傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

夢三夜

 久しぶりに夢を見た。
 彼女は目を覚まし、詰めていた息を吐き、いつもと同じように起床の儀式をおこなった。彼女は個人的な就寝の儀式と起床の儀式を持っている。起床の儀式はベッドのなかに入ったまま何度かまたたきをし、片手でカーテンをあけるところからはじまる。寝起きの思考は胡乱だ。時系列がほぐれて、今とそうでないときが目の前で混じって揺れている。
 彼女はぼんやりと思う。あの人に死なれたときには自分の立ち位置がよくわからなかった。今ではわかる。立ち位置なんかない、ということが。私的な情愛なんてあてにならない記憶のなかにしかない。ひとりで「ある」と言い張るのは疲れる。ふたりで言いあってようやく存在するようなものだ。片方が消えてしまったら、関係というのは、はじめからなかったのとたいして変わらない。
 そんなとき、かろうじて恋愛だけが特権的な立ち位置にある。「他人じゃない」のは親族で、それに準ずるものとして、婚姻の可能性、すなわち親族になりうる二名が位置づけられている。ふたりの関係が恋愛でなかったら、何もないのと同じことだ。他人も他人、無関係の他人だ。
 死んだところを見ればまだ区切りがつくんだろうけど、と彼女は思う。身体が消えたあとに何を見ても、たいした感慨はなかった。ほとんど自動的に「気の毒な遺族への礼儀正しい振る舞い」を執り行った。おおっぴらに嘆き悲むのは「遺族」のすることだ、という意識があった。
 遺族に挨拶をした次の日に夢を見た。ふだん見た夢をあまり覚えていない彼女にしては、きわめて鮮明な記憶だった。ほとんどの現実よりも鮮明だった。もちろん、死んだ人がほんとうは生きていたという夢だ。その人は、親しくしていたみんな(彼女もそのなかにいる)に囲まれて、よかった、よかった、と手を握られ、肩を抱かれていた。手足が動いていて、笑ったり照れくさそうにしたり、していた。
 目をさましてから、さっきの、どうにか写せないかな、と彼女は思った。私の頭のなかにある情報なのにどうしてとっておくことができないんだろう。
 一週間後に、また夢を見た。
 彼女は、その人がすでに死んでいることも、それが夢であることもわかっていた。前の週の夢と同じく、目の前の人の外見はあざやかだったけれども、存在するのは立っている像だけで、動かず、人の気配はなく、触れたら空気だった。当たり前だと夢の中で彼女は思った。死んでいるのだから。これは私の夢、私の記憶と想像の部分的な再生なのだから。
 目を覚ましてから彼女は思った。私はあきらめが早い。もう少しじたばたするものだと思っていた。死の受容には五段階あると聞いていたけれど、二段階で済んでしまった。五段階というのは自分が死を宣告されたときの話で、「我がこと」じゃないから適当にスキップしちゃうんだな、と思った。所詮は他人事なのだ。私は早晩、あの人の顔も忘れてしまうだろう。写真を見てもぴんとこないくらいに。
 彼女はそれから平気で一年を過ごした。多少気が塞いでも、規則正しい生活を維持し、仕事では新しい挑戦を控えて最低限のクオリティを守り、できるだけ週末の休養を確保して、適度な有酸素運動をおこない、たまに誰かに話を聞いてもらえばだいたいどうにかなる、というのが彼女の持論だった。オプションとして映画を観たり本を読んだり音楽を聴いたりしてやたらと泣き、必要に応じて処方薬を使用し、現世的な贅沢のひとつもすれば、次の日にはいつもどおりだ。彼女はそれらを適宜遂行した。人に死なれたから自分がどうにかなるということはない。「遺族」じゃあるまいし。
 そう思った。
 そうして久しぶりに、死んだ人の夢を見た。夢の中で、やっぱりその人は、死んでいた。すっかり死んで、もういないのだった。その人と親しくしていたみんなが集まって泣いていた。話にしか聞いていなかった人々もいた。彼女はその場の全員のことを、なぜだか知っているのだった。そうしてひとりひとりと手を取りあい、一緒に泣いた。その人を捨てたかつての恋人も泣いていた。彼女は、あなたのせいじゃない、もちろんあなたのせいじゃない、と言って一緒に泣いた。その人が捨てたかつての恋人も泣いていた。彼女は、こんなにすてきな人を振るなんてどうかしてると言って一緒に泣いた。どうしてそんなにも激しく泣いているのかわからない人物もいた。彼女は不審にも思わず、一緒に泣いた。そこではみんなが泣いていいし、取り乱してもいいのだった。関係に名前がついて、悲しみかたを指定されることはないのだった。
 夢だよ、と彼女は言った。ただの夢。現実はそうじゃない、もちろん。でも夢というのはいいね、とても便利なものだね。

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