傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

退屈?教養が足りない。

 職場のみんなの夏の休暇の日程が決まった。私は少しずらして九月に取ることにした。お盆に休みを取らなければならない理由がないので、九月でもよろしい。これはまったき真実であって、誰にも気を遣っていないのだけれども、八月に新婚旅行に行く部下がどうも自分のせいだと思っているようで、ほんとすみません、と何度も言う。まったく済まなくない。私はしみじみと言う。休暇は労働者の権利で、調整するのは私の仕事のうちだから、何も気にしなくて良いのです。一週間以上の旅行につきあってくれるなんてこと、家族だって稀なんですから、新婚旅行の次の機会は十年後かもしれませんよ、夫婦そろって取れる休みも貴重になるだろうし。

 じゃあ、槙野さんは、ひとりでどっか行くの?横にいた同僚がそう訊くので、そう、と私はこたえる。誰かと行ければ万々歳、デフォルトひとり旅。社会人になってから人と二泊以上の旅行をしたのは数えるほどしかない。だから友だちの長期海外出張や駐在があったら狙いを定める。向こうはずっとその国にいるので、行けばかまってくれるから。

 なんだかねえ、と私はこぼす。旅行、好きなんだけど、ちょっと飽きた。悪い意味で慣れた。どこに行ってもけっこう楽しめるけど、その反面、だいたいこんなものだろう、と思ってしまう。死ぬまでに個人旅行で行ける範囲に行き尽くしてしまうんじゃないかって、心配になる。ほかの娯楽もそう。本を読んでも若いころほど衝撃を受けない。何か見に行っても息をのむようなことはあんまりない。バンジージャンプとかグライダーとかのスリルも悪くないんだけど、本格的にやろうという気にはならなかったなあ。

 退屈なの。同僚は尋ねる。退屈しそう、と私はこたえる。世界を知ったつもりなんかないけど、死ぬまでに体験できることの見通しがついてしまったような気はして、そのうち退屈しそうで、怖い。それはねえ、と同僚が言う。教養が足らないんですよ。

 何に対して、と私は訊く。あなたの容量に対して、と同僚はこたえる。若者が旅行して楽しいのなんか当たり前だよ、世界を知らないんだから。何やったって怖いし、何やったってうれしい。ちょっと失敗すると「二度と旅行なんかするか!」ってぷりぷり怒ったりもする。要するに経験が少なくて敏感なんだ。だからあんまり工夫は要らない。ふだんとは違う世界に投げ込めば心は動く。動きかたは人によるけどね。

 年くって若いころと同じように旅行したってそのまま同じように楽しくなるわけがない。だって、未知じゃないんだから。力量がついちゃってるんだから。いろんなことが怖くなくなったなら、いろんなことが新鮮じゃなくなったってこと。そこで必要なのが教養です。

 年をとったら自分が何に関心があるか、何を喜ぶかなんて、わかってるよね。わかってなかったら人生を振り返った方がいいよ。そして自分が喜ぶことの範囲を広げていかないと何も楽しくなくなるんだよ。

 旅行先で町歩きして買い物してたなら、建築やプロダクトデザインの勉強をしたらいい。美術好きなのに美術館が新鮮じゃなくなったならスレちゃってるんだろうから、現代ばかり見てた人は古典にするとか、ちょっと視点をずらしたほうがいい。自然なんて一定の不自由さに耐えられる人間にとってはだいたい気持ちいいものなんだから、退屈するとしたら動植物や環境についてよく知らないからじゃないか。あとは体力と生活力が足りてない。体力があれば砂漠でテント泊とかインドの田舎とか、最高に楽しい所に行ける。そもそも語学ができないよね、槙野さんは。下手な英語で押し切るのも最初は楽しいけど、それにも飽きるよね。

 そうかあ、と私は言う。たしかに足らないわ、教養。つけなよ、と同僚は言う。年取って衰えるのは体力と鋭敏さ、増えるのは頭と気持ちの容量。容量が増えただけ教養を足してやらなきゃ、そりゃ飽きる。しまいには生きてるのに飽きるよ、だからその前にがんばれ。楽しむのにも素養がいるんだ、ぼけっとしてて楽しませてもらえると思ってるやつは間違ってる、そして、過去と同じ工夫と労力でいつまでも楽しめると思うのもおんなじように間違ってるんだよ。

 あのう、と新婚の部下が言う。僕わりと旅行するんで、新婚旅行先もぶっちゃけ新鮮じゃないんですけど、僕はどうしたらいいですかね。なんか勉強とかしたほうがいいんですかね。私はあきれかえって、言う。そんなの必要ないに決まっているでしょう。新婚旅行の目的は旅行じゃありません。おたがいに集中してりゃあいいんです。何を考えているんですか、まったくもう。