傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

幸福な水槽

 老けたね。まあ、わたしもだけど。おばあちゃんの葬式以来か。十年前、いやもっと経ってる。わたしの子ども?元気だよ。旦那も元気。みんな、ふだんはあんたの存在とか忘れて暮らしてるから、だいじょうぶだよ、あんたは今までどおり、好きにしてなさい。はい書類。間違いなかったら、印鑑。待ちなさい、なんで読まずに捺すの、ちゃんと読んでからはんこつきなさい。

 ふう。OKOK。え?なんで謝るのよ。わたしはわたしなりにうまいことやってるし、あの母さんだって、最近は無害よ、無害、わたしの勝ちって感じ。で、あんたは何、まだ他人を住まわせてるの、でかい家借りて、男ばかりで寄り集まって。そう、相変わらずだね。

 あんたは覚えてないかもしれないけど、大学生のときに一回、あんたの住んでた寮、大学の寮にさ、わたし、行ったことあったじゃない。覚えてないか。母さんに頼まれて、わたしの友だち連れて、行ったんだよ。家族の見学ですって言って。学生たちはみんなわたしに気を遣ってくれて、それはわたしが男子寮に来た女の客だったからじゃなくて、まあそれもあるかもしれないけど、あんたの姉だったからだよ。

 寮生たちはあんたのことがとても好きみたいだった。あの寮には、スタッフはいなくて、リーダーみたいな役職もなくて、なんとなくみんながあんたを頼りにしてるんだって、そんなようなことを言ってた。いいやつとか、やさしいとか、なんとか。へえ、この子、他人に興味ないと思ってたけど、友だちにはやさしいんだ、なんて、わたし思って、でも間違いだったよね、すぐにわかった。

 あんたは水槽の熱帯魚を見るみたいに、寮生たちを見てた。寮生たちは楽しそうだったけど、わたしはぞっとした。同じ寮で賑やかに過ごしてる学生同士って、友だちとか、仲間とか、そういうのだと思ってたけど、あんたははっきりと違った。この子は、わたしの弟は、父さんと同じだ。そう思った。

 父さんって家ではなんにもしなかったじゃない。母さんが何でもやってあげちゃうから、あれしろこれしろとさえ言わない。ろくに口をきかない。たまに怒鳴る。わたしたちのことなんか何も知らない。まともに会話をした覚えがない。この人にとって家族ってなんだろうって、わたし、よく考えたもんよ。あんたとちがって人間に興味があるんだよ。

 それでわかった。父さんは人と人との関係を必要としない。少なくとも家庭ではそんなものぜんぜんなくて平気。父さんにとっての家庭は、魚が入った水槽みたいなものなの。母さんは父さんのために家事とかするから、もう少し別の存在だったかもしれないけど、わたしとあんたはそうじゃない。わたしたちはね、父さんにとって、眺めて楽しむものだったの。水槽の中の魚みたいなものだったの。人間じゃなかったの。そう考えて、やっと腑に落ちた。

 わたし、大学の寮を訪ねたあのとき、わかった。弟は父親の同類なんだ、って。わたしは家族を自分と同じ人間だと思ってて、それで長いこと苦しんだのに、あんたはそうじゃなかった。あのね、あんたはね、人を人とも思ってないんだよ。自分と同じ内面があって傷つきもする人間だと思ってない。もちろん、わたしのことも。あのくそ親父にそっくりだ。父親とちがって、相手の利益になるようにふるまってはいるけど、自分とおんなじもの、自分と対等な人間だとは、ぜったいに思っていない。そう考えてはじめて、あんたが過去に言ったことやしたことが理解できた。え?自覚なかった?その年まで?そりゃあずいぶんだね、あんた、ばかみたいに頭よかったのにね。

 もちろん、大学生のあんたは、一緒に住む男の子たちに良くしてあげていたんでしょう。彼らに慕われていたんでしょう。そうして今でも、赤の他人を家に置いて、よくしてやっているんでしょう。住まわせた人たちからは感謝されているでしょう。でもわたしは知ってる、そのろくでもなさを知ってる、わたしは、あんたの姉だから。

 あんたは、親が嫌いで、親の作った環境と正反対のものを手に入れたつもりでいるんだろうけど、わたしに言わせればたいしたちがいじゃない。くそ親父の作った家庭が血縁ベースの不幸な水槽だったから、あんたは血のつながらない人間を集めて幸福な水槽を作ってる、それだけのちがいだよ。

 怒らないよねえ、あんたって、昔から。あはは。うん、母親のことはさ、わたしが面倒見るからさ、あんたの邪魔させないから、だいじょうぶだからね。だいじょうぶ。それじゃあ、また。誰か死んだら連絡する。