傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

最後の路上飲酒者

 私たちは最後の路上飲酒者である。私たちは桜が咲いているときにはどうしても外で酒を、それも華やかで上等の酒を、複数人で、楽しく飲みたい。それに同意する友人を新しく得ることはきっともうできない。昔はたくさんの人が同意してくれたのに、ひとり抜けふたり抜け、もはや二人だけになった。私たちは歩く。ピクニックのような装備を持って歩く。川沿いを歩く。そこには昔、春になるとたくさんの人が来て、花吹雪を浴びながら笑いさんざめき、そして飲酒していた。今は誰も笑っていない。河原によぶんな空間などなく、効率的に護岸されて作られた道路の上を、人々は足早に通り過ぎてゆく。

 むかし筒井康隆が「最後の喫煙者」という短編を書いていた。その世界では喫煙という愚行が激しく糾弾され、もうあいつら死刑でいいだろ、みたいな雰囲気になる。筒井先生はそのような世界を肯定できず、最後の喫煙者として断固として戦うのである。煙草が排斥されるきっかけは、これといって書かれていなかった。からだに悪い依存性の薬物だということは知られて長いので、排斥されるか否かは社会の気分なのである。そういう小説だった。

 実際に消滅しつつあるのは酒である。煙草は電子煙草の普及により、姿を変えて生き延びた。進化した電子煙草は健康被害が少ない。依存症の治療薬もある。だから排斥されるほどのものではない。そんなものより酒だ。文化だの何だのという言い訳はどの薬物にもつきものだが、酒のそれはしぶとかった。しかし今や、そのヴェールは完全に剥がされた。それは人々の寿命を縮め、人間関係の悪化を招き、のみならず死に至る依存症の原因となる。社会全体の生産性を著しく低下させるものだ。

 けれども良識ある人間は今が過渡期だと知っている。だから禁酒法はない。依存性の薬物はただ厳しく取り締まるだけではいけない。歴史がそれを示している。酒はただ「みっともないもの」「心の弱い人間が頼ってしまうもの」「不衛生なもの」なのだ。酒を飲む人間にも人権はある。それぞれに事情があるのだ。本人のせいばかりではない。古い社会の病理の犠牲者という側面もある。だから寛大な目で彼らを見てあげなければならない。そういう合意が形成されている。

 今年は開花が早い。桜の名所は軒並み人が減って、規制が解除された。千鳥ヶ淵あたりから始まった花見のルールは都市部のほとんどに普及し、花見といえば歩いてするものになった。他者に配慮し、いつもより遅く歩くのが作法である。景色を独占することなく、ゆったりと歩く。立ち止まって写真を撮るのは行儀が悪い上に、映り込む側の不快感に配慮していない。なんとも迷惑なことだから、フォトスポットになっている飲食店にお金を払って入店するよりほかに、カメラを起動する機会はない。教育を受けたまともな人間は人の迷惑にならない歩き方を知っている。そしてそのような人間しか、公の場で花見をするべきではない。

 春になると老いた牛の群れのような人々が桜の下を移動する。その光景を、私は嫌いだった。どいつもこいつも口を開けば迷惑迷惑迷惑、迷惑じゃない人間なんかいるか、と私は思う。だからそいつらの花見が終わってから、数少ない友人と、ゲリラ戦のようにここへ来たのだ。私たちの花見をするために。愚かで生産性のない路上の宴を催す、最後の者たちになるために。

 待って、と友人が言う。私は我にかえる。この道じゃないよ、こっちの岸には座れるところ、ない、川の反対側に行かなくちゃ、さっきの橋は渡っちゃいけなかったんだよ。そうか、と私は言う。あの橋を渡ろう、と友人が言う。そして飲もう、反対側の岸に行けば、みんな道ばたでお酒飲んでるからさ。そうかな、と私はつぶやく。そうに決まってるじゃん、と友人は笑う。あなた去年ここで花を見たんでしょ。私はこたえる。去年じゃないよ、ここでお花見をしたのは三年前、三年もあれば世界は変わるでしょう、そのあいだに世界が路上飲酒をやめても少しもおかしくなんかない。

 私が想像のしっぽを引きずっていることを、誰も気にしない。私たちは橋を渡る。私たちは親水公園のベンチに、あるいは持ち込んだシートに座るたくさんの人を発見する。見るからにほろ酔いで楽しそうだ。ただいま、と私は思う。ただいま、路上飲酒のある世界。私はそのようにしていくつもの世界を渡り歩く。私の頭の中にはたくさんの世界があって、目の前の「現実」はその中のもっとも長く手のこんだバージョンにすぎない。