほどない。

 だからたぶんわたしは暇なのだ。暇でさみしいからときどき人を拾うのである。礼子はわたしのそういうところを見抜いていたように思う。礼子をわたしに紹介したのは音大時代の同級生である。「才能があって生活力がないから空き部屋に置いてやって」ということだった。ピアノを弾かせてみると、おそろしく明晰で隅から隅まできわめて硬質な、ほとんど恐怖を感じさせるような演奏をした。そこには完全なひとつの世界があった。透明で永遠に罅割れることのない孤独だけでできた世界。

 空き部屋に住んでいいと言うと礼子はとても喜んで感謝の意を述べた。それは伝わったが、やりかたはものすごく下手だった。穏当に会話をするだけのコミュニケーション能力がそなわっていないようだった。これじゃあ社会でうまくいくわけがないよな、とわたしは思った。

 礼子はピアノがそれほど好きというわけではなかった。親に習わされていたから弾けるというようなことを礼子は言った。自分の演奏の価値には興味がないようだった。礼子にはもうひとつ才覚がそなわっていた。数学だ。わたしにはわからない分野だが、どうやら極端に数学ができる人間を雇いたい企業があるらしく、礼子には収入があった。ただ、正社員として勤められるだけの社会性がなく、近隣とのトラブルで住んでいたアパートを退去したあと、新しい物件を借りることができずにいるということだった。

 礼子が人を恋しがっていることはわたしにもわからないのではなかった。礼子はどうして自分の人生がうまくいかないのかひどく悩んでいた。わたしが自室にいると、突然ばんばん扉をたたき、扉の外から、どうして自分には友だちができないのだろう、親密な関係が持てないのだろう、というような意味の大量のせりふをものすごい早口で投げかけてきた。わたしにもとくに親密な関係はないと答えると、礼子は「嘘つき」と言った。礼子はめったにピアノを弾いてくれなかったので、わたしはこの同居人と親しく話をしようとは思わなかった。まして踏み込んだ相談に乗る気にはなれなかった。

 ある日、知らない人間の声が聞こえたので、礼子の部屋に入った。礼子は薄汚い女と向かい合って座っていた。その女の身なりはあきらかにまともではなく、部屋には異臭がただよっていた。女は落書きめいたアイライナーの内側の巨大な目をぎょろぎょろと動かし、しかし決してわたしと目を合わせることなく、歯茎を剥き出しにして侮蔑的な表情をつくり、礼子に向かって、何このババア、礼子さんのカラダ目当てなんじゃねえの、こういう終わってるババアまじキモい、と言った。

 わたしは礼子に女を泊めてはならないと告げた。礼子は決して首を縦に振らなかった。女は部屋に居座り、自分はここに住んで当然とばかりにずうずうしく起居しはじめた。わたしは礼子に、あの女を追い出しなさい、と言った。礼子は頑として言うことを聞かなかった。あの子を見捨てることは自分を見捨てることだと言った。礼子からそんなにはっきりとしたことばを聞いたことはなかった。わたしはあの女を追い出さないと警察を呼ぶと宣言した。礼子はべそべそ泣いたり長々と(礼子なりに考えたのであろう)口上を述べたりしたが、わたしは決して応じなかった。礼子はわたしが警察を呼ぶ前に、女と一緒に出て行った。 

 そのような顛末を話すと、友人はため息をつき、あなたが悪い、と言った。何をどう考えてもあなたが悪い。何ら責任を負うつもりのない相手を自分の家に住まわせて、大家と店子という線引きをせず、相手が親密になりたがってもこたえず、才能だけを鑑賞して、自分の領域には決して踏み込ませない。あなたは、ほんとうにひどいことをした。

 礼子さんが別の人を拾ってきたのは、何のことはない、あなたの真似をしたんだよ。礼子さんはさみしかったんだよ。飢えが筋肉を細らせるようにさみしさに精神を食われていたんだよ。だからどうしても他人を助けてそばに置いておかずにはいられなかったんだよ。