傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ふられる時に本性が見える

 会社を辞めることにした。検索して提出書類を作成したものの、よく考えたら会社から書式を指定されるんじゃないかと思って、仕舞っておいた。最初は直属の上司と人事に話をするだけなのだし。

 仕舞っておいた書類の退職理由の欄には「一身上の都合」と書いた。ほんとうは理由などない。転職先は決まっている。今より自分に合うところに行くつもりだけれど、実際のところは入社してみないとわからない。でも他人に向かって「どうなるかわからないけど職場を変える」と言うわけにもいかないので、「転職が決まったから今の会社を辞める」と言う。

 待遇は上がるが、今後はわからない。待遇は実のところ転職の要因ではない。今の職場が嫌でたまらないわけでもない。それなら転職先が決まるより先に辞めている。そういう性格なのだ。

 結局のところ、単に「移りたいから移る」というのが真実だ。他人にはわかってもらいにくいけど、僕には立派な理由だ。放浪癖があり、確定された未来のようなものが見えると全力でそこから逃げたくなる、そういう人間だってこの世にはいるのだ。のたれ死にという言葉を美しいと僕は思う。野を歩きそのまま倒れて死ぬ。素敵だ。「俺が死ぬ日は大雨にしてやる」と言った作家もなかなかのものだけど、僕は晴れた日がいい。晴れていて、死体がすぐに乾くといい。

 僕は結構な社会性を備えているので、シリアスな顔をして直属の上司と面談し辞意を告げた。上司は、そっちかー、と言った。こういう呼び出しは辞めるか結婚するかなんだよねえ、あとは休職したいとか。えっと、次のところの入社予定日はいつ?了解了解、じゃあよしなにしておく。人事のね佐藤さんに連絡しておくね、今日午後くらいにきみからも連絡してね、うんCC入れてね、じゃあ。

 面談は一瞬で終わった。止めないのか、と僕は思った。べつに止めてほしかったわけじゃないけど、上司は僕を評価してくれていたから、なんていうか、ちょっとは惜しまれたい気がした。

 次に面談した人事の偉い人はとにかく無礼だった。話すのははじめてなんだけど、あまりの尊大さに仰天した。そりゃあ、出て行くって言われたらいい気はしないだろうけど、最低限の人間対人間の礼儀ってものがあるだろ。所定の書式はたしかにあって、偉い人はそれを指ではじいて寄越した。紙は計算したようにテーブルを滑り、床に落ちた。僕はさわやかに礼を言いながらそれを拾った。僕はとにかくさわやかに振る舞うことが得意なのだ。

 新しい職場に入る日にSNSの所属欄を書き換えると、僕の前に転職した元同僚からメッセージが入った。辞めた者同士で会うことにした。上司からの慰留、ゼロでさあ。僕は笑い話のつもりで言った。僕は自分のことを、少なくとも仕事に関してはドライだと思ってたけど、そんなことなかったね。止めてもらえないとちょっとさみしいくらいには感情的なんだ。「辞めないでほしい」くらい言ってほしかったな、うん。けっこうがんばって働いてたし、成果も出してたつもりだけど、そうでもなかったのかなあ。

 元同僚はいかにも僕を軽蔑した顔になり、それからこたえた。お前、それ、恵まれてるから。恵まれてる?僕が目で問いかけると、元同僚は言った。俺のときは、話したこともないお偉いさんが出てきて、俺が辞めたら損失が何百万と出る、だから訴えるって言った。ドスの利いた声で怒鳴られた。完全に恫喝だった。

 まじで。僕は訊く。まじで。同僚はこたえる。もちろん、訴えるなんてできっこない。ただの嫌がらせだ。でも転職という疲れる場面でなおのこと疲れたことはたしかだ。馬鹿だなって思った。狭い業界で、専門も決まってるんだから、将来また戻ったり求人の対象になることだってあるのに、あんな嫌がらせしたら何があっても絶対戻らない。それどころか人から「あの会社どう?」って言われたら「やめとけ」って言う。ああいうのが責任ある立場にいるんだから会社そのものへの評価を下げるべきだと俺は思った。

 雇ってた人間に辞めるって言われるのは、いわば振られる側だから、おもしろいはずがないんだけど、そういうときに本性が出るんだよ。お前の上司はお前が気持ちよく転職できるように振る舞ったんだろうと俺は思うよ。辞めない見込みがないなら引き留めてる暇はない、嫌な目に遭わないように手を回して気持ちよく見送る、それが相手のためだろ。

 そこまでいい人かなあ、食えない上司だったけどなあ。そう思いながらSNSを開くと、件の元上司から短いメッセージが届いていた。転職おめでとう。新しい会社で虐められたら、話くらいは聞いてあげよう。