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傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

生存率向上のための要件

 マキノさんお金あまるでしょう、この歳になると。うん、ちょっとだけ余る、若いころと生活がそんなに変わらないからかな、家賃をすこし上げたくらい。そしたら差額が余る、と。そう、意識して切り詰めてるわけでもないんだけどね、根が貧乏性なんだと思う。身についた貧乏性。そう、身についた貧乏性、なにも考えずにいたら、たとえば魚だと、鯵と鯖と鮭のローテーションになる、あと季節のもの。つまりマキノさんには一人前あたり二百円以上する素材の選択肢があんまり見えなくなるフィルターがかかってるのか、貧乏性フィルター。たぶん、それと手間暇かかる料理を避けてる。あはは、ずぼらフィルターもかかってるんだ。
 そう、根本的に貧乏性でずぼら、こないだ暇だったから、えっと、休日が一日あいてて、あと気持ちが暇っていうか、刺激を求めている感じ、だから隣町の立派な魚屋に出かけて平目のいいやつを買った。えっ、平目で心が暇じゃなくなるの。そりゃあもう、どきどきするからね。よく考えろ、外食だとそれくらい平気で遣うだろ。それはそれ、これはこれだよ。
 そのアンバランスはなんだろう、引っ越しは平気でするくせに。引っ越しなんて不動産を買うのに比べたらたいした出費じゃない、賃貸には更新費用というものが発生するのだし。腰を落ち着けたいという欲求はないのか。あんまりない。北斎かよ。北斎ほどじゃないよ。
 でも僕も今もってるマンションがないとだめってわけでもないな、なにかあったら売っちゃってもいい。あ、そうなんだ。そう、だって、これがなくてはいけないというものが多ければ多いほど戦闘力が落ちるからね。戦闘力。そう戦闘力、人生の。なにと戦ってるの。なんだろう、世の理不尽とか。
 たしかに、世界は理不尽だ、だから防衛しようとして家を買ったりするのかと思ってた、とくに、守るべき家族がいる人は。うーん、それは、ちょっと偏見かな、子どもは、もちろん守るけど、両親の片方が残ってればおおむねOKだと思うし、妻なんか大人だからあした僕が消えても平気だ、えっと、悲しんではくれると思うけどね、とにかく、住処を所有していなければならないということはないよ、場合によっては、現金のほうが強いし。
 現金ねえ、それもたいしたものじゃないと思うな、あったほうがいいけど、通貨の価値は変わるから、ものに替えておいたほうがよかったってこともあるでしょうに。たしかにね、本質的には保険商品や金融商品も同じだ。私は、そういうの考えるのめんどうくさいから、持ってないや。ほんとにずぼらだな、マキノさんは。
 そうやって考えると必須のものって、私、ないかもしれない、平目どころか鯖も買えなくなっても、たいていのもの食べられるし、部屋も結局のところ屋根と壁があればいいし、最悪、地面で寝るし。それは強いな、比喩だけど、世の中には平目が食えないと嘆き悲しんでめっちゃ弱る、みたいな人、けっこういるから。いるみたいだね、私にはうまく理解できないけど。
 とはいえ、マキノさんでも、仕事は絶対に必要だろ、定期的に稼ぎが入る安定感、「世間なみ」意識がもたらす安心感、これがないとさすがに自己が揺るがされるんじゃないの。うん、仕事は必要だねえ、でも今の職場じゃなくちゃいけないとか、こういう仕事じゃなくちゃいけないというのは、ない。え、ないの。だって、私なんか、いつ取り替えられても不思議はない、私は、天才じゃないし、特別な経験や能力もないよ、いま気に入った仕事ができているのはただの運だよ、無職の危機に陥ってもわりと平気だった。
 平気なのは別の意味でまずいだろう。平気で失業保険を申請して求職活動をすればいいんだよ。そうかあ、僕は平気じゃいられない、仕事に自分をあずけている部分はけっこうあると思う、無職になったら精神的にも打撃くらうと思う。そこが防御の弱いところなんだね。うん、僕はそう、自分はほとんど何にも固執していないと思ってたけど、そんなことないな、仕事にはけっこう、執着しちゃってるな。
 それはいいことだと思うよ。そうかな。うん、大切なものがあるのは、いいことだよ、「仕事をまっとうしなければ」とか「家族を守らなければ」とか思って踏ん張れるからね、そういうのがないと、なんかやる気がないときに大波が来たら、「まあいいや」と思って抵抗しないで引っ張りこまれちゃうでしょう。「まあいいや」なんて思うかねえ。思うこともあるんじゃないかな、がんばれば助かるかもしれなくても、がんばる気力がなくって「このへんでいいか」って。