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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

向こう側からの会釈

 死者が私に向かってほほえむ。私は、それに慣れている。ときどきほほえみをかえす。彼らはとても遠いところにいるから、とても小さく見える。消そうと思えば私はそれを簡単に消すことができる。けれども、そうしない。
 なんの不思議もない。ネットワーク上に世を去った人のアカウントが残っているだけだ。多くの人が自分の姿をアイコンにする。ウェブ上のさまざまなサービスの上にみんなの姿が並んでいる。今の姿と大きくちがう人、ずっと同じアイコンの人、誰だか覚えていないような人。ずっと連絡していない人は、生きているか死んでいるかもほんとうはわからない。
 私のアカウントが接続している相手のなかで、はっきりと死んでいるのはふたりだーー今のところ。くっきりした笑顔がひとつ、ほとんど人物が特定できないぼやけた全身像がひとつ。知った人をなくしてはじめてそれを見たとき、首の下のほうに氷を当てられたような感触がした。不意打ちだからか、遺影よりも強く、不在の匂いがした。受け止めきれないものを見たり聞いたりすると、私は、心臓より先に首の下が反応する。冷たいような、あるいはごく細い針を複数さしこまれたような、ごく具体的な感触。場所もはっきりしている。背中側の首の下、上から五番目の頸椎。
 そのとき私は反射的にアイコンを非表示にしようとした。それから、やめた。どうして私は、親しくしていた人の、これまで幾度となく目にしてなんとも思わなかった小さな写真を、消したかったのだろう。そう思った。よくわからなかった。もう一度、アイコンに目をやった。彼は笑っていた。私も笑いかえした。そのようにして彼らは私の日常に組みこまれた。
 彼らは死んでいる。今のところ、ふたり。彼らが私にメッセージを送ってくることはもうない。当たり前だ。死んでいるのだから。通信はこの世の人のものだ。けれども、死んだ人は私にとって、はじめからいなかったのとはちがう。私は私の目を通さなければ世界を見ることがなく、私の耳を通さなければ世界を聞くことがない。そして私のなかには死者たちがいる。若くして私たちの前から毟り取られるように去った、死者たちが。だから、私の世界に死者がいるのはあたりまえのことだ。冥福を祈るとか、霊魂だどうだとか、そういう話ではまったくない。私はつまらない科学の子で、死んで焼いたら灰のほかに残るものがあるなんて思えない。けれども、私の世界は私から開けているのだから、私の内面に残された人の影は、私の見えかた、聞こえかた、感じかたに影響する。そういう話だ。コンピュータやスマートフォンにあらわれる死者の姿は、その感覚によく似合う。
 十代のころ、死者は遠いものだった。今はそうではない。年をとるごとに死者は、私にとって親しいものになった。私から隔絶した冷たく恐ろしい化け物ではなく、カーテンの向こうにいる当たり前の存在、気がついたらきっと私もそこにいるであろう身近な場所の住人として、死者は私のそばにいる。
 死が怖くなくなったのではない。今でも、死ぬのは怖い。一ヶ月に一回は真剣に死について考え、呻吟したあげく「わからない」という何百回目かの仮の結論を出し、怖い怖いと震えている。大人になれば平気になるわよ。むかしそう言われた気がするけれども、そんなの嘘だった。私はいまだって、死の気配を感じている。頸椎の上から五つ目の骨のあたりで。恐れおののくのが月に一度で済んでいるのは、仕事だの人間関係だのにかまけ、がつがつ食べて本を読んでぐうぐう眠り、眠れなければ薬を飲み、それでもって忙しい忙しいと言って目の前にある重要な問題を置き去りにする、のんきな大人になったからだ。適応したともいう。
 それでもときどき、死について考える。ほんとうは大人になっていないのかもしれない。遠い日の誰かの声が脳裏で再生される。ーー大人になったら、平気になるわよ。
 私は彼らのアイコンを見る。そもそもどうして死んじゃあいけなかったんだろうかと、そんなふうにも思う。怖いから死にたくないけれども、会えないのがつらいから死んでほしくなかったけれども、怖いのと私の都合のほかに、死ぬのがいけない理由は見つからなかった。だいいち、みんな死ぬ。私のいちばん年長の友だちは七十三で、いちど倒れた。しょうがねえや、と彼は笑った。そりゃあ死んだり死にそうになったりするさ、トシだからな。トシじゃなかったら、いけませんよね。私がそう訊くと、もう一度わらって、トシじゃなくても、しょうがないときはある、と言った。
 スマートフォンをみる。ちいさなアイコンをはさんだ向こう側に、彼らはいる。死ぬのはいけないことではない、と思う。私はこれからも彼らのアイコンを非表示にすることはないだろう。