傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

恐がりやの悪徳

 手術か経過観察かを選ぶことになります、と医師は告げた。よし、手術しよう、とわたしは思った。経過観察という状態はどうも性に合わない。さっさとかっさばいて取ってすっきりしたい。少々のリスクや傷跡は、まあしかたのないことである。死ぬ可能性はいつだってあるのだ。毎年更新している遺書を書き直しておこう。そこまで考えて時計を見ると、医師のせりふから五秒が経過していた。
 やっちまいましょう、手術。そう宣言した。医師は職業的な笑顔で、それではゆっくり決めてください、と言い、診察を終了させた。何が「それでは」だ。もう決めたと言っているのに。
 自分の病気に関する情報はいちおう集めた。ただ、わたしは思うんだけれど、情報収集能力や情報処理能力があればものごとが決められるというものではない。情報がじゅうぶんに与えられて決断するという場面はむしろ少ないからだ。わたしたちはしばしば、決定のためのリソースを欠いたまま岐路に立つ。何かをすることはもちろん本人の意思だけれども、しない、というのも、一見決めていないように見えて、結局のところ本人の決定の一種である。それなら明確に決めたい。
 たいていのものごとは放っておくと現状が維持されるように見える。けれども実はそうではない。現状維持というのはまぼろしだ。わたしたちは刻々と老いて死に向かっているのだし、周囲の環境だって「維持」なんかされるはずがない。わたしたちは時間が経つにつれ少しずつ可能性をうしない、選択肢をうしない、何かを積み上げている。良くも悪くも。それなら選択肢をきっちり見て能動的に決断したほうが寝覚めがよい、とわたしは思う。
 それはさあ、と友人が言う。思いきりが良いように見えるけどさ、最適なタイミングまで待てない愚か者のやり方じゃないかなあ。めったなことでは死んだりしない手術だってあんたは言うけど、死ななきゃいいってもんじゃないでしょう。メスを入れるって結構なことだよ。切らなくて済むならそれに越したことはない。ていうか、手術するならするで、まあいいんだけど、なにも告知されたその場で決める必要はないでしょう。ちょっと間を置きなよ。誰かに相談するとか。あんたと一緒に住んでる男はなんだ、棒っきれかなにかか。
 とにかくさっさと切っちゃいたいの、一日も早く。そう答えてからわたしは、その理由を思いついて、話す。わたしは、手術そのものより、「結局は手術しなければならないかもしれない」と思い続けているほうがいやだ、というか、「切らなくて済むかもしれない」と期待してあとでがっかりするのがいやなんだと思う。
 あんたって、こらえ性がないよね。友人が言う。なんていうか、確率の低い希望に対する耐性がない。あんたから聞いたぎょっとするようなせりふ、だいたいその耐性のなさによるものだって気がしてきた。たとえばさ、仕事の愚痴を言う人がみんな職場改善したいとか転職したいとか思ってるわけじゃないんだよ、なんとなく「もっとましにならないかな」って思ってるだけなんだよ、あんたには信じられないだろうけど。そうだ、「結婚したい」っていう人に「じゃあ具体策を練ろう、私の知り合いを紹介しようか?あれはどう?これは?」って提案しだしたこともあったよね。「結婚したい」って口にしたほうはさ、「今すぐさまざまな方法を試し一定期間のうちに伴侶を見つけたい」とは言ってないわけ。あの話しぶりだと、「自然にいい人があらわれてなんとなくうまくいって結婚できたらいいのにな」っていう程度だったんだと思う。あんたはそういうぼんやりした希望みたいなものを人生から排除してるんだよ。
 だってそんな、口あけてたら飴が落ちてくるみたいな現象、あるわけないじゃん。わたしはそう反論しかけ、それから口をつぐんだ。あった。想像さえしていなかったような、都合の良いお話みたいな幸運は、わたしの人生にも、あった。それは交通事故みたいに突然やってきた。しかも一度ではなかった。飴どころか、もっとずっと、いいものだった。
 友人は言う。世の中はけっこう甘い。世界はときどきやさしい。フィクションならご都合主義だと言われるようなことだって起こる。それをあてにするのはまちがっているかもしれないけど、そんなのあるわけないって決めてかかって幸運をぞんざいにあつかうのも正しくはないと思うよ。いっけん勇ましいように見えるけど、恐がりやの過剰防衛というものだよ。決断力があるのはとってもいいことだ。いいことだけど、あんたの場合は、もうちょっと世界に期待したほうがいいと思う。