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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

前菜のない人生の話

 仕事で知りあった人が自分のプライベートについて話すのはおおむね、好意のあらわれである。自己開示というやつだ。まれに「もう黙れ」という意味をこめた開示もあるが、継続的に楽しげに自分について話すのはだいたい好意によるものだ。伴侶の話だとか、子の話だとか、年齢によっては孫の話だとか、あるいは近ごろの恋人や親しい友人の話だとか。そういう話をする合間には、信条、能力、具体的な価値判断など、無難ではない話題も出てくる。そのようにいろいろな話題を共有する相手を友人と呼ぶのだとわたしは思う。
 目の前の女性は聡明で魅力的な人だ。手足が人形めいて長く、なかでも指の美しさときたら格別で、かぼそいのに力強く、神経がいきとどいている。シャープな印象に比して輪郭や目はまるくて可愛い(胴体だってみんな褒めるんだろうけど、わたしは、肩幅も胸も腰も薄い、いわゆるモデル体型を個人的に好きではない)。
 彼女は知り合って一年のあいだに何かと自身のことを教えてくれた。敬虔なキリスト教信仰と科学的な態度を同居させており、二十代で結婚と離婚を経験、現在は事実婚で、子はなく、両親は神戸にいる。夫は同い年で、職業は雑誌の編集者。最近の夫婦の流行はおかしなLINEスタンプを探すこと(スマートフォンの画面を見せてくれた)。愛犬はコーギー、赤っぽい毛色、今年で四歳、名前はあんずちゃん。
 けっこうプライベートな話だ、と思う。そういうことを話してくれるのはわたしを気に入ってくれているからだと思う。わたしだってこの新しい知人と友人になりたい。自己開示をやり返したい。けれども、わたしには平和に楽しく開示できる背景があんまりない。ていうか、ほとんどない。両親はすでに亡い。母は遺伝性の病気を持っていた。わたしもその病気を受け継いでいるかもしれない。結婚はしていないし、子もいない。自分でもびっくりするくらい、明るい背景がない。こんなに明るい人間なのに。せめてきょうだいでもいれば話題になるけれども、あいにく一人っ子だ。現在のパートナーは同性だが、自分を同性愛者とくくることもできない。異性を好きになることもある。パートナー以外の他者にセクシャリティを開示するつもりはない。というか、セクシャリティとか決めてない。ついでに結婚という制度にも賛成していない。
 わたしは好き勝手に生きてきた。たいそう楽しい人生を送っているつもりだ。後悔というものはほとんどなく、今後もそのつもりである。そりゃあ、死に至る病の遺伝子なんか持ってないほうがいいけど、それがあるのがわたしなのだ。長い長いあいだ苦しんで死ぬ病気が発現するかもしれない遺伝子、母の命を奪った病の遺伝子の上にわたしが乗っかり、へらへら笑って人生を歩んでいる。これらの事実は矛盾するものではない。わたしそのものだ。母は世を去る前、自分の病気が一定の確率で遺伝すると承知していた、と教えてくれた。わたしを産むか否か迷っていたと告白してくれた。産んで正解、さすがわたしの母、まったくもって正解である。わたしがこの先もし母と同じように発病したとしてもまったく傷つかない強度で、母の選択は正解である。
 正解だけれども、知りあいから友人になろうかという人とのランチの場で開示するにふさわしい内容ではない。クソ重い。もっと軽い話がほしい。前菜みたいなやつ。わたしがそのようにぼやくと、うさぎか何か飼えばいいじゃん、動物は無限の話題を提供するよ、とパートナーは言う。しかし、わたしは動物の毛のアレルギーなのだ。同居できる生物はヒトが限度である。ハダカデバネズミとかなら可能かもしれないけど、写真を見るかぎりあんまりかわいくない気がする。あと寒そう。
 わたしがそう言うとパートナーは笑い、それから、言う。そんなさあ、コース料理みたいに、軽いものから順繰りに出して、問題ないと判断したタイミングでメインを提供、のちデザート、なんて気を遣う必要、ないよ。たしかにそういう手順で供される会話は格好良いし、誰でもOKを出すでしょう。でも、手持ちにない種類の話題を無理に作る必要もない。あなたはもう強くて大人なのだから、その場の気分で自分の話をして、それで引かれたり嘲笑されたりしたら、相手と親しくなるのをやめればいいだけなんだよ。人生が重いのはあなたにかぎったことじゃない。誰の人生だって、ほんとうは重い。寄りかかられたわけでもないのに重さを否定する相手は、あなたが自分の話をするのに値しない人間なんだよ。