傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

無駄のない生活

 の生活には無駄がない。

 朝は五時に起きる。ごく軽いストレッチと筋力トレーニングを済ませ、シャワーを浴び身支度をして部屋を出る。僕の住んでいるマンションでは二十四時間ゴミ出しを受け付けてくれるけれど、その恩恵にあずかっているのは僕というより、二週間に一度頼んでいる掃除の業者だ。

 電車に乗り、電車を降り、歩き、六時半にデスクに着く。当然ながら誰も居ない。駅から会社までの道のりにあるコンビニエンスストアで食事を仕入れ仕事をしながら胃に入れる。昼食と間食と一日分の飲み物もあるから、コンビニエンスストアの袋はけっこうな大きさになる。それをデスクの足下に置き、仕事をしながら消費する。

 するべきことはいくらでもある。自分自身の作業をしながら人を管理しているのだから、のんきに定時に来る人間は何をしているのか不思議だ。自分の担当する作業のクオリティは高く保つ。部下は必ず何か間違っている。それを見つける。直す。指示を出す。説諭する。

 そうこうするうちに人がやってくる。僕のもっとも生産的な時間が終わる。挨拶をしなければならないからだ。おはようございます。おはようございます。お疲れさまです。今日も冷えますね。あっという間に年末ですね。先週は二次会まで行かれたんですか。

 僕は話しかけるべき人間に話しかけ、話しかける必要のない人間には話しかけない。何か言われればなるべく早く終わるよう返事をする。すなわち、適度に愛想よく、穏当に、相手が早々に満足するように。話しかける必要のある人間は言うまでもなく、上長と直接の部下と業務上の依頼をする相手だ。

 視界の端を気味の悪い女が横切った。近ごろ僕と同じ規模のチームを率いるようになった女。向こうが僕を嫌っているのは露骨に顔に出てるからわかるけど、僕は嫌いというより気持ち悪い。足が大量にある虫とかに対する感覚に近い。普通いやだろ、そんなのが職場にうろうろしてたら。

 ほかにも嫌いな人間は何人かいる。そいつらが視界に入らないように配置を変更するには僕がこのフロアを取り仕切るしかない。上長はいつ引退するんだろう。そろそろ世代交代して僕あたりを上に持ってくるのが正しい判断だろう。実際、僕は例外的にいろいろ兼務しているのだし。

 僕はいつも笑顔だ。感じのいい笑顔、と元妻が言っていた。誰にとっても感じのいい、汎用的な、無感情の、笑顔。あなたそれ何種類持ってるの。一ダースはあるわよねえ。上手に使い分けるものよねえ。あのね、あなた、人はねえ、楽しいときに笑うの。忘れちゃったのかもしれないけど、楽しいときに笑ってたことだって、あなたには、あった。あったの。わたし、一緒に笑ってた。ねえ。聞いて。わたしの話を聞いて。

 僕は首を傾ける。頭をゆっくりと左斜め後ろに傾けると思考の中からよぶんなものが落ちて頭の中から落ちていくしくみになっている。そういうシステムは訓練でつくりあげることができる。だって、自分の頭の中なのだから。条件反射を何度も何度も繰りかえせばスイッチひとつで効率的に、頭の中も片づけることができる。物理的なゴミとちがって出す手間もない。誰かに燃やしてもらう必要もない。

 社屋が閉じる時間が迫る。僕は会社を出る。往路で使用するコンビニエンスストアとは道路をはさんで反対側の、別のチェーンのコンビニエンスストアに寄る。空腹であるような気がするときにはたいてい蛋白質が足りていないので、そのようなものを買う(野菜は昼食で過剰なまでに摂っている)。イートインコーナーで食べる。食べないこともある。いい年して三食も要らないだろうと思う。

 コンビニエンスストアを出る。路地に入る。誰かが通っているところをおよそ見たことのない路地だ。夜のコンビニエンスストアで必ず買うのは水と蒸留酒の小瓶だ。僕はまず安定剤を取り出す。ポケットから片手で個包装からぷちりと取り出すほどに慣れている。僕は安定したいんじゃない。もともと安定している。これ以上ないくらい安定している。安定剤は仕事モードの頭を「落とす」ためのものだ。効率の良い睡眠のためには徒歩を含めて四十分の通勤時間を無駄にするわけにはいかない。睡眠のスターターは安定剤と蒸留酒の小瓶およそ半分。摂取に必要な時間は五分。電車に乗る。最寄りの駅に着く。こちらにも「いつもの路地」がある。睡眠薬蒸留酒の残り半分を投下する。八分後には自室だ。時刻は午前零時近く。清潔を保つための夜のルーティンを終えるとベッドまでの距離を無限に感じる。今日も、と僕は思う。今日も無駄のない一日だった。

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