傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

世界に残された新しい部分

 ちょっとした手当や雑収入が年間十万円ばかりある。ふだんの予算に組みこんでいないので、ただ口座にたまる。このお金は貯金なんかしない。年に一度、それまでしたことのない体験をするのに使う。どうしてそのように思いついたのかは覚えていない。物を買ってはいけないのではないが、目的はあくまで体験でなければならない。体験の質は問わない。気になっていたこと、やろうかやるまいか迷っていたこと、ばかばかしいけどやってみたいこと、なんでもかまわない。ただ「したことがない」かつ「してみたい」という条件はどうしても満たさなければならない。

 若く貧しかったころ、この十万円は私の聖域で、ふだん堅実に暮らしていても、年に一度ばかみたいなことにぱーっと遣って気を晴らしたものだった。はじめて一人で海外に出たのも、ドレスアップしてオペラを観たのも、自分の意思と自分の財布で星つきのレストランに行ったのも、英会話のプライベートレッスンを受けたのも、まとまった金額の寄付をしたのも、まとまった金額の賭けごとをしたのも、この年に一度の個人的なお祭りでのことだった。そうそう、花火の打ち上げに参加する免許を取って、花火師の言うとおりに打ち上げ用の筒を設置して、あの丸い火薬に火をつけたこともあった。

 祭りの性質上、以前のネタは繰り返すことがないので(継続してやりたくなったことは通常の家計に組み込む)、年をとって経済的に余力ができたらふだんの遊びと組み合わせる楽しみも出てきた。旅先で珍しい経験をするのに遣うだとか、親しい人の趣味に便乗するだとか。そんなわけで祭りの時期は毎年ちがうんだけれど、時期を選ばず一人ですることなら年末年始を選ぶ。年末年始の祝祭感にぶつけると気分がさらに盛り上がるためである。今年はどうしようかなと今から考えている。世界は広く人生は楽しいなあと思う。

 私がそのように話すと、よく飽きないねと友人は言う。長く繰り返して額面も据え置きなら飽きると思うんだけど。初体験じゃなくちゃいけないのがポイントだと、私は教えてあげる。年とって十万の価値が下がるのは、まあしょうがない、ていうか、同じ額面のお金の価値が自分にとって下がったのは貧乏から脱したせいなのでおめでたいことだ、年とったぶんいろんな経験を積んでるし普段の娯楽費も増えてる、だから、たとえば普通に旅行をしてそこに新しい何かを十万で足せばいい。そしたらじゅうぶんわくわくできる。

 今年はどうするのと友人が訊く。自転車かスカイダイビング、と私はこたえる。自転車については、いわゆるママチャリしか乗ったことがないまま生きてきたのだけれども、先だってマウンテンバイクに乗る機会があり、「町中でも良い自転車に乗ったら楽しいよ」と聞いて、なんだかその気になった。クロスバイクというのを買って自転車通勤をしてみたい。でもスカイダイビングも気になる。

 楽しそうだねと友人は言う。楽しいともと私はこたえる。そのうち楽しくなくなるよと友人は言う。友人は高給取りである。私にとってこの場は年に一、二度の贅沢なディナーだけれど、友人にとってはそう珍しくもない外食にすぎない。私は友人を見る。実年齢より若く見え、顔色も明るい。こなれた着こなしで、髪なんかさっき美容院から出てきたみたいだ。それでも(あるいはだからこそ)、その内側の疲れがよく見えた。この人は倦んでいる。何もかもに慣れて、何もかもが新鮮さをうしなった世界にいる。

 心配することはない。友人は言う。あと十年もすれば身体のあちこちにガタが来て、あっちが痛いこっちが痛いと騒いで退屈する暇がなくなる。健康と長生きが何より大切になって、健康法のジプシーみたいになる。それまでやり過ごせばいい、こうして人と話して、酒を飲んでぼうっとして。

 そう、と私は言った。否定でも肯定でもない便利なせりふを使った。三十四十で人生に飽いた人が五十になったからといって健康のために奔走するとは思われなかった。そんな都合の良い話のあるはずがなかった。五十になろうと六十になろうと、たとえ重い病を得ようと、そうかそうかとうなずいてひととおりの医療を受けてすぐ退屈するに違いないと思った。でも言わなかった。代わりにこう言った。病気になるのも死ぬのも新しい経験だからね、せいぜい楽しまなくてはね、そうだ十万あったら人間ドックの、脳の検査とかついたやつ受けられるんじゃないかな、私やってみようかな。