傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

嘘つきの親

 今年の桜は早く咲いた。子はまだ桜についてはよく知らない。はな、と僕は言う。おはなみ、と言う。子は気に入りの小さなリュックサックを背負っているために機嫌がいい。走らない、と言う。手をつなぐ。駅に着いたらベビーカーに入れる。空いてはいるが、電車はとにかく危ない。個人差はあろうが、二歳半というのはまだまだ、一瞬たりとも目が離せない年齢であるらしい。

 目的地は隣町だ。すぐに着く。電車の好きな子どもはたった二駅でもそれなりに満足したらしく、でんしゃ、と言う。でんしゃ、と僕も言う。エレベーターの位置をあらかじめ確認して乗車したので、よぶんな体力を使わず地上に出ることができる。子はすぐに立ち止まる。何を注視しているものか、僕にはわからないことも多い。わからないというか、気にする余裕がないというか。

 親水公園に着く。花見にかこつけてイベントがおこなわれている。僕と子は「ふれあい動物園」に行く。僕はうさぎを抱き上げ、子に撫でさせる。どうやってこの動物たちをおとなしくさせているんだろう、と僕は思い、それから、考えるのをやめる。考えるのをやめるのは難しいことでははない。思考はいつだってぶつ切りで、気をつけていないと考え続けることなんかできない。この一年でそうなった。以前はそうではなかった。

 子は川沿いへの階段を降り、すぐに昇って、また降りたがる。何度もそうしたがるのをてきとうにごまかして、子を座らせる。かわ、と子が言う。かわ、と僕は言う。かわ。おおきいかわ。こうやって単語を増やして繰り返すのが妻の癖だった。教育上の効果でもあるんだろうか。

 子が立ち上がる。横を通り過ぎようとした同年代の子どもが気になったようだ。子を連れていた女性が会釈する。僕も会釈する。怪しくないですよ、無害で善良なお父さんですよ、という顔をする。僕は彼女たちの前でいつも萎縮している。不審に思われたくなくて、びくびくしている。父親だけで幼児を連れているなんて今や珍しいことではないのに。

 でも、いつも父親だけが連れているのは、珍しいのだ。そう思う。妻が出て行ったのは僕にとって晴天の霹靂だった。子どもの両親がそろっているのは当たり前だとどこかで思っていた。でもそうじゃなかった。人間が目の前からいなくなるなんてごく普通に起こりうることなのだ。

 子どもが一歳半から二歳半になる今までのできごとを、僕はよく覚えていない。ひとり親になって、仲間と作った小さな会社の責任者を辞め、雇われる立場にしてもらった。それは仲間たちの好意だし、何より僕の希望したことだけれど、僕はものすごくさみしかった。さみしかったような気がする。今は遠いことで、実のところ、よくわからない。仕事をもらって、する。子どもの送り迎えをする。子どもの世話をする。子どもの世話を可能なかぎり外注する。自分の食事をとり、風呂に入り、できれば眠る。それだけである。僕の生活と経済は、ほんとうにただそれだけで終わってしまう。そんな人生を想像したことはなかった。でもそれが僕の今の人生のすべてなのだった。

 おかあさん、とよその子が言う。手を振る。その先を見ると、ふたりの女性が手を振っていた。よその子の横にいる女性はその子のお母さんではないらしかった。三人か、と僕は思う。姉妹か何かだろうか。よってたかって三人で一人の子の面倒を見ているのか。そう思う。胸が悪くなる。僕は苦笑する。苦笑するとどんな感情でも流れていくようになった。

 おかあさんは、と子が言う。僕は子を見る。母親がいなくなったときこの子は一歳半だった。覚えているのだろうか。そもそも母親という概念を覚えたのも最近ではなかろうか。おかあさんどこだろうねえ、と僕は言う。おかあさんどうしたんだろうねえ。嘘である。「お母さん」が出て行った先も、出て行った理由も、僕は知っている。でも言わない。嘘をつく。子が大きくなっても、きっと嘘をつくだろう。

 妻が出て行ったことを知るなり、新しい「お母さん」をこしらえてやれという人が何人もいた。時間外保育やベビーシッターを頼むのなら再婚しろと。何を言っているんだろうと僕は思った。知らない女と暮らすなんてとてもとても無理なことだし、だいいち、「お母さん」はそうんなふうに調達するもんじゃないだろう。そう思った。胸が悪くなった。とても強く、長く。思い出しても少しそうなる。僕は苦笑する。

 ふね、と子が言う。ふね、と僕は言う。とり、と子が言う。とり、と僕は言う。とり。しろいとり。かもめ。ゆりかもめ。はな。さくら。たくさんのさくら。