傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ピーマンの焼きびたしの作りかた

 ピーマンのあれを作りたい、とぼくは言う。あれって、と妻は訊く。あたりまえだ。質問が具体性を欠く。ぼくは反省しながら質問をおぎなう。つまり、ぼくは、時々きみが作るピーマンの、ピーマンだけの、あれを作りたい。苦みが残ってて、なんだか甘いやつ。
 よしくんはばかなの、と妻は訊く。よしくんというのはぼくのことである。ばかではない、とぼくは率直に述べる。少なくとも完全な無能ではない。ただ調理と味覚の連結にいささかの不備があるだけだ。きみは経験が不足している部下にもそんな物言いをするのか。
 申し訳なかった、と妻はこたえる。謝罪して訂正する。よしくんは決してばかではない。わたしは良くない冗談と嫌味を言った。わたしにとってはすごく単純なレシピだから。でもばかなんて言うべきじゃなかった。わたしが間違っていた。
 その件はもう終わりにしよう、とぼくは言う。そんなことよりピーマンだねと妻はこたえる。ピーマンだ、とぼくは諾う。まずピーマンひと袋のヘタを切り花落ちを軽く抉り、半分に割り、種とワタを手で掻いて、さらに半分、すなわち四分の一にする。妻は手振りつきで解説し、ぼくは右手を立てる。花落ちとは。妻も右手を立て、果実様の野菜には頭、いわゆるヘタと、反対側に花が咲いていたところがある、と説明する。包丁の刃の下で抉ると食感が良い。ここまではよろしいか。
 よろしい、とぼくはこたえる。ほんとうはどの程度を不可食部位とすべきか疑問が残っているが、それは個別具体的に調理者が判断する必要があるのだと考える。
 妻は満足そうにテレビをつけ、お気に入りの映画を再生しながら、早口で言う。あとは小さじ一杯程度の胡麻油を熱してジャーってやって焼き目がついたら、本返しと出汁いれて冷蔵庫。あるいは白だしでばーってやる。味が馴染んだら鰹節や生姜を載せてお召し上がりください。以上。
 ぼくは映画の再生を止める。妻はリモートコントローラを振って抗議の意をあらわす。ばーっとかジャーって、とぼくは主張する。そんな説明は手抜きだ。ぼくにはわからない。
 よろしい、と妻は言う。リモートコントローラで自分のこめかみを軽くたたき、言う。よしくんの調理能力は飛躍的に向上しているし、わたしのスーツの埃まで取ってくれてありがたいと思う。埃だけじゃない、とぼくは控えめにことばをはさむ。きみにはアイロンという概念がないし、ニットをタオルやなにかと一緒くたに洗ってすぐだめにする。それから、きみのネックレスのチェーンが絡むのは保存状態に問題があるからだ。なにより、スカートのしつけ糸を取らずに着てクリーニングに出して、取りに行ったぼくがどれほど恥ずかしかったか理解してほしい。クリーニングの水野さん、わざわざしつけ糸つきで返してくれたんだよ。新品をそのまま着ない潔癖な女性だと思って。そんなわけないのに。
 妻はリモートコントローラを三回振り、しつけ糸なんて、と大きな声を出す。それから口をとがらせ、ごめん、とつぶやく。
 ぼくは大きな声が嫌いだ。とくに女性の、甲高い声が。妻にそのことを話したのは一度きりなのに、よく覚えているものだ。黒っぽい色の服の埃は目立つから一度着たらブラシをかけるべきだという話は結婚してから十三回してるんだけど、それを覚えてないのは、まあいいんだ。ブラシなんかぼくがかければいいし、埃がついた服で仕事に行っても、たいしたことじゃない。ぼくは絶対にしないけど。
 ぼくは「なんともないですよ」という顔をする。「それはぼくの個人的な事情で、たまにきみの声が大きくなるのはぜんぜん悪いことじゃない」という顔をする。だってそうじゃないか。妻がちょっと声を荒げたくらいでびくびくするなんて、まったく不当なことじゃないか。ぼくはそのように自分に言い聞かせる。
 妻はばつの悪そうな顔でくちびるを噛んで(子どもみたいな癖だけど、ぼくは嫌いじゃない)、それから、熱いうちに、と言う。焼き目がついたら熱いうちに出汁につけるの。ほうれん草とか、葉物のおひたしとはそこがちがうんだ。焼きびたしっていう。
 冷めるあいだに味を浸透させる、とぼくは確認する。浸透させる、あと焼くときに油の香りをつける、と妻は言う。それから、すこし甘みをつける。出汁を使うなら、味つけは本返し。ほら、わたしが週末に作り置きしてるやつ。あれは醤油と味醂を煮切ったものなの。それがうちのごはんに出してる味だよ。
 すこしの甘み、とぼくは言う。すこしの甘み、と妻は言う。