傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

三十代の余生

 交通事故に遭った。乗っていた車が凍った高速道路でスリップした。前後左右に大型のトラックが走っていた。制御をうしなった自動車の動きを後部座席から見た。その数秒のあいだ、運転手は前後左右をみてより助かる確率が高い方向にハンドルを切っていたのに、その他の席の二名も(あとから聞いたら)助かる方法をそれぞれが必死に考えていたのに、わたしは、ああ、楽しかったな、と思った。楽しかったな。そのほかにはなにも考えなかった。
 もちろん、わたしたちは生き延びた。全員が無傷にみえた(のちに一人だけが軽傷を負っていて、残りび三人は放っておけば消えてしまう痣だけですんだとわかった)。わたしたちはひとまずの安全を確保し、たがいのからだに軽く触れて身の安全をたしかめた。わたしたちは生きていた。わたしももちろん、生きていた。それだから、みんなと手分けをして事故の処理をした。他の車を巻き込むことがなくてよかったと思った。それから数ヶ月、その話はしなかった。直後にそんなことを言ったらいかにもほんとうらしすぎて、夫が動揺するだろうから。
 そろそろいいかと思って話すと、その話は事故のすぐあとに聞いたと夫は言った。それなりにショックだったんじゃないかな、記憶がところどころ欠落してるってことは。欠落なんかしてるかなあとわたしは思った。わたしは事故の状況もその後のことも克明に覚えているのに、夫に話した場面だけを忘れてしまったのだろうか。
 ともかく、と夫は言った。ともかく、とわたしも言った。わたし、自分は生き汚くてしぶとい人間だと思っていたけれど、意外とあっさりしてたみたい。もっと貪欲だと思っていたのに、わりと、人生に満足してるみたい。あのね、わたし、だからもう、たぶん、だいぶ前から、余生なの。ことばを切ったわたしを夫はながめまわし、鼻で笑った。なあに言ってんの、子どもまでこしらえておいて。それを聞いて、今度はわたしが鼻で笑った。小学校に上がったらもうそんなに手かからないよ、だいいちわたしは、自分がいなくなってもあなたが立派に育ててくれると思って産んだんだよ、そうじゃなきゃ産まない、親であればぜったいに生きていたいと思えるなんてあなたの幻想だよ、そうじゃない人だっているんだよ。
 ふうん、と夫はつぶやき、めがねをはずして呼気をふきかけ、シャツの裾で拭いた。きみのそれは、頭で考えた結論じゃないからねえ、きみとしてはもっと生き汚いのが理想だったけど、高速で事故に遭って「死ぬんだな」と思った瞬間にはそうじゃなかったわけだ、それじゃあしょうがねえや、楽しい人生だったならよかった、ささやがら僕も役に立ったんだと思える。余生、とわたしは言った。きみの余生、と夫はこたえた。
 生き延びることが人生の目的だった。わたしはかつて過酷な環境にあって、生き延びるためならなんでもしようと思っていた。わたしは、運が良かったと思う。手に入れたくて手に入らないもの、強くそばにいたいのに遠ざかってしまったものは、結局のところなかったように思う。わたしは、来る日も来る日も屋根と壁のある安全な部屋で眠り、まともなものを食べ、誰にも殴られず、自分で選んだ仕事をして搾取されることもなく、気の合う人と暮らして、子まで産んだ。その子も夫もおおむね健康だ。世はすべてこともなし。
 それなら人生これからかというと、まったくそうではないのだった。わたしはたぶん、退屈していた。生き延びることが目的の人間が生き延びてしまったら、あとはなにもないのだ。老後の生きがいを探して歩く退職者はこういう心持ちなのかなと私は思った。退職までにはまだ二十数年、どうかすると三十年ちかくあるけれども、退屈はすでにわたしの全身をくまなく覆っていた。手をのばしてもただずぶずぶと退屈ばかりに触れるような厚い退屈を、わたしは感じていた。忙しくないのではない。することがないのではない。そんなのはいくらでもある。忙しい忙しいと言いながら安全であることが、退屈なのだ。若いころほどではないにせよときどき徹夜もあるような職にあり、家ではこまねずみのように台所に立ち子を抱きかかえ、ときどき夫の話を聞いて、それでもどうしようもなく、わたしは退屈なのだった。
 余生、と友だちが言った。余生、とわたしはこたえた。わたしの話をひとわたり聞いて友だちは、いいよ、とちいさい声で言った。余生でも、いいよ、死ぬかなと思ったときにじたばたしなくても、いいよ、でもなるべく、生きていてほしいよ。