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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

背泳ぎができるようになった話

 背泳ぎができないと思っていた。

 十九のとき、つきあいでプールに行ったら、予想に反してひどく楽しかった。すぐに競泳水着を買い(つきあいで行ったプールではひらひらしたのがついたセパレートの水着を着たのだけれど、本気で泳ぐためのものではないことは五分で理解した)、区民プールの常連になった。

 当時は平泳ぎしかできなかった。それに、疲れるのは嫌いだった。今でも嫌いだ。それだから、ただだらだらと、タイムも取らず、休憩も取らず、延々と泳いだ。しばらくそうしていると頭のなかまで水洗いしたようになり、「なにもかもどうでもいいや」という気分になる。この「どうでもいい」は投げやりな感覚ではない。「すべてがひとしく無価値であって、自分という存在は偶然に存在しており、それについて責任をとる必要はない。役に立ったり良いものであったりする必要もない」というような、ぼんやりとこころよく、うす明るくてふんわりとした感覚だ。さらに泳ぎつづけると「なにもかもどうでもいい」といった言語すら溶解し、一個の動物として呼吸をするだけの存在になる。

 これは、と十九の私は思った。これは、とても、いいものだ。完全に頭を空にするというのはきっと必要なことなのだ。人間は動物でもあるのに、動物っぽくないところばかりで生きているほうがおかしいのだ。私たちは何らかの手段で一時的に情報を遮断し、自己の内部の言語を溶解させ、動物としての側面を取り戻す必要があるのだ。そう思った。

 走るのも嫌いではなかったし、走ることによっても「なにもかもどうでもいい」感が得られることは知っていた。けれども、走ることについてはささやかながら競技経験があったために、うっかりタイムを気にしたり、距離を稼ごうとしてしまう。つまり、走っているときの私は、何かを考えてしまう。それはそれで悪くないんだけど、頭がからっぽになる気持ちよさはない。それに、雨が降ると面倒だし、真冬は「なにもかもどうでもいい」スイッチが入るまで時間がかかる(たぶん、体温が上がるのに時間がかかるから)。その点、屋内プールにはなんの欠点もない。同じレーンで泳ぐ人々と自分のゴーグルさえまともなら、何ひとつ問題は起きない。

 そんなわけでだらだらと平泳ぎをし続けた。平泳ぎばかり十年近くしていると話すと親しい人たちはものすごく驚いた。どうしてそんなばかみたいなことができるのかと彼らは問い、完全なばかになるためにしているのだと私はこたえた。ゆったり泳ぐクロールもいいものですよとそのうちのひとりが言った。頭の別の部分が空になるかもしれない。

 それはいいなと思ってその人にクロールを習った。二十分でできるようになって、なんだそれは、と思った。教えるのが上手いのかと思って訊いたら、もともとできてた、とその人は言った。クロール用の腕の動かしかた、足の動かしかたをしていなかっただけで、言えばできるんだから、身体はもう学習済みだったんだと思う。一ヶ月に十キロ、少なめに見積もってこの十年近くで百キロメートル。それだけ平泳ぎをしていたらクロールなんか教わらなくてもできますよ。今のは「教えた」んじゃなくて「引っ張り出した」んだよ。

 そんなわけで、平泳ぎにクロールを織り交ぜて泳ぐことにした。私はクロールを気に入った。そうしてまた十年が過ぎた。バタフライには興味がなかった。疲れそうだからだ。私はスポーツにおいて極力疲れないことを望む。仕事で追い込まれると戦闘的な気分になっておおいに戦うけれども、スポーツではまったくその傾向がない。息切れとかしたくない。バタフライなんかぜったい息切れするし一生しなくて良い。

 ところで、リゾートホテルのプールというのはおかしな場所で、プールなのに本気で泳いでいる人はいない。本気で泳ぐための屋内プールがジムに併設されているホテルさえある。海が見える屋外の広いプールで、人々はてきとうに浮いたり沈んだりしている。

 ここにふさわしいのはゆったりした背泳ぎだ、と私は思った。私はできないけど、と思って、それから、十年前のことを思い出した。あれからさらに累計百キロは泳いでいる。それなら、教わる必要もないはずだ。そう思った。やってみた。あっけなく、できた。

 学習ってなんだろうな、と思う。メソッドを頭に入れて練習を繰りかえすのが、きっと効率的なんだろう。けれども、きっと誰にでも、私の「背泳ぎ」みたいなものは、ある。それを引っ張り出すことも、学習と呼んでいいのだと思う。私の「背泳ぎ」みたいなものを持ったまま気づかずにいる人は、きっといっぱいいるのだと思う。