傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

JR恵比寿駅23時36分の狼煙

 どうしてこんなところにいるんだろう。そう思う。自分も、向かいの人も。どうしてもこうしても、仕事上の必要がない相手を食事しようと言って呼び出したんだから、当たり前に適当なものを食ってるんだけど、お食事をしませんかという誘い文句の目的が食い物であるはずもない。その、食い物じゃない部分で思う。どうしてこんなところにいるんだろう。
 目の前の席を見る。女が座っている。楽しそうにふたことみこと話し、それから、目をそらす。そらしてもう一度、見る。ほんのすこしうつむく。ほほえむ。何かをかみ殺した口元。ひとつは食材だった動物。もうひとつは察してほしいせりふ。おそらく。
 楽しそうだな、と思う。楽しそうだし、なんだか不安定だ。そういう経験をしたことが、今までにないわけじゃないけど、思春期の病気みたいなもので、あとはだいたい相手をぼうっと見ていた。不思議だからだ。熱病の中にずっといるような人たちがこの世にはけっこういるのだ、と思う。熱病の記憶さえあいまいな中年になってもまだ、いちいちびっくりする。熱病の人をつぶさに見る機会がそれほど多くはないからかな。
 この人は若いから、と思う。でもそれは嘘だ。彼女は一回りも年下ではなくて、こちらはといえば、十年前どころか二十年前から「熱病」の覚えがない。だからたぶん人種がちがう。この人をどこかに連れていこうとすれば簡単なんだろうな、と思う。どうかすると彼女のほうから行きましょうと言うんじゃないだろうか。並んで歩きだすと距離が近い。身長差がちょうどいいな、と思う。極端に背丈があると、小さい人相手には何をするにもかがみこまなくてはならない。動作に邪魔が入るだけで目減りするくらいに衝動のエネルギー値が低いのか、と思う。情熱とかの持ち合わせがあんまりないんだ、年齢のせいだけではなくて。
 顔を離すと視界に彼女のかばんが入る。滑り落ちるのを途中で掴んで彼女の腕に戻す。ごめんなさいと彼女は言う。ごめんなさい、どきどきしちゃって全然だめ。せりふの途中で顔を上げたから語尾が掠れて消えた。耳があまりよくないと言ってあるから彼女はずっと、対面としては大きめの声に調整してくれていて、そういうところは好ましかった。でもそれは好ましいというだけのことだった。
 うらやましい、と思った。どきどきしたい。だめになりたい。まして全然だめになるってどんな感じがするんだろう。話し言葉なのにやけに文法の正確な、語彙の誤りのほとんどない(おそらくは声の調整と同じく、聞き取りが苦手なことに配慮してくれている結果としてよけいにその性質が強まっているのだと思う)この人が「全然だめ」と言う。その動揺が、うらやましかった。
 これは明確に年齢にともなうものだけれども、フィジカルな欲望はあまりない。だから女性に触れる動機は別にある。したいのではなくてできることを確認したいというたぐいの、たちの悪い欲望だ。ごめんなさい、と思う。ひどいことだ、と思う。学生の時分に、カントが「他者は手段ではなく目的でなければならない」と書いた本を読んで衝撃を受けたのに、二十何年経ってこのように接触している相手は明確に手段だ。つまり、自分はまだそこいらの女に好意を持たれることがある、ということを確認する、手段。ひどい話だ。相手に触れたいのではなく、どこまでも触れてかまわないと許可されることを確認したい。そのための手段が、彼女なのだった。
 「手段」が顔を上げる。意思をもった目がふたつ。顔は、きれいだ。多くの人がきれいだと言うような顔じゃなかったら「手段」として不十分だから、そういう相手じゃないとだめなんだ。でも強い意志は怖い。「手段」じゃない部分は怖い。怖いし便利じゃない。だから好きじゃない。
 まったく、ひどい話だ。というか、ひどいのは話じゃなくて、自分だ。改札の内側に押し込んだ女の後ろ姿をぼんやり見ながら、そう思う。女がくるりと振り返る。手を挙げる。手を振る。顔はもうわからない。顔がついているということくらいしかわからない距離が、彼女とのあいだに空いている。彼女は右の腕を垂直に上げ、手首から上だけを一度、ゆったりと回転させた。
 遠くの人に手を振るのはどうしてなんだろう。記号としてはものすごく下等だ。狼煙レベルに雑だ。見つけてほしいというならまだわかるけれども、これから別れる(しかも、なんならもう会わない)相手に手を振るのは、情報量としてゼロだ。ここにいます、という以上の情報がない。そう思う。でもやっぱり、自分でも手を挙げて、振る。狼煙。雑な信号。原初の記号。わたしはここにいます。