傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

安心を売る

 当日の注意事項は以上です。何か質問のある方はいますか。いませんか。それでは明日、現地で10時にお待ちしています。どうぞよろしくお願いいたします。

 わたしは口をつぐみ、終わり、という合図をする。わたしのそれは手を軽く前に掲げてから元に戻すというものである。課員がざわざわと持ち場に戻る。課長、と声がかかる。いつものことである。同じ部下が同じようすでやってくる。皆がわたしの話を聞いているときではなく、それが終わったあとに。

 はい、とわたしはこたえる。冷たくもあたたかくもない声である。いつも同じ声を出している自信がある。彼は言う。明日は10時に現地集合ですか。わたしはこたえる。10時に現地集合です。それから、「終わり」のしぐさをもう一度して、自席に戻る。

 その部下が配置されたとき、人事がやってきてあいまいなことを言った。研修中は、まじめであったということですが、つまり、なんと言いますか、実業務上ですね、不適応があればお知らせください。わたしはいくつか質問をした。人事の回答はいずれもあいまいなものだった。とりあえずやってみましょう、とわたしは言った。

 彼が配置されたのは定型業務が多いチームだ。久々の新卒ということで歓迎された彼は作業が早く、チェックするとほぼミスがなかった。いい人が来てくれたと、彼の指導役は言っていた。

 問題が起きたのはふた月後である。少しだけ判断基準のあいまいな作業を担当したところ、彼はすべてのプロセスで指導役に確認を求めた。自分で判断するように言うと、今度はその判断の基準の確認を求めた。指導役が苦言を呈すると、発言を順に「確認」したがった。「Aです。そしてBです」といえば、「AはAということですか」「BはBということですか」と繰りかえすのである。手元に完璧なメモを取り、それを復唱する。表情はまったくなく、非常に切羽詰まった雰囲気だけがある。おだやかに話を終えようとしても終えさせてもらえない。強引に終えるしかない。彼の指導役はすっかりまいってしまった。ディスコミュニケーションは人の精神を削る。

 わたしは自分自身のための業務日誌を書いている。その日の日誌をめくると、こう書いてある。

 世界は不確かなものである。目の前に見えるものが他の人にも見えていると、どうして判断できるのか。メモしたことを、ついさっき、目の前にいる上司がほんとうに言ったと、どうして判断できるのか。できない。わたしたちは単に「自分の記憶は正しい、自分のメモは正しい」と仮に決めて生きているだけである。そういう意味では、自分の記憶や自分のメモをうたがう彼は正しい。しかし、その確認を他人に求める段階で、彼は正しくない。なぜなら相手が確認に応じたとしても、それが正しいことを確認するすべはないからである。つまり、彼の行動は論理的に誤っている。論理ではなく感情による行動だと考えるべきであろう。彼はまったくの無表情だが、その行動は感情的なものなのだ。作業中に不安になって、誰かにその不安を解消してほしい気持ちが出てきて、それが彼の確認癖を呼び起こすのではないか。不安が少なければ確認も少なくて済むのではないか。そのための環境を整えることは可能ではないだろうか。

 わたしはその日誌を書いたあと、人事に提出するレポートを作成した。彼には指導をしなければならない。しかしながら、マイナスの感情を伝える叱責は彼にいっそうの不安を引き起こし、彼の内なるパニックを加速するだけではないかと推測する。したがって彼のためにできるかぎり明示的なルールを作り、それに基づいて感情をまじえない指導をおこなう。課長としてのわたしは彼の「想定外」をできるかぎり避ける。

 わたしは少しのあいだ彼を観察し、何度かやり方を変えて対応し、彼と直接接する課員にも説明をした。そうして彼は落ち着いた。落ち着いていつもの仕事をしているときの彼はまったくもって有能であり、確認は通常の成果物チェックだけで済む。企業としてこうした人材を「不適応」とすることもきっとできるのだろう。でもその代わりに彼より有能でない人が来るかもしれない。だからわたしは彼の特性に沿うことを選んだ。彼に安心を提供し、それをもって彼の成果物を買うことにしたのである。たとえば彼はいつもと違う場所で仕事をする前には不安になる。だから「確認」に来る。わたしは一度だけそれにこたえる。ある人が笑顔で少し雑談をしてほしいと感じるように、彼は「確認」によって不安を軽減してほしいと感じる。わたしは前者には世間話をもちかけ、後者には一度だけのオウム返しをする。