傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

好都合な不自由

 もう誰か決めてよお、わたしに向いてる仕事、勝手に決めてくれていいから、すごいAIとかが決めてくれたら、その仕事、大人しくやるからさあ。彼女はそう言い、みんなが笑った。私はあんまり笑えずに、いやいやいや、と冗談めかして発言した。それ地獄だから、SF映画とかでさんざん描かれてきた人類最悪の未来だから。

 ぜんぜん最悪じゃないしわたしには最高ですよ。彼女はそう言う。私の半分弱の年齢の大学生である。私は母校に依頼され、卒業生として学生たちの就職相談に乗った。母校の企画の趣旨により、その場にいるのは女子学生と女の卒業生ばかりだった。終わってから非公式のお茶会に流れて、出てきたせりふが「誰か仕事決めてほしい」。就職活動に疲れたのはわかったけれども、その発想はないだろう、と思う。

 人生は自由を勝ち取る戦いの連続であり、職業選択の自由なんて自由のなかでもいちばん基本的なやつだ。誰かに職を決めつけられるくらいなら私は無職を選ぶ。どんなに優遇されたって自分が選んでいないところで働きたくはない。自由は私がもっとも求めるものであり、なければいずれ死に至る必須栄養素でもある。その前にあって待遇などたいした問題ではない。好待遇の家畜よりのたれ死にする野良犬になる。職業的適性?そんなの他人に決めてもらうことじゃない。自分で判断することだ。そして適性は所与の前提ではなく、努力して手に入れるものでもある。

 そう言いたかった。でも言わなかった。自分の発想が暑苦しいのは百も承知だし、この大学生たちはそのような暑苦しさを目撃したときには感じよく笑って右から左に流すんだろうと予測したからだ。みんな賢くて、みんな感じがいい。大学生だけではない。職場に新卒が入ってくるたびに「賢いなあ」と思う。私の知る若者たちは、遠回りをせず、高望みをせず、見本がある事項を好む。見本のない仕事を任せるとすごくストレスになるみたいだから、可能なかぎり私が先にやって、それから部下に渡すようにしている。プレイングマネージャだから、いいんだ、と思っている。それに私は失敗も試行錯誤もみっともない姿になるのも嫌いじゃないから、いいんだ。若者たちはそうじゃない。賢くて効率的で損になることをしない、洗練されて格好の良い、私のまわりの若者たち。

 わたしの夢はね、槙野さん。誰かに仕事を決めてほしい女の子が、言う。あなたの仕事はこれがいい、住むところはここがいい、この人と結婚するといい、って、AIが決めてくれる社会に住むことです。そのAIは出しゃばらなくって、いかにもわたしが自分で決めたみたいなふりをしてくれるんです。自己決定はいいものだという価値観はわたしも持っていて、自分のことくらい自分で決められるという自己像がほしいので、決めてもらった上で自分で決めたような気になれるのが最高に素敵だと思うんですよ。

 私は彼女を見る。彼女はうっそりと笑う。きれいな女の子だ、と私は思う。流行を押さえたほどよい化粧、すらりとした、けれど過剰に痩せすぎてはいないからだ、確実に周囲から浮くことのない服装。逸脱しているのは発言だけだ。自己決定がものすごく好きでなければ自己決定を投げ出したいという発想はかえって出てこないよなあ、と私は思う。自己決定をつきつめて考えすぎて疲れたか、自己決定に関する自信を喪失するような体験があったか、どちらかだな、と思う。でも訊かない。私は彼女の何でもないのだし、彼女と会うことはきっと二度とないのだし、彼女だってそういう後腐れない相手だからちょっとおかしなことを言ってみたのだろうから。

 膨大な変数を内蔵し、自我はなく、もっとも適切な選択肢を示すことができ、報酬は要求しない知性。いやだな、と私は、もう一度思う。そんなのに慣れたら、次は「適切な選択肢」の、その適切さの基準まで、誰かにあずけたくなるにちがいない。だって、何が適切かを判断するのは、面倒なことだからだ。個別の価値判断もめんどくさいけど、価値判断の根元を作ることはもっとめんどくさい。そうして価値判断の根元を持っていない人間は、早々にだめになるし、どうかするとそのために立ち尽くして死ぬんじゃないかと思う。だって、価値の根元がないなんて、生きる根拠をなくすようなものだ。空想の中のAIが判断を放棄した私を振りかえり、代わってあげますよ、と言う。あなたではなくわたしが人間です、そちらのほうが適切です。