傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

眠り熊クラブ

 寝床を貸している。

 一昨年、ベッドを新調した。一人暮らしのちいさな寝室いっぱいにダブルサイズを置いている。わたしは眠るのに苦労するたちで、何時に就寝しても平日は朝五時に目が覚めてしまう。なんなら休日にも覚めてしまう。そうして仕事でしばしば終電帰り、タクシー帰宅をする。寝不足である。目の下の隈はもはや宿痾、わたしの人相の一部になって長い。快適な睡眠へのあこがれにまかせ、マットレスはもちろん、布団も枕もカバーもいいものを買った。

 そうしたら人が寝に来る。この場合、寝るという語はスリープ以外の意味を含まない。わたしのいない間に来て帰る。そういう人間がふたりいるので、合い鍵を渡し、好きに使ってよいと言ってある。わたしが帰宅すると、他者の気配の残滓だけが残っている。

 ふたりをA、Bとしよう。Aは昼間に来る。当直あけに来てソファで眠る。家に帰ると幼い子が喜んでまとわりついてくるからだという。ふだんろくに眠れないので、当直の日に泊まってくれる実母にすべてをまかせて眠りたい、という。あなたの家はとても静かでよく眠れる、とAは言う。そりゃあ、誰もいないからね、とわたしはこたえる。Aは「ほどよいところで起きられるように」ソファで眠る。わたしのソファは肘おきのついているタイプだ。Aはくるりと背中を丸め、ソファの座面にすっぽりはまりこむようにして眠る。Aは快活でよくしゃべる人間だが、残された気配はうっすらと冷たく、なんとなし清潔なところがある。

 Bは夜に来る。わたしの出張時に来て泊まる。Bは奇妙なくせを持っている。ベッドでまっすぐ横になって眠るのに、無意識のうちに座り、直角の姿勢で朝を迎えるのだという。立ち歩くこともあるらしく、ときどき浴槽にはまった状態で目が覚めたりもするらしい。隙間があると入ってしまうから、安全のため自宅のベッド下は収納で塞ぎ、いくつかの扉に南京錠をつけて眠る。誰かと眠ると気味悪がられることもあって、Bはいつも完全に孤独な睡眠を求めている。でも飽きる、とBは言う。いつも同じところで眠るのはね、飽きる。眠っているあいだ少しだけ意識があるからかな。だからあなたの家はとてもいい。そうかいとわたしはこたえる。Bの残す気配は、触れるとそわそわするような、明るくて不安定な印象を与える。

 わたしはAのように不規則な時間にぱっと眠ってさっと起きるような器用さを持ち合わせていないし、Bのように意識が残っているような眠りかたもしない。わたしの眠りはなかなか訪れず、訪れたときを覚えていないまま早朝を迎えている。夢を見ることもほとんどない。電源が落ちたように眠り、電源を入れられたように起きる。その間は無である。いちいち死んでいるんじゃないかと思うくらいだ。

 どうして他人に寝床を貸すのかといえば、とくに理由はない。ただ、わたしにとってはよい習慣だと思う。定期的に他者の気配があると、なんとなし気分がよい。誰かが始終近くにいるとわずらわしい。それなのに、自分にとっていやではない他人が自分の留守中に自分の部屋で寝ているのは気分が良い。自分で思っているより孤独を好まない人間であるのかもしれない。

 出張の予定が入ると、A・Bと共有しているオンラインのカレンダーに記入する。AとBはわたしの家で眠りたい日に記入する。カレンダーには名称をつける必要があったので、「眠り熊クラブ」とした。わたしたちが冬眠する熊のごとく眠れますように、というていどの意味である。けれども、わたしたちは熊ではない。残念ながら。

  いったい、この世の誰が満足に眠れているのだろうか。そう思う。冬眠する熊のような人はいるのかと思う。中学生の時分に読んだ小説に、人間には放っておくと一日二十四時間ではなく、二十五時間の周期を刻んでしまうエラーが内包されている、と語る少年が出てきた。少年はどうしたことか、みんながうまくごまかしている一時間をどうしてもやりすごすことができない。わたしはその頃からうまく眠れなかったから、はらはらしてページをめくった。するとその少年はあっけなく死んだ。眠れないから死んだのだ。どうしよう、と思った。がんばって死なないようにしよう、と思った。

 結果として、わたしは死ぬほどのエラーを内包していなかった。だからといって苦しくないのではない。相変わらず眠れない。病院に行ったり運動したりしてどうにかごまかしているだけである。わたしはうまく眠れない。AもBもうまく眠れない。だからAとBはわたしの家で少し眠る。わたしはAとBの気配の残された日にいつもより長く眠る。