傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

基地に戻る

 人が規範を学ぶときにはその境界を目撃しようとする。規範はたいてい暗黙の了解をふくみ、あるいは抽象的にしか言語化されておらず、ときに建前という名の嘘をふくむ。したがって規範の学習には実践が不可欠である。そんなわけでこの二歳児はローテーブルによじのぼっている。テーブルには何も置いていないから問答無用で引きずりおろしはしないが、もちろん、彼は降りるべきである。

 私は彼の名を呼ぶ。強めの口調で「降りよう」と言う。彼はちらと私を見て笑い、テーブルの上で新しいポーズをとる。やってはいけないとわかっていてやるのである。悪い笑顔だなあ、と思う。悪そうな顔もとてもかわいいが、かわいがっている場合ではない。私は子守として規範を遂行しなければならない。すみやかに彼を抱えてテーブルからおろす。

 彼はもちろん泣く。そしてローテーブルに再度よじ登ろうとする。彼は二歳にして主語述語のある文章を口にするが、こうなると言語は通じないし、発することばも単語に戻る。彼の母親、私の友人が買い物から戻ってきて彼の名を呼び、言う。はい、テーブルに乗りたがる子は退場だねえ。これからみんなでごはんなのにねえ。ごめんなさいが言えないうちは戻らせないよ。そう言いながら子をひょいと持ち上げ、子ども部屋に連れていった。

 扉の向こうから、ひゃーん、と彼の泣き声が聞こえる。泣き声にも個性があるなあ、と私は思う。彼はふだん元気なのに、泣くときは急にあわれっぽくなる。彼の母が子を迎えに行く。反省しましたか。ごめんなさいは?

 子どもが戻ってくる。さやかさんにごめんなさいは?母親に促され、彼は私のほうを向く。ものすごく小さな声で、ごめんなさい、と言う。それからテーブルにも同じように言う。テーブルにも言うのか、と私は思う。大人たちのグラスにはビール、彼のコップには麦茶が注がれ、乾杯をする。彼はもう乾杯の何たるかを理解しているようだった。泣いていても数分後にはにこにこして乾杯。さっぱりしている。私もかくありたいものである。

 彼の食事は早い。あるものはぱぱっと食べてしまうし、なんならおかわりを要求する。食べ物で遊ぶことに執着しないのは助かるが、決まった時刻に食べられない場合、憤然と抗議する。食事が出てくるまでぜったいに引かない。腹時計がものすごく正確なのだ。今日は予定どおり食べることができたためか、ご満悦である。

 大人は飲みながらゆっくりしたい。そのために集まるのだ。ときどきかまってもらいに来る彼をてきとうにあやしながら、私たちはおしゃべりをする。彼は生まれてすぐのころからたくさんの大人にあやされている。乳児のころは母親の友人の誰がだっこしても「まあいいか」みたいな顔をしていたし、自我が芽生えつつある今でも人見知りで泣くことはない。しばらく相手を観察し、慣れるとやはり「まあいいか」という感じでお世話をさせてくれる。大人たちはときどき彼を「誰でもいい男」と呼ぶ。もちろんそれは冗談で、正確には「そりゃあ親のほうがいいんだろうけど、他の大人でも許容する姿勢を持っており、子守が助かる幼児」である。

 そんなわけで私も彼の相手をして困難を感じることは少ない。ところが、彼の母親がデザートを出そうと台所に行くと、彼はにわかにそわそわしはじめた。指をしゃぶっている。私は彼を抱きあげ、どうしたの、と訊く。彼はものすごく小さな声で言う。おかあさんがいい。

 珍しいことである。そうか、と私は言う。おかあさん、もうすぐ来るよ、と言う。さみしくなっちゃったかな。おかあさんにだっこしてもらおうか。彼はうなずく。じっとしている。けなげである。彼は何かに耐えており、その忍耐は重要なものであるように感じられる。

 泣きわめいたらまた叱られるからね、と彼の母親は言う。そうして私の腕から彼を受け取り、彼が赤ん坊だったころのように、背中をとんとんたたいてやる。そうして言う。ごはん食べる前にやらかしたからだよ。叱られると時間差で甘えたがるの。

 基地に戻るんだね、と私は言う。泣いたりだだをこねたりしているときは、ちょっと前の感じ、今よりもっと小さいときみたいな印象を受けるよ。子どもって、後ずさりして助走してハードルを越えるみたいな感じする。その後ずさりのとき、基地みたいなところに戻る、その基地が養育者って感じがする。

 彼の母親はごく短時間で彼を床におろす。それから言う。子どもだけかねえ、基地に戻るのは。そして基地は養育者だけでもないでしょう。まあね、と私はこたえた。なぜだか少し恥ずかしかった。自分が基地に戻るところを見られたわけでもないのに。