傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

やさしさを集める

  新聞を読む。正確には、めくる。読むのは一部だ。見出しに目をとめる。文章の全体を視界に入れる。二秒あれば自分に必要な記事かそうでないかがわかる。この作業をはじめて二年目、われながら手慣れたものだ。わたしはそれを読む。わたしははさみを手に取る。わたしはそれを切り取る。「十二歳も十四歳も信じよう」。作家のコラム。子どもによる殺人事件を受けて、年齢で区切った名付けをするべきではないという内容。わたしも十四歳だ。何冊目かのファイルはすでに厚くふくれあがってごわごわしている。わたしは新聞のインクのついた指をぬぐい、それからベッドに横たわる。ファイルを胸の上に置く。新聞記事、ときどき雑誌の記事、たくさんあってうれしい。

 わたしはやさしさについて考えていた。ずっと考えていた。いつからか覚えていない。やさしいというのはごはんを作ってくれることではない、とわたしは思った。十歳くらいだったと思う。やさしいというのはお洋服を買ってくれることではない。ではなにか。今でもわからない。でもたとえばそれは「ひとくくりにしててきとうな名前をつけて放っておかない」ということだ。「たとえば」の内容をたくさん集めて、わたしは少し安心する。

 わたしの母はわりと難しい人だと思う。母はたとえば、かわいいとか好きとか言ってくれる人ではない(もちろん、かわいいとか好きとかって毎日言うのがやさしいということではない。それくらいはわかっている。もう十四歳なのだ)。

 母は叱るためのことばをたくさん持っている。母は褒めるためのことばをたくさんは持っていない。たぶん。すてきな服を着て会社に行くきれいな母をわたしは好きだったのに、おかあさんはどうして家にいないの、とだだをこねたことを覚えている。わたしが小さかったころ、母親というものはおおむね、パートタイム程度に働くものだった。すると母はわたしの名を口にした。すごくあきれた声だった。お母さんは仕事が好きなのよ。

 わたしにきょうだいはなく、友だちは楽しく笑って話すもので、その話に「やさしさとは何か」は含まれない。だからわたしは新聞を切り抜く。「学ぶとは、どういうことか」。建築家が夏休みに寄せて書いた記事だ。わたしははさみを使う。わたしは学校の勉強の半分くらいは要らないんじゃないかと思っているし、中学校の教師の振りかざす規則に納得もしていない。わたしの欲しいことばは学校より活字の中にある。だからわたしは本を読む。たくさん読む。そして新聞を切り抜く。

 新聞をリビングのラックに入れる。台所に母がいる。おかえり、とわたしは言う。ただいま、と母が言う。振り返りはしない。ただいまと言うときに毎日振り返ってにっこり笑うタイプじゃないのだ。というか、だいたい仏頂面だ。母がぼそりと言う。新聞の切り抜き、またしてたの。社会科の勉強にいいわね。

 母の言うことはまったく見当違いだ。たいていの場合。わかってない、とわたしは思う。そうかな、とわたしは言う。母はわたしの語尾をとらえない。わたしの疑問をつかまえてはくれない。鮭を焼いているにおいがする。あとは残りものの肉じゃがと簡単なサラダだ。母は忙しい。

 母はあまり話さない。食事を終えると母は、はい、とちいさな封筒を渡す。今週末はわたしの誕生日で、母は出張でいない。ありがとうとわたしは言う。中身は図書券だ。このところ毎年そうだから。お誕生日に何をあげるか考えなくていいって、ラクだろうな、とわたしは思う。

 母が別の包みをテーブルに置く。それから席を立つ。わたしはそれが自分のためのものだとわかるのにいくらかかかって、それから、あわてて包みを破く。母が振り返って顔をしかめる。包みはもっと丁寧にあけるものよ。わたしはこたえない。中身は小さいぬいぐるみだった。わたしがうんと小さいときに好きだったキャラクターだ。保育園の先生にその絵を描いてもらった。おかあさんもかいて。わたしがねだると、母はうるさそうに、お母さんは絵が描けないの、と言った。いいもん、とわたしは言った。じぶんでかくから、いいもん。ほんとうは絵を描いてもらいたかったんじゃなかった。

 わたしはぬいぐるみを見る。母の声が聞こえる。要らなかったら捨てなさい。ううん、とわたしは言う。これ好き。母はそのまますたすたとお風呂に向かう。

 わたしは白い紙に、理解、と書く。円でかこむ。やさしさ、と書く。円でかこむ。そのふたつはずれていて、でも重なっている。