傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

なんでも上手な女の子

 気を遣われていると思って緊張するとしたら、その相手は気を遣うことが上手ではない。もしかしてあれもこれも気遣いだったのではないかと思ったときにはもうだいぶ会話が進んでいる、それが上手な気遣いというものである。今日はそうだった。一対一で話すのがはじめての場で、もう一時間半経っている。やばい、と私は思う。若い人が気を遣っていることに気づかなかった。年長者として反省しなければならない。

 なんでも上手なのが良いかといえば、そうではない。外交や商談ならともかく、個人と個人の人間関係なんだから、あんまり上手に気遣いをされては困る。私は上手に気を遣うことができない。したいんだけれども、どうもうまくない。私だけ下手なのはしんどい。だからみんなにもほどほどであってほしいと思う。

 そのような私の都合とはうらはらに、ある種の人々は空気を吸うように気を遣う。目の前の若い女性もそうだ。気の利いた会話をしながら適度に本音のような発言を織り交ぜ、屈託なく笑っているように見えながら声量は周囲に合わせてきっちりコントロールしており、食べる速度も飲む速度も私とほとんど同一である。そんなの私に合わせているに決まっているので、なんで気づかなかったんだと思うけれども、気づかないくらい自然にやってのけるのだ。

 私と彼女の間に利害関係はない。仕事上のつながりもない。同じ業界と言えないこともないが、取引などの関係はまったくない。気を遣う理由はとくにない。たぶんさまざまな場面で自然に気を遣うのだ。そう思って私は少し暗い気分になる。彼女は箸を置き、次の飲み物を選んでいる。マナーの教科書の例として掲載できそうな、正しい所作である。彼女の振るまいや発言は何もかも規を超えない、と私は思う。自分に関する規則をきっちり作り、それを守っているような人。

 相手をいい気分にさせるような振る舞いを自然にするのは、いいことではない。私はそう思う。相手にとってはもちろんいいことなんだろう。でも、誰かが気を遣い、誰かが気を遣わないという非対称性を、私は良いものと思わない。さまざまなジャッジに耐えられるような振る舞いを見ると、私は疑問を持つ。その人がジャッジされる側であることを受け入れきっているように思われて、反発してしまう。あなたがジャッジする側でもいいだろう、と言いたくなる。そんなに何もかも上手じゃなくったっていいだろうと、そう言いたくてたまらなくなる。

 私は彼女を見る。彼女にだけ気遣いというリソースを支払わせているのは誰か。社会とか、同席者の属性とか、そういうのではないのか。私が彼女より技能を発揮せず同席してのんきにしているのはなんらかの搾取に相当するのではないか。私はそのように思う。思うけれども、口では先だって読んだ小説の話をしている。

 私たちは席を立つ。彼女のストールがとても綺麗なので、いいですねと言う。これですかと彼女は言う。歌舞伎町で拾ったんです。そうしてぱっとそれを巻く。黒い服に金糸の布。とてもバランスがいい。服装も、切り返しも。歌舞伎町で拾ったんです、と私はつぶやく。せりふの汎用性が高い、と言う。

 すぐれた思想ですね。歌舞伎町で拾ったんです。すてきな彼氏ですね。歌舞伎町で拾ったんです。私と彼女はそのせりふの汎用性を試しながら夜道を歩く。規を超えない女と歌舞伎町。なかなかいい組み合わせだと私は思う。どちらかというと、歌舞伎町で拾われるようなできごとを経験したほうがいいんじゃないかという気はするけど。

 彼女はぱっと私の腕を取る。ほほう、と私は思う。女同士だからといってむやみにからだに触れる人を私は好きではない。聡明な女たちはそれを察知するのか、私が物理的な接触を許容するほどの親しみを感じたとき、私の手を取る。もちろん取らない人もあるが、女たちの多くは親しみを感じる同性に物理的接触をもちかけるーー私のささやかな経験によれば。それはある種のサインでもある。好意の伝達と確認。

 私は彼女に向かって笑う。彼女も笑う。そのようにして私たちはたがいの許容を確認しあう。最短記録じゃないだろうか、と私は思う。えらく早い。たいていの女性は交友関係がもう少し長期にわたってからそのようにする。そのほうが円滑だし、自然だからだ。実際、彼女の動作にはちょっとぎこちないところがあった。この人にも上手じゃないことはあるんだな、と私は思う。よしよし、と思う。何でも上手だなんて、よくないことだ。

 

追記

この「なんでも上手な女の子」から返信をもらいました。

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